19.ハーヴェイの複雑な純情
宿の客室で、ハーヴェイは一人呆然としていた。先ほどシオンとユリから聞いた言葉を、ぐるぐると何度も頭の中で繰り返しながら。
天人。術。数歳しか違わないように見える父娘。今までの彼の常識をぶち壊すようなそんなあれこれを、それでも彼は否定できずにいた。
「シオン殿は炎を、あっという間に消してしまった……それにあの二人は、切り離されてしまった車両を、見えない手で引っ張るようにしてつないでしまった」
先ほどと同じように頭を抱えながら、彼はため息をつく。
思えば、彼がここにいるのは、全てユリのためだった。山脈の近くの町でユリを見かけた時、彼は胸の高鳴りを感じたのだ。
自分が少々惚れっぽいという自覚はあった。しかしそれでも、彼はあの時思ったのだ。どうしても、彼女のそばにいたいと。
だから彼はユリをお茶会に招待し、さらに大舞踏会でまた会おうと、そんな約束を取り付けたのだ。
「思えば、あの大舞踏会で素直に引いておくべきだったのかもしれないな。シオン殿にけん制されてしまった、あの時に」
ハーヴェイは最初シオンのことを、ユリの兄だと聞かされていた。男である自分からしてもなまめかしく思えるほどに色気のある彼は、ユリのそばにいつも寄り添っていて、常に穏やかに微笑んでいた。
少々得体の知れない相手だとは思ったけれど、兄だというのならば害はない。そう思っていたのに。
大舞踏会で再会した時のシオンは、まるで違うふるまいを見せていた。ユリと互いに名前で呼び合い、仲睦まじく手を取り合って、やけに甘い視線を彼女に向けていた。まるで、恋人たちのように。
しかもユリは気づいていないようだったが、シオンは周囲の男たちに、意味ありげな視線を時折向けていたのだ。どんな鈍い男であっても、あの視線の意味を取り違えたりはしないだろう。
この女性は、私のものだ。手を出そうというのなら、私が相手になろう。シオンの目は、そう言っていた。それは妹を守ろうという兄の目とはとうてい思えないほど熱っぽい、つややかなものだった。
それを見て、ハーヴェイは思った。ユリは素敵な女性だ。けれどあの二人の間に、割って入れる気がしない。少なくとも、今のところは。
しかしそれでも、ハーヴェイはあきらめきれなかった。どうにかしてもう少し、あと少しだけ彼女に近づきたいと思ってしまったのだ。
たいそう惚れっぽいがあきらめるのも早い彼にしては、珍しいことだった。
そうして彼は、気落ちしながらも二人を遠巻きに見守っていたのだった。少し気落ちしていたけれど、この日のために着飾っていた二人はとても美しかったから。
ユリとシオンは、まるで対の人形のようだと、ハーヴェイはそんなことを感じていた。
陶器の滑らかな肌と宝石の瞳、それに絹の髪をした、生きているような人形たち。そんな感想が素直に出てくるくらい、二人は浮世離れして見えたのだ。
そんな二人をうっとりと眺めていたハーヴェイは、じきに驚きに目を見開くことになった。妙に取り乱したオイジュス公爵夫妻が二人に、いや正確にはユリに詰め寄ったからだ。
ハーヴェイは、オイジュス家の人間に直接会ったことはない。そもそも彼はごくありふれた伯爵家でしかないアンテロース家の、それも傍系だ。
いずれはどこかの家に婿に行ってそこの家を継ぐか、あるいは一生を傍系として、主筋に何かがあった時のスペアとして生きる身だ。
貴族の中でも最上位に位置する、それこそ国を動かすことすらできるオイジュス家と、関わりがあるはずもない。
しかし、そんな彼でも、オイジュス家の噂は知っていた。国を背負うほどの地位にありながら、迷信じみた言い伝えや占いのたぐいにのめり込んでいる一族だという、そんな噂を。
オイジュスの人間と関わる者はみな、彼らの行いに戸惑わずにはいられないのだという。王族たちも問題視してはいるが、それでもオイジュスの者たちの行いを変えることはできていない。それくらいに、オイジュス家の力は強いのだった。
