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白化行路(Hakka Kouro)  作者: 二条理|アコンプリス


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13/20

第13話「白座の前庭」

 白座の前庭は、沈んだ街だった。校庭の白は粉に覆われ、体育倉庫は半分砂に埋もれ、校舎の窓にはガラスではなく薄い骨板がはめられている。風が吹くたび、骨の板が薄く鳴り、その鳴りが校舎の奥へ吸いこまれていった。校章のはずだった丸い金具は、乳白の瘤に変わり、文字の跡だけがかろうじて線を保っている。


 風と海は校門の前で立ち止まり、互いの拍を合わせた。門の上には校名の欠片が残り、読めない文字が二つ、ぎりぎりのところで形を保っている。風は胸の骨を指で軽く叩く。とん、とん、間。海は足裏で砂を押し、同じ間を返す。二人の間にあるのは、言葉より先の合図だった。


 「入ろう」


 海が先に足を踏み入れた。廊下は白く、足音はほとんど響かない。靴底が粉を拾うたび、音は立ち上がる前に薄くほどける。教室のドアを押すと、蝶番のところで粉がさっと滑り、重みのない音がして内側が開いた。そこには白い机と椅子が整然と並んでいた。椅子の背に刻まれた名前は、どれも途中で途切れ、最後の一画だけが深く刻まれている。最後の線だけが、誰かの抵抗の形として残ったように見えた。


 海はいちばん後ろの席に立ち、背の板を人差し指でなぞった。そこに“ミオ”の痕跡がある気がした。気がした、だけだ。証拠はどこにもない。粉の膜の下で線はすぐほどける。海は唇に触れ、呼吸を整えて、椅子にそっと座った。座るという所作が、まだ彼女の中に残っていることが、少しだけ安心だった。


 風は窓際に立ち、外の白い校庭を見下ろした。校庭には大きな円が描かれている。石灰の白ではなく、骨粉の白。円の中には短い矢印がいくつも刻まれていた。走る方向。スタートの合図。風は窓枠に指を置き、矢印の向きを目で追った。矢印は途中で丸くなり、その丸がまたべつの矢印に崩れていく。意味は薄れ、手順だけが残る。


 「運動会?」


 海が立ち上がり、窓の外を覗き込む。かすかに、太鼓の面を叩いたような低い記憶の音が胸の内で揺れた。風は頷いた。頷きながら、三拍目を遅らせる癖が自然に戻る。遅れは昔からのものだった気がする。誰が教えたわけじゃないのに、足と胸が勝手に覚えている。


 廊下の端に、掲示板があった。紙は残らない。代わりに骨板に文字の輪郭だけが刻まれている。指でなぞれば剥がれそうな浅さで、


 忘れ物 係 当番


 単語の枠だけが残り、中身は白い。白い枠を見ていると、不意に胸が痛んだ。意味を抜かれた名前の穴。穴に風が通って、奥の方で細い音がした。風はその音に耳を澄ませ、海の方を振り返る。


 「まだ、行ける?」


 海は頷いた。結わいの輪を爪で確かめて、先に歩き出す。二人は音楽室らしき部屋に入った。床の粉は薄く、壁際には白い鍵盤がならんでいる。ピアノではない。骨で作られた鉄琴だった。鍵の一枚一枚が紙のように薄いのに、叩くと低く鳴る。海はそっと指先で触れた。音は即座に粉の膜に吸われ、部屋の四隅でわずかに残響した。残響は短いのに、言葉より遠くへ届く感じがした。


 「ねえ、ここ、好き」


 海が言った。風も頷く。理由はうまく言えない。うまく言えないことが確かめられる場所が、必要だった。風は窓の骨板に自分の影の線を描いた。指の腹で粉を拭い、粉の薄いところに縦の線、頬の曲線、結わいの輪。線は粗く、すぐに崩れそうだ。それでも、ここに“誰か”が立っていたことの証拠にはなる。


 海も隣で同じことをした。風の横顔の輪郭を描こうとして、三度失敗し、四度目にようやく“遅れた三拍”を頬の小さな影で表した。細い陰がそこにあるだけで、風の癖が見えた。


 「上手くない」


 風が言うと、海は笑った。


 「上手い絵は、すぐ消える。下手な線は残る。残って、誰かが二度目に重ねてくれる」


 笑い方が、まだ残っている。そのことが、二人の手順を支えた。音楽室を出ると、階段の壁に手形が連なっていた。幼い手、小さな手、途中で指がほどけた手。手のひらの粉は風に撫でられて動き、指の隙間を飛んでいく。海は掌を重ね、風は半歩遅れて隣に置いた。


 「手の大きさ、知ってる感じがする」


 海の声は小さい。風は返事をせず、胸で三拍目を遅らせた。遅れが返事の代わりになる。言葉よりも、長く残る返し方だった。


 校庭へ降りる。円の真ん中に立つと、粉の海の上で影が薄く重なり合った。海は踵を軽く落とし、円の外側に小さな拍を置く。風が追う。二人の影は、白い地面に薄く重なって、円の縁でほどける。


