第十一話 豊穣の女神
夏の陽射しは神域にも等しく降り注ぐ。庭の葉は緑を濃くし、風に揺れる影はくっきりと地に落ちていた。
そんな中でも庭の桜だけは変わらず、季節を切り取ったように薄桃色の花弁を結んだまま佇んでいた。
奈珠那は洗い終えた布を干して、縁側に腰を下ろしているところだった。
神域での暮らしにも、少しずつ「日常」と呼べるものが生まれている。それが奇跡のようなことだと、彼女自身が一番よくわかっていた。
「奈珠那様、お疲れ様です」
背後からかけられた声に、奈珠那は振り返った。
「ありがとう、珀弥」
感謝の言葉を口にすることにも、以前のような躊躇はなかった。
ひと仕事終えたように「んー!」と伸びをした珀弥が並んで縁側に座る。
「今日も平和ですね、奈珠那様」
「ええ」
「仕事にも精が出ますよ」
「珀弥の場合は、頑張りすぎな気もしますけど」
「いえいえ、奈珠那様だって」
珀弥は「様」という敬称で呼ばれることを嫌がった。最初こそ抵抗があったものの、名を呼んだ瞬間に見せる屈託のない笑顔が、心を少しずつ和ませてくれていた。
穏やかな時間。
縁側の向こうでは、神域の主──瓊環が静かに庭を眺めている。その横顔を見ているだけで気持ちが落ち着いていくのを、奈珠那はもう否定しなかった。
──この平穏が、ずっと続けばいいな。
そう願った瞬間だった。
「た・ま・きぃ〜!」
場違いなほど明るい声が神域に響き渡り、風が跳ねた。庭の草花が一斉にざわめき、空気そのものがかき乱される。ぽうっと浮かび上がった光の中から、ひとりの女が姿を現した。
肩を大胆に晒した艶やかな着物。豊かな布地は花街の花魁を思わせるが、まとう空気はそれよりもずっと高貴で、近寄りがたい。青々しい葉が露を弾いたような翠色の長い髪は高く結い上げられ、飾り紐が陽を受けて煌めいている。
女性は迷いのない足取りで瓊環へ駆け寄ると、そのまま彼に抱きついた。
「久しぶり、瓊環。相変わらず堅っ苦しい顔ね。そこもかっこいいけど」
「……天寧」
瓊環は、その抱擁を受け止めざるを得ないようだった。近すぎる二人の距離が、奈珠那の目に焼きつく。
──あれ……?
胸の奥が、わずかに軋んだ。小さな棘が引っかかったような、感じたことのない違和感だった。
「うっとうしい。離れろ」
「瓊環、冷た〜い」
奈珠那は二人のやり取りをぼんやりと見つめながら、無意識に指先を握りしめていた。
「珀弥……あの人は……?」
「あの人は豊穣の女神、天寧様です。瓊環様とは、古くからのご縁のあるお方でして」
珀弥はそう言って、少しだけうんざりしたように視線を外した。
「よく訪れては、勝手に騒いで帰られるのですよ」
「ちょっと、珀弥。『勝手に』は余計でしょう?」
「事実ですので」
軽く言い合う二人の様子は、どこか気安く見えた。神同士だから、という言葉では片付けられない距離感がそこにはある。
奈珠那は胸に残った違和感を無理やり押し込めた。瓊環は神様で、ここは神の世界。本来なら、自分が並び立てる場所ではないのだ。
──当たり前……のことなのに。
どうして今更、こんな場違いとも思える感情が込み上げてくるのだろう。はじめから、わかっていたことなのに。
この場にいればいるほど、自分の立ち位置がはっきりしてしまいそうだった。
「お客様でしたら……私、お茶を用意してきます」
「あ、それならオレが……!」
珀弥の言葉を待たず、奈珠那は首を振る。もっともらしい理由を口にして、逃げるように台所へ向かった。
⁂
台所は静まり返っていた。その静寂に、奈珠那は少しだけ胸を撫で下ろした。
火を起こす準備をし、やかんに水を張る。いつもと同じ手順のはずなのに、指先がわずかに震えているのがわかった。
──私、なんだか変……。
理由はわからない。ただ、押し込めたはずの小さな違和感は消えず、胸の中で燻っていた。
湯を沸かすため竈に火を入れようとしたところで、人の気配が近づいた。
「奈珠那」
びくりと肩が跳ね、手が止まる。振り返らなくても誰が呼んだのかすぐにわかった。
「……瓊環、様」
彼は戸口に立っていた。光を背にしているせいで、表情までは読み取れない。それでも、金色の瞳がまっすぐ自分に向けられているのはわかった。
「どうか……されましたか? せっかく天寧様がいらっしゃってるのなら……」
「あいつのことは、どうでもいい」
言葉が遮られるほどの即断だった。温度のない声音なのに、冷たさは感じない。
「お前の様子がおかしい。それだけだ」
一瞬、奈珠那の息が止まる。心配をして来てくれたのだろうか。
淡々とした言い方だったのに、そう思った途端、胸に刺さった棘が音もなく抜け落ちた気がした。
「あの……私……ここにいても、いいのでしょうか?」
なぜ、そんなことを口走ってしまったのだろう。
あの夜、瓊環から契約の証として額に口づけされたことを思い出した。
あのときは確かに、自分の居場所がやっと見つかったような感覚さえ覚えた。だがそれは、風が吹けば揺らいでしまう灯火のように、すぐに不安へと傾いていく。
慣れてきたつもりでいた。居場所を与えられ、拒まれず、責められずに過ごす日々だったのに──心の奥では、ずっと怯えている。これはいつまで許されるのだろう、と。
「くだらない」
ため息をひとつ落とす瓊環。
「契約は続いている」
「……はい」
「それが答えだ」
言い残し、瓊環は踵を返す。
「……ありがとうございます」
ほとんど息に紛れるほど小さな声だった。だとしても、感謝の言葉が考えるより先に自然とこぼれ落ちた。誰よりも、奈珠那自身がいちばん驚いていた。
瓊環の足音が止まる。
「茶を淹れたら、早く戻って来い」
背中越しに響いたその声は、命令でありながら、奈珠那の存在を認める合図のように聞こえた。
再び歩み去る背を見送りながら、奈珠那は胸に手を当てる。
台所には湯の沸き始める音と、少し早まった自分の鼓動だけが残っていた。




