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白化行路(Hakka Kouro)  作者: しげみち みり


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12/20

第12話「岬の灯、終」

 朝の端で、灯の名残がちらりと立ち上がり、すぐに消えた。

 海上の遠く、崖の上。灯台のガラスが白く光ったように見えたのは、一瞬だけ。錯覚かもしれない。それでも風は、胸の奥でその光の高さを知っていた。あの高さは、岬の肩の線と同じところにあった。


 昼、風下の丘から、骨拾いの男が降りてきた。

 肩に骨鈴をいくつもぶらさげているのに、音は鳴らない。鳴らさないように、彼は足を柔らかく運ぶ術を知っている。粉を巻き上げない。砂を怒らせない。歩幅は短く、踵は浅く、地面に触れる時間が短い。


 「岬が、落ちた」


 男はそれだけを言った。言い終えて、胸の前で指を二本立て、一本に折る。誰かが減った、の合図。

 「夜が短くなった朝だった。灯は一度だけ強く、次に弱く、三度目がなかった。骨の階段で、ここまで来るあいだ、ずっと同じ高さで風が鳴った」


 海は目を閉じた。灯室で芯を切る手順。油を注ぐ所作。岬の、無駄のない身体の記憶。名前はとうに白に溶けていたはずなのに、“岬”という呼び方だけは、固い名詞として体に残っている。場所の名であり、手順の名であり、人の名だったもの。


 「戻る?」

 男が問う。


 風は首を横に振った。

 戻るという選択は、今の方向を白くする。背中に置いた拍が濁って崩れる。戻れば、灯の消えた場所に自分たちの拍を置くだけになってしまう。灯は、誰かの命の高さで立っていた。高さだけ思い出せば、方向は守れる。


 「歌う」


 風は立ち、喉の奥で短い旋律をつくった。灯台へ向けた歌。灯へではない。灯の“手順”へ。

 芯を切る。油を注ぐ。火を近づける。風を読む。

 彼が口をひらくごと、胸骨が内側でコツコツ鳴る。骨鳴りが一拍目になり、声が二拍目になり、沈黙が三拍目になった。三拍目は、いつもより少し遅く置いた。


 海は隣で、一度だけ舞った。歩幅は小さく、踵の落とし方は浅い。灯の階段を上がる所作を借りて、舞は上へ向かう。右足の前に左足を軽く通し、腰を捻り、手の甲で見えない手すりを撫でて、もう一段。

 骨拾いの男は帽子のつばを下げ、鈴を一つだけ鳴らした。低い、遠い、返事。

 誰かが見ているのではない。手順に返事が返ってきた。そういう音だった。


 歌い終えると、風は静かに息を吐いた。胸の骨の間が少し痛んだ。痛みは残りやすい。名より長く、声より遠くへ残る。

 「行こう」

 海が言った。涙はない。泣き方は遠い。けれど足は前へ行く。足の前には、灯のない夜。灯のない夜に、二人の拍だけを置く。


 骨拾いの男は、短い道具をひとつ差し出した。棒の先に巻かれた擦り切れた布。白を払うためのもの。

 「持っていけ。灯がなくても、払い手は残せる」

 風は受け取り、男の手の甲に短い線を一本置いた。ありがとう、の代わり。男はうなずき、砂の低い方へ戻っていった。背中の鈴は最後まで鳴らなかった。


 *


 昼の残りは、崖の影を拾いながら進んだ。

 海は舳先に立ち、風上の角度を目で測る。風は舟縁で、沖と岸の気泡の合間を読む。潮の円は朝より狭い。狭いぶん、選びやすいけれど、誤りは深くなる。

 「拍、確認」

 「一、真ん中。二、右。三、左。四は止まる」

 「うん。今日は、四を長くしない」

 四は止まる拍。止まりすぎると、白が寄って来る。白は止まっているものが好きだ。動いているものを食べるのは、少し苦手だ。


 潮が速い。骨鈴は音を重ねすぎて高低が分からない。風は目を閉じ、自分の胸の骨が鳴らす三拍を指でなぞる。海の足音が甲板に置く二拍に重ねる。二と三の間の、わずかな隙間が舵になる。