 「よーい、の合図、覚えてる?」


 「覚えてない。けど、体は知ってる」


 海は短く走った。砂の上で足が取られ、すぐに止まる。その止まり方に、どこかの拍がぴたりとはまる。笑って、息を整える。笑うという行為が、まだ遠くへ行っていない。


 前庭を抜ける道は細く、白いアーチが続いていた。アーチは骨と貝で編まれている。通り抜けるたび、わずかな音が鳴り、その高さで前庭の奥行きを測れる。音の高さが低いときは遠く、少し高いと近い。風は肩でその差を受け取り、海は踝で受け取った。


 アーチの影で、小さな紙片のような骨板を見つけた。角が欠け、片側だけに浅い線がある。海はそれを拾い、裏を見て、首を傾げた。


 「当番表の切れ端、かな」


 風は骨板を受け取り、貝手帖の内側に挟んだ。矢印の代わりに刻んできた波線の横に、欠けた角の形を覚えさせる。角の欠け目は地図になる。どこにいても、欠け目は同じ形で残るから。


 道の最後に、小さな祠のようなものがあった。中には折れた骨鈴と、半分だけ残った結び目。結び目は見覚えがある。雫が教えた“舞結び”。輪の数が、ここでは一つ減っていた。ほどいた形が、冷たく沈んでいる。


 「ここで、誰かがほどいた」


 海が呟く。祠の中の粉がわずかに揺れ、見えない息が通ったように思えた。風は結び目に触れず、祠の前で三拍を置いた。拍は祈りではない。ただの印だ。印を置いて、二人は祠に背を向ける。


 職員室の扉は半分砂に埋もれていた。引き戸の枠に指をかけ、二人で同時に引く。せーの、を心の中で数え、二拍で引くと、枠は音もなく開いた。中は空っぽに近い。机の上に、骨の名札がいくつか。名札の端には、ひとつだけ深く刻まれた線。最後の一画の癖が、名の代わりにそこにいた。


 「担任って、どんな人だった?」


 海の問いは、宙にほどけた。風は首を振る。代わりに名札の一枚を立て、指で短い拍を置く。とん、とん、間。その間に、何かが入ってくるかもしれない。入ってこなくても、穴があることを確かめられる。


 理科室の棚には、骨の試験管が並んでいた。中身はない。ラベルの代わりに、管の口に細い結び目。一本だけ、舞結びになっている。海は指で輪の数を数え、手首の結わいと比べた。輪は二つ。自分の結わいは三つ。見送るための形ではない。ここにいた誰かは、思い出すために結んで、途中でやめたのだ。


 「途中でやめるの、難しい」


 海が言う。風はうなずいた。途中でやめるには、途中が必要だ。最後を思いながら、手を離す。その離し方は、まだ自分たちに残っている。


 昇降口で、上履きの棚を見つけた。番号の札は白く、穴の形だけが残っている。風は自分の足に視線を落とし、靴紐を引き直した。結び目は舞結びではない。ほどけやすい簡単な形。ほどけやすいものを、今は選ぶ。ほどけることが、次に結べる合図になるから。


 校舎の外へ出ると、白い校庭の向こう、体育倉庫の脇で風が巻いた。巻き上がった粉の柱の中で、骨鈴が一度だけ鳴る。低い音。遠いところからの返事。海は頷いて、踵で地面を軽く押した。押した場所に小さな丸が残る。丸の内側に、遅れをひとつ置く。風も同じ丸を隣に置いた。丸が二つ、少しずれて並ぶ。二人分の印だった。


 「行く前に、もう一箇所」


 海が手を引いた先は、保健室の入口だった。ベッドのカーテンは白い布の代わりに貝膜が吊られ、光をやわらかく返す。棚の上に、白い包帯のような糸が巻かれている。海は糸を少しだけ拝借して、祠で見た結び目と同じ形を作った。舞結びの輪をひとつ減らし、ほどく手順を短くする。


 「ここに、置いていこう」


 海は窓際の骨板に、その結び目を貼りつけた。風は隣で小さく歌った。結び目に手順の歌を乗せる。芯を切り、油を注ぎ、火を近づけ、風を見る。保健室の空気が少し温かくなった気がした。気がした、だけだ。それでじゅうぶんだった。


 前庭の出口に立つと、遠くで低い鐘が鳴った。白座が呼んでいるわけではない。ここにいる、と告げる音。二人は振り返り、校舎の影と円の白を見渡した。窓の骨板に刻んだ下手な線は、まだそこにあった。下手な線は消えない。誰かが重ねるまで、待っている。


 海は結わいを確かめ、風は胸の骨を軽く叩く。同時に一歩踏み出す。白座へ続く道に足を入れたとき、背後で骨の校舎が小さく鳴った。鳴りは風に撫でられ、海の色のない空へ薄く消えていった。


