26.天人シオンの思い
「許せない」
かちゃん。
「認めない」
かちゃ、かちゃん。
「ユリの願いでなければ、こんなところになど、一秒だっていたくないのに……昼間の庭に堂々と刺客が出るような、そんな馬鹿げた場所に……」
ここはオイジュスの屋敷の、シオンにあてがわれた客間だ。彼はそこで、薬を作っているのだった。魂だけになって小鳥の置物に宿っているジャスミンのための薬を。
この薬は、彼女の魂から力を引き出すことができる。うまくいけばまた彼女は目覚め、話ができるようになるはずだった。
「ユリはここに残り、ジャスミンともっと話すことを望んでいる。この旅はユリの旅だ。だから、彼女の意思が一番に優先されるべきなのだと、分かってはいるけれど……」
おそらく、いや確実にユリは、オイジュス家のローズなのだ。シオンが赤子のユリを拾った時、やけに身なりのいい、けれど使用人にしか見えない人間が、物陰からユリとシオンを見張っていたのだ。
どうしてあの人物は、この赤子を放置していたのだろう。どうして自分が赤子を拾ったら、ほっとした顔でそのまま立ち去っていったのだろう。
当時二十一歳、見た目通りに若い心を持っていたシオンは、いくつもの疑問を抱えていた。けれど結局、その答えを得ることはできなかった。
なにせ拾った赤子は泣いたり腹を減らしたりと忙しく、育児経験などないシオンは彼女の世話にかかりきりになってしまったからだ。
赤子がまとっていた産着は、とても高級なものだった。だからきっと、彼女は貴族のおとしだねか何かなのだろうと、シオンはそう当たりをつけていた。跡継ぎ問題か何かに巻き込まれて、手元に置いておけなくなった子供を、泣く泣く捨てたのだろうと。
「おそらく貴族の血を引いているユリには、多少なりとも貴族としてのふるまいを教えておいたほうがいいのだろうと、私も里のみなもそう判断した。……だがそれは、間違いだったね」
そうしてまた、シオンは深々とため息をつく。彼はさっきからずっと、もう数え切れないほどため息をついていた。もちろん、調合途中の薬をうっかり吹き飛ばさないよう、十分に注意しながら。
彼の青紫の目が、すっと細められる。そこには、見間違いようもないほどはっきりとした怒りがひらめいていた。
赤子の頃から彼と一緒にいるユリですら見たことのない、激しい怒りだった。
「……あんなばかげた理由で赤子のローズを捨てた、それだけでも許せないのに……」
シオンは調合の道具を壊してしまいかねないくらいに乱雑に扱いながら、さらに薬を作り続けている。
「彼らには恥というものがないのか。まともな羞恥心があれば、今さらユリをローズと呼ぶことも、彼女の親だと名乗り出ることも、できはしないだろうに」
低く抑えた声で、シオンはつぶやく。狼がうなっているような、そんな声だ。
「ジャスミンが亡くなったのが、彼らの行動に拍車をかけているのだろうな。忌々しいことに、彼らにとって残された娘は、ローズただ一人。ずっと血眼になって探していたところに、あの大舞踏会だ。あれに出てみようとユリに提案した過去の自分を、殴ってやりたいよ」
なおも荒々しく調合を続けていたシオンが、ふとぴたりと動きを止める。いつも穏やかで温かな色を浮かべたその目が、やけに冷たく鋭い光を帯びていた。
「……ああ、そうか。だったら彼らにジャスミンを返してやればいいのか。今ならまだ、手の打ちようもあるな。私にはこんな薬を作ることしかできないけれど、里の者なら」
そう言うと、彼は両手を胸元に掲げた。それからそっと何かを包み込むように構えて、青紫の目を細めている。口の中で、何事かつぶやいた。
やがて彼は、ゆったりと手を開いた。その中からは、一匹の小さな白いトンボが姿を現した。
「それじゃあ、伝言を運んでおくれ。大至急、だからね」
窓を開けると、トンボはあっという間に飛び去ってしまった。
長距離間で連絡を取り合う時などに使われるあの式神は、ここからなら三日もあれば里に着くだろう。普通のトンボよりずっと速く、しかも昼夜を問わず休むことなく飛び続けることができるのだから。
「さて、こちらについてはこれでいいかな。薬もできあがったし。ユリのほうも、ひとまずは大丈夫そうだ」
彼は小さな蜘蛛の式神をたくさん放ち、ユリの部屋の扉や窓にこっそりと待機させていたのだった。こうしておけば、くせ者が近づいたとしてもすぐ助けに入れる。蜘蛛の毒でくせ者をしびれさせてもいい。
「本当は、四六時中私が彼女に付き添って、守ってあげたいのだけれどね」
昨晩のことを、彼は思い出していた。大きな寝台の端と端で、ユリと見つめ合って眠りについたことを。子供の頃から変わらない素晴らしく赤い目は、彼女の成長と共に理知的な光を宿し、気品をたたえていた。
シオンは、その赤い目が大好きだった。みずみずしいざくろの実を思わせる、そんじょそこらの宝石ではかなわないほど透き通った赤い目を、できることならずっと見ていたい。そう思っていた。
「彼女が小さな頃は、私は父親でいられたんだ。幼い彼女を抱きしめて慈しみ、守り育てる。それだけだったのに」
深々とため息をついて、シオンは片手で顔を覆う。はらりとこぼれた黒い前髪が、とてもなまめかしく彼の顔を飾っていた。
「いつの間にか彼女はすっかり大きくなって、一人前の女性になってしまった。ちょっぴりおてんばが過ぎるし、少々気が強いけれど、そんなところがまた魅力的な、素敵な女性に」
シオンは前髪をかきあげたままの姿勢で、また息を吐く。それからその形の良い唇を、不満げにとがらせて、ぼそりとつぶやいた。
「……正直、子供扱いでもしないと、私は自分を抑えていられそうにないんだよ、ユリ。大きくなった、立派になった、もう一人前の女性だねとささやきかけて、そのまま腕の中に閉じ込めたくなる。そんな衝動と戦うので手いっぱいだ」
肩をすくめて、シオンはなおもつぶやく。
「人間たちの基準からすると、私が君にこういった感情を抱くのは、あまり褒められたものではないらしいからね。再会した日に、ダミアンに注意されてしまったからなあ。まったく、十六年ぶりに会ったというのに、私の思いを的確に見抜くなんて……昔から彼は、鋭いところがあったからな」
さすがの天人たちも、あまりに血が近い相手との縁組は避ける。体の弱い子が生まれてしまうことがあるからだ。だがそれでも恋慕の情には勝てないらしく、ごくまれにそういった夫婦が生まれることもある。
シオンが知る中では、曾祖母とひ孫という組み合わせがあった。年齢差がありすぎて、寿命の長い天人であってもそう長く添うことはできなかったらしいが、二人はとても幸せに暮らしていたらしい。
「それを思えば、私とユリはそもそも血がつながっていないのだからね。別にいいと思うのだけれど」
ふてくされたような声で言って、それからシオンがしゅんとなる。さっきから彼はたった一人で、表情をくるくると変え続けていた。
「……君が私の思いに気づいて、そしてこたえてくれれば、もうそれ以上望まないのに」
泣きそうな声でそう言って、シオンはできあがったばかりの薬に手を伸ばす。薬包紙に包み、こぼれないよう端をひねる。
「ともかく、これをユリのところに持っていくとするか。問題が山積みになっている時は、手近なものから一つずつ着実に片付けるに限るから」
薬を手に、シオンは部屋を出る。いつも通りの、穏やかで落ち着いた笑みを浮かべて。