 海は腰をひとつ前に送り、左の踝を沈め、右の肩で空気を押す。押した空気が舳先へ流れて、舟の向きがひと目盛り分だけ変わる。

 「いい」

 海が息の端で言う。

 「いまの角度、波線三つで」

 風は貝手帖の端に波線を刻んだ。波線は拍の数。三つなら左へ。二つなら右へ。矢印は、もう頼れない。丸くなる。丸くなると、同じ線で別のことを言い出す。


 午後、骨の水平線の上に、崖の白が小さく浮き上がった。あの高さ。心が、勝手に測る。

 「岬」

 海が小さく呼ぶ。呼び方は人の名に似ているけれど、指しているのは手順と高さ。

 近づくほど、風の胸の内側で音が増えた。太鼓の残響のような低い鼓動。幼いころの夏。屋台の灯。誰かと並んで歩いた、あの川沿い。

 思い出そうとすると、白の膜が口の中に貼りついて、音を吸う。

 「大丈夫」

 海の声が短く入る。海は仮の名で呼ぶのをやめなかった。

 「風」

 風はうなずき、自分の名前の影に触れる。影ならまだ言える。影は食べられにくい。


 崖の手前、潮が途切れ、白い帯が横たわっていた。潮汐線。

 「越える?」

 「越える」

 「拍はそのまま?」

 「二を左、三を右。昨日の反転のまま。四は、止まらない」

 海が立ち位置を半歩変え、風は櫂を立て直す。

 拍、一。真ん中。舟が水平に伸びる。

 拍、二。左へ。舟の底がわずかに沈む。

拍、三。右へ。舳先が軽く跳ねる。

 四の拍は、遅れに置き換えた。止まるかわりに、少しだけ遅れる。遅れるほうが、越えるときは安全だ。


 白い帯を渡る間、音は裏返り、世界が薄くなる。骨鈴は鳴らない。胸の骨だけが鳴る。

 越えた先で、潮が肩を貸してきた。押すのではなく、支える圧。舟は圧に乗り、崖の裾へ滑る。

 「着けるよ」

 海が指で崖の窪みを示す。風は頷き、舟の骨を砂に噛ませ、縁に布をかけた。粉を払いながら、彼は崖の上を見上げる。そこに灯はない。ないのに、高さだけはある。


 *


 崖を登るのは、諦めた。骨の階段は、砂で埋まり、手すりの代わりの貝縄は白く折れていた。

 「ここで、灯を作ろう」

 海が言った。

 「砂灯にする?」

 「うん。岬の手順の高さで」

 崖の陰の窪地に、砂を薄く掬って器にし、貝を内側に向けて並べる。三歩と二歩。浅く埋め、風の向きに口を向ける。昼は黙らせ、夜は歌わせる。

 風は、灯台の手順を思い出すように、器の縁を指で整えた。芯はない。油もない。けれど、貝の内側には光の通り道がある。海がそこへ指先で拍を置く。拍が貝の曲線を走り、砂の膜で少しだけ反射する。


 日が傾くと、砂灯はかすかに白く息をしはじめた。灯りではない。白の呼吸の影。影は夜の手前でいちど強くなり、すぐに戻る。

 海は踵で砂を押し、道の印をつける。崖の裾から舟まで。舟から崖の裾まで。迷っても戻れる。戻らないけれど、戻れる手順は置いておく。

 風は棒の先の布で、崖際の粉を軽く払った。払うたび、足場が短く見える。短いほうが、迷いにくい。

 「灯は?」

 海が訊く。

 「灯は、ここ」

 風は自分の胸骨を指で叩き、遅い三拍を置いた。海が同じ拍で返す。拍は短く、合図は少ない。少ないほうが、長く残る。


 夜、砂灯がいちどだけ強く光った。白い波が崖の裾をのぼり、砂の壁で静かに砕ける。

 風は灯の方を見ずに、声を置いた。歌は短く、岬の手順を確かめる音。芯を切り、油を注ぎ、火を近づけ、風を見る。言葉にしない。骨で歌う。

 海は結わいの輪を指の腹で撫で、輪の数を数えた。減っていない。ほどくときは、最後だ。


 風はふと思った。岬という呼び方は、いつも場所を指していた。人ではなく、手順と高さのこと。人の名が消えたあとも、手順が残る世界で、岬は最後まで岬だった。

 それが、少し救いだった。


 *


 夜半、崖の上から白い粉が一度だけ落ち、砂灯の列の端が薄くかすれた。海は指で形を整え直し、風は布で音を閉じた。閉じる前に、骨鈴を一度だけ伏せて鳴らす。低い、遠い、返事。