 前庭を抜ける細道は、途中で二つに分かれていた。どちらも白く、どちらも正しい顔をしている。風は貝手帖を開き、波線の横に祠で置いた三拍の印を小さく刻み足す。左の道には波線二つの横に点。右の道には波線三つ。その点は、遅れを深くする合図だった。


 「二で左、三で右。四は止まらない」


 海が復唱する。風はうなずき、心の中でせーの、と数えた。二人で同時に糸を引くように、体を少し倒す。左の白が浅くなり、足元の粉が退いた。正しいという感覚は、短くて、確かだった。


 やがて、前庭の最後のアーチにたどり着いた。入口より少し低く、骨と貝の編み目が細かい。アーチの上に、欠けた文字が二つだけ残っていた。海は立ち止まり、指で空に線を描く。最初の線は震え、二本目は曲がり、三本目でようやく角度が合う。風は胸の骨で三拍を置き、その三拍目の遅れのところに海の指が重なった。


 「行ってくるね」


 海が小さく言って、アーチをくぐる。その声は祈りではなく、確認だった。戻らない約束ではなく、進む手順。風も続いてくぐる。アーチの下で、骨鈴がほんのわずかに鳴る。高くも低くもない、そのあいだの音。あいだの音は、二人のためにだけある。


 前庭の外は、音が薄かった。薄いのに、遠くまで続いている。白座の方向から、微かな明滅がある。灯ではない。白の呼吸が、暗いところへ光の影を作っている。海が布の端をあごの下で押さえ、風は棒の先の布で足元の粉を払った。払えば、三歩分だけ道が出る。三歩が尽きたら、また払う。それでいい。


 「風」


 「うん」


 「もし、ここで全部思い出したら、どうする?」


 風は少し考え、ゆっくり答えた。


 「遅れて、呼ぶ。呼んだあと、手をつなぐ」


 海は笑った。笑いは短く、骨へ移った。


 白の道を歩き出す前、もう一度だけ振り返る。校庭の円。音楽室の窓。骨板の下手な線。職員室の名札の最後の一画。祠の舞結び。どれも、ここにあるという事実だけが確かだった。思い出すための飾りはどこにもない。飾りがないので、手順だけが残る。


 風は胸の骨を叩き、遅い三拍を置く。海が足裏で同じ拍を置く。二人の拍が重なり、白がわずかに薄くなった。道が見える。見えた道はすぐに白に戻る。戻る前に、三歩進む。三歩目の手前で、ほんの少し遅れる。遅れは止まらない止まり方。止まらないと、越えられる。


 前庭は背中の方へ遠のいていく。骨の校舎がもう一度だけ小さく鳴り、その鳴りが風に乗ってほどけた。残ったのは、二人の間にだけ通じる拍と、下手な線の記憶だった。どちらも、白に食べられにくい。


 夕方の手前、道が細く窪地へ落ちていった。白座の外縁。海は踵を一度深く落とし、風は櫂の代わりに棒の先で空気を押す。押された空気が足の前を撫で、道の角度が半歩だけ変わる。半歩の差が、今はすべてだった。


 「風」


 海が仮の名で呼ぶ。仮の名は衣。衣は軽い。軽い衣の下で、骨は同じ音で鳴る。


 「うん」


 「ここから先、わたし、たぶんすぐ忘れる。いろいろ」


 「うん」


 「でも、遅れは覚えてる」


 「うん」


 「それで、じゅうぶん?」


 風は頷き、今度は言葉にした。


 「じゅうぶん」


 短い答えは、海の肩の高さで止まり、すぐに骨へ移った。移った温度が、白の端でほどける前に、二人は同時に足を出した。白座へ続く道は、わずかに下り、わずかに曲がり、遠くへ続いている。足の前で音が薄く重なり、その重なりが二人の地図になった。


 前庭の最後の音は、背後でいちど鳴って止んだ。止んだのに、進んでいる気がした。止まることと進むことの境目に、二人の拍が置かれている。置かれた拍は、灯より弱く、しかし消えずに白の中を照らした。


 夜が来る前に、短い窪地を見つけて座る。海は眠る前に、仮の名を三度呼んだ。風、風、風。呼ぶたびに呼び方がわずかに変わり、最後の余韻が骨鳴りの高さに近づく。風は胸で三拍目を遅らせ、遅れを深くした。深さは舵の影。影が残れば、名前はあとから来る。


 明日、白座の縁はさらに近い。近いけれど、線は見えない。見えない線を越えたことだけが、体に残る。残すために、今夜は印を置く。貝手帖の端に、小さな丸をひとつ。丸の内側に、遅れの点をひとつ。丸は“越えた”の印。点は“止まらない”の合図。


 それを地図と呼ぶ。

 それを、二人の名前のかわりに呼ぶ。

 白の中で、拍と遅れだけが、潮の道を細く照らし続けていた。

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