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【完結】万年桜の生贄婚 〜咲かぬ桜の神と生贄少女の一年契約〜  作者: 葉南子@「ツキヨム」コン大賞・楽曲化
第二章 生贄少女の恋敵

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第十話 契約の証

 まぶたの裏に淡い光を感じた。沈んでいた奈珠那の意識が、徐々に引き上げられていく。

 ゆっくりと目を開くと、部屋は月明かりに満たされていた。


 ──夜……?


 ぼんやりとした頭のまま息を吸うと、昼間よりも凛とした空気がすとんと肺に満ちる。うなされるような熱や全身の倦怠感は、初めからなかったかのように抜け落ちていた。


「奈珠那様……!」


 寝台の傍らから焦った声が飛んだ。顔を向けると、小さな神使が覗き込んでいる。青磁色の瞳は潤み、ふさふさの耳も不安げに伏せられていた。

 

「珀弥……様」

「ごめんなさい。オレ、全然気づかなくて……」


 珀弥は深く頭を下げた。

 

「珀弥様は、何も悪くありません。私が……勝手に無理をしていただけですから」


 奈珠那は上半身を起こし、胸に手を当てる。鼓動は緩やかで呼吸も苦しくない。

 少しだけ、それがかえって不思議だった。


「瓊環様が力を使われました。だから、もう大丈夫です」

「……そう、だったんですね……」


 あの心地よい温もりは夢ではなかったのだと、奈珠那は改めて実感した。

 

「喉、乾いていませんか? オレ、お水持ってきますね」


 珀弥は小さな足音を立てて、寝台から離れていく。その背を見送りながら、奈珠那は胸に苦く込み上げるものを感じていた。

 休ませてもらい、看病までされて、何も言わずに眠ってしまった自分。


 ──また、ご迷惑をかけてしまった……。


 それが真っ先に浮かんだ思いだった。


「お待たせしました」


 急ぎ足で戻ってきた珀弥が、両手で大切そうに水の入ったグラスを差し出す。奈珠那はそれを受け取らず、俯いていた。

 

「奈珠那様? 大丈夫ですか?」

「……あの……」


 言葉が喉につかえる。布団の端を無意識にきゅっと握りしめていた。

 

「瓊環様は……怒って、いませんか……?」

「え?」

「ご迷惑を……かけてしまったので……」


 瓊環に世話を焼かせてしまった、手を煩わせてしまった。それは奈珠那にとって、「怒られて当然」のことである。

 珀弥は一瞬きょとんとした顔をしてから、困ったように笑った。


「怒る、ですか?」

「はい……。勝手に倒れて、お力まで使っていただいたなんて……」

「うーん」

 

 少し考える素振りを見せて、首を振る珀弥。

 

「怒ってなんかいませんよ」


 言葉を選ぶように、珀弥は一度視線を落とす。青磁色の瞳が隠しきれない何かを含んで揺れた。


「瓊環様、何度も様子を窺(うかが)いにいらっしゃってましたから。とても、心配されてました」

「……そう、なんですか……?」


 それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。怒っていないことへの安堵なのか、または戸惑いなのか、自分でもわからない。


「お水、ここに置いておきますね。何かあったらすぐ呼んでください」


 軽く会釈をし、珀弥は奈珠那を気遣うように部屋を出る。障子を静かに閉める音だけが神域の夜に響いた。

 

 月明かりが障子越しに部屋へ差し込んでいる。与えられたこの部屋や寝台が、初めて自分の部屋だと思えるくらい安らぎと安心感に満ちていた。

 布団に身を預けたまま、奈珠那はかすかに息を吐く。


 追い出されなかった。責められなかった。厄介者として、切り捨てられなかった。それどころか、神である彼が自分のような人間のそばにいてくれた。


 その事実は、月明かりよりもあたたかく奈珠那の心を照らしていた。


 ⁂


 枕元に置かれた水で喉を潤す。清らかな冷たさだ。ひと口含むだけで、手足の先まで水分が巡った。

 