 「凪——いや、風」

 海が呼ぶ。仮の名は、夜のなかで温度を持つ。

 「うん」

 「岬は、どの高さにいたんだろう」

 風は空を見上げ、崖の線を目でなぞった。

 「朝の灯が、胸の上の少し上。息が楽になるところ。そこに、岬がいる」

 海はうなずき、布の端をあごの下で押さえた。

 「じゃあ、わたしたちの灯は、どこにする」

 「足の真ん中。踏み出すところ。息が苦しくても、置ける場所」

 海は笑った。笑いは短く、粉で薄くなる前に、骨へ移った。


 眠るまえ、海は「岬」と一度だけ呼んだ。呼び方は名前のようで、場所のようで、手順のようだった。

 風は遅い三拍を置き、返事をひとつだけ胸の中に置く。返事は声にしない。声は餌だ。餌は白を呼ぶ。

 砂灯の呼吸に合わせて、夜が浅くなり、また深くなった。


 *


 明け方、崖の上の空気が薄く青に寄った。海は立ち上がり、砂灯の器をひとつずつ砂に戻した。昼は黙らせる。黙らせると、夜に歌える。

 舟を下ろし、潮の筋へ入る。骨鳴りは昨日より静かだが、拍は揃っている。

 「今日は、潮の内側を通る」

 海が指で輪を描き、その右に短い線を添える。返し結びの図。

 「迷ったら、二人で引く」

 「拍、二で」

 「せーの、は心で」

 風はうなずき、櫂を立てた。拍、一。真ん中。拍、二。左。拍、三。右。四は、遅れる。遅れることで、止まらない。


 崖が背中に遠のく。砂灯は眠り、灯の高さだけが目に残る。高さは目印ではなく、速さの基準になった。早めない。遅れない。遅れは置く。置いたら、次の拍を短くする。

 海は踝で舟を支え、舳先の角度を半歩ずつ変えた。変えるたび、風の胸骨が応える。骨の返事は薄いけれど、確かだ。薄いものは、遠くへ行ける。


 「岬に、言い残したこと」

 海が不意に言った。

 「ある?」

 風は考え、首を一度振った。

 「いま言ってる」

 「いま?」

 「手順で。拍で。砂灯で」

 海はうなずき、短く笑った。

 「それ、たぶん、ちゃんと届く」


 昼過ぎ、潮が速くなり、円が狭くなる。狭い円の合間を舟が滑り、骨鈴が高く短く返す。返事は二度続けると、白に食べられる。だから一度だけ。

 遠くの海面が、ひとつだけ深い灰に沈む。白座の方向だ。鐘のような音はもうしない。代わりに、無音の間が伸びた。伸びる無音は、近さだ。

 「拍、二で左。三で右。四は遅れる」

 海が復唱する。

 「うん。遅れは深く」

 「深い遅れは、舵の影」

 ふたりは短い言葉を交わし続けた。言葉は少ない。少ないほど、長く持つ。言葉の代わりに、同時に息を吐き、同時に踵をすべりこませ、同時に棒の先で白を払った。


 午後の終わり、また無音が伸びた。

 風は櫂を立て、海は踵を落とす。舟は白の帯の中央で、ほんの少しだけ沈んでから、静かに浮いた。浮いた場所が、新しい筋の入口。

 「越えた」

 海の声が、息の端でほころぶ。

 「越えた」

 風も言った。言ったことが、お守りになる。


 *


 夜の手前、短い入り江を見つけた。崖も灯もない、小さな窪み。

 舟を砂に上げ、骨鈴を伏せ、布で音を閉じる。閉じる前に、風はもう一度だけ歌った。岬の手順の歌。芯を切り、油を注ぎ、火を近づけ、風を見る。

 海は、その拍に合わせて指で輪を撫でた。結わいの輪。最後まで、ほどかない輪。

 「風」

 「うん」

 「もし最後の最後で、ほんとうの名前が戻ってきたら、呼んでもいい?」

 「うん。呼んで。呼んだあと、遅れて。三拍目で」

 海は目を閉じ、笑った。

 「約束は、餌」

 「分かってる。だから、約束じゃなくて、手順にする」

 「手順?」

 「呼ぶ。遅れる。手をつなぐ」

 風は小さくうなずき、胸骨を指で叩いた。

 とん、とん、間。

 遅い三拍目が、夜の入口にそっと置かれる。置くたび、空洞が薄く寄る。寄ったぶんだけ、明日が進める。


 海は小声で「岬」ともう一度だけ言い、布に頬を沈めた。呼び方は人の名に似て、場所の名に似て、そして手順の名に似ていた。

 風は目を閉じ、岬の高さを胸の上に置く。朝に見た灯の名残はもうない。ないけれど、高さだけはずっとある。

 灯のない夜に、二人の拍だけが、細く明るかった。

 その明るさは、灯ではなく、手順だった。

 手順は、名前より長い。

 名前が消えたあとも、進む順番として残る。

 白の中で、風と海はその順番を確かめ続けた。

 岬は最後まで岬であり、岬の灯は、終わったまま、高さだけで二人を導いた。

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