 乾ききっていた身体が目を覚ましたころ、奈珠那は寝台から降りた。

 着ているのは、見慣れない寝巻きだった。柔らかな手触りの白絹。着物の締め付けを感じなかったのは、この寝巻きに替えられていたからだろう。これも神の力だと、すぐにわかった。


 ──瓊環様……。


 胸がざわつく。恐れや不安に紛れて、安堵が広がってしまったことに奈珠那は気づいてしまった。

 初めて受けた、無償ともいえるような優しさ。その源に──触れてみたい。

 衝動に背を押されるように、奈珠那は部屋を出た。


 廊下を抜け、縁側に出る。夜の神域は、ひっそりと息づいていた。

 夜更けの月明かりに照らされた庭は、昼とはまるで別の顔をしている。手入れの行き届いた白砂の庭園は、月光を反射して銀色に輝き、池の水面は鏡のように空の星々を映していた。

 神秘的ともいえる庭で何より目を惹かれたのは、桜の並木だった。内側から淡く光を放ち、枝先までその輝きを行き渡らせている。

 月明かりが反映しているかと思ったが、どうにも違う。夜露の反射とも。それは、永い時を生きた神の意志そのものが、形を得て立ち並んでいるかのようだった。

 

「……綺麗」


 思わずこぼれた言葉は、夜の輝きに吸い込まれていく。


「起きたか」


 振り返ると、瓊環が立っていた。月光を背に、金の瞳が静かに奈珠那を映している。


「……あ……はい」

「ならいい」


 短く頷いた彼は、それ以上何も言わず縁側へ歩み寄り腰を下ろした。

 少し迷ってから、奈珠那も隣に正座する。夜気に晒された板張りは冷たかったが、不思議と寒さは感じない。視線を上げれば、月光に照らされた桜並木と、それを眺める瓊環の端正な横顔があった。


「人間は脆(もろ)い」

「……はい」

「契約の途中で勝手に死なれては困る」

「……はい。もう二度と……ご迷惑はおかけしません」

「お前は本当に極端だな」


 呆れたような息が瓊環からこぼれる。

 奈珠那はしばらく言葉を探すように指先を弄んだ。ほのかな光の下で、その仕草がやけに幼く見える。

 

「あの……瓊環様」

「なんだ」

「私……こんなにも身体と心が軽いのは、初めてで……」


 言葉に想いを込めるように一拍置く。

 

「だから……私を受け入れてくださって、ありがとうございます」


 瓊環は初めて桜から視線を外し、奈珠那を見やった。

 月明かりを吸って煌めく金の瞳が、こちらを見つめている。いつもなら伏せてしまうはずの視線も、今は逸れない。胸を満たす感謝と、誰かを頼ってもいいのだという安堵が、彼女の目を上げさせていた。

 

「勘違いするな。情ではない」

「それでも……嬉しいです」


 沈黙が落ちる。やがて瓊環は、小さく息を吐いた。


「厄介なやつだな」


 呟いたあと、瓊環は身を乗り出す。奈珠那の頬に指先を伸ばし、添えた。


「……瓊環様?」

 

 奈珠那が戸惑いを見せるより先に、月光を宿した瓊環の唇が額に触れた。

 その瞬間、奈珠那の思考がふっと白んだ。触れたのは一瞬だったのに、額には確かな温もりがかすかに残る。その温もりが、身体の芯にまで行き届いていくような感覚がした。

 

「契約の証だ」


 瓊環の表情は、依然として無感情だった。  


「二度と、俺の許可なく倒れるな。この刻印が、お前の命を保つ証だ」

「……はい」


 額の温もりは、身体を巡ってすぐに消えてしまったはずなのに。なぜか胸の奥だけには、灯火のように残っていた気がした。

 月の下、桜は煌々と光を宿し続けている。その淡い輝きの中で、奈珠那の呼吸がゆっくりとほどけていった。


 ──ここにいても、許されるのかもしれない。


 あまりにも小さな予感。けれど、これまでの人生で一度も抱いたことのない温かな感情だった。

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