「あの時、オイジュス公爵夫人はユリさんに固執しているように見えた。あんな妙な噂が立っている家に彼女を向かわせるのは良くない。そう思ったんだが」
彼女とシオンはウラノス男爵家にゆかりの者なのだと、そう名乗っていた。貴族の中でも一番位が下の男爵家の者では、オイジュス家の者に何か無理難題を言われたとしてもはねつけるのは難しいだろう。
その点、自分は伯爵家にゆかりの者だ。オイジュス公爵家に比べれば大いに見劣りするが、それでもユリたちの力になることができるかもしれない。
ハーヴェイはそう考えて、公爵家への同行を申し出たのだ。もっともそこには、まだユリと一緒にいたいという思いも含まれてはいたけれど。
「……どちらかというと、俺は足手まといになっていたな。少なくとも、今日の件については」
また深々とため息をついて、ハーヴェイは髪をかきむしる。まだ寝間着に着替えておらず、昼間の服のままだ。しかししゃれた形に整えられていた彼の髪は、すっかりぐしゃぐしゃになってしまっていた。
「あの車両でのユリさんとシオン殿の会話から察するに……どうやらユリさんは、術で炎を消すことができたのだろう」
あの時のユリの様子を、彼は思い出していた。前後に視線を走らせていたものの、その目に恐怖の色はなかった。妙に落ち着いているとさえ思ったくらいに。
「そうしなかったのは、俺……天人についても、術についても知らない、ただの人間がいたからだろうな。彼女たちは、自分たちの真の素性についてはできる限り伏せておきたいようだったし」
髪をかき回していた手をぴたりと止めて、ハーヴェイは深々とため息をついた。
「はあ……情けない」
共にオイジュス公爵家に向かっていた者たちの中で、自分一人が何も知らなかった。つまり自分は、空気も読まずにのこのことついてきてしまった部外者に過ぎないのだ。
その事実もまた、今のハーヴェイを大いに落ち込ませていたのだった。
「しかも、術の話を聞いて、天人のことを恐ろしいと思ってしまった。何か得体のしれないものだと思ってしまった。一瞬でも、ユリさんのことを恐れてしまった。情けない。情けないにもほどがある」
椅子に座ってうなだれたままの姿勢で、ハーヴェイはじっとしていた。ステファニーあたりが見ていたら心配しておろおろするくらいにがっくりと頭を垂らしたまま、微動だにしなかった。
どれくらいそうしていたのか、やがてハーヴェイがのろのろと顔を上げた。相変わらず顔色は優れなかったが、その目にはやけに強い光が宿っていた。
「……今さら悩んだところで、俺がここまでついてきてしまったという事実は変わらない。彼女のことを恐れてしまったという事実も。何かの形で、埋め合わせねばならんな」
ハーヴェイはすっくと立ちあがり、ぐっとこぶしをにぎる。しかしその顔に、今度は苦笑が浮かぶ。
「とはいえ、俺にできることなどろくにないような気もするがな。何せ彼女は、たおやかではかなげな見た目に似合わず、様々な術を使いこなすのだから。おそらく彼女は、俺よりもずっと強い」
彼の脳裏に、様々な思い出がひらめいては消える。ユリとシオンに出会ってからの、あれこれが。それは彼にとっては懐かしく、同時にほろ苦い思い出へと姿を変えていた。
「……彼女のことが、ここまで遠く感じられるなんてな。だがそれでも、俺は彼女のそばにいたい。もう俺には、彼女を思う資格はない。だからこれからは、彼女の友でありたい。そして今日足を引っ張ってしまった分の借りは、必ず返すと誓おう」
ここにいないユリに話しかけるように、ハーヴェイは芝居がかったしぐさで朗々と語る。どうやら彼は、昼間の衝撃からようやく立ち直ったようだった。
「そう考えれば、この旅も悪くはないな。ユリさんとステファニーさん、二人の華やかな友人と共に、めったに乗ることのない汽車に乗り、まず足を踏み入れることなどない公爵家に向かう。うむ、急に気分が軽くなってきたぞ」
つい先ほどまでの暗い顔が嘘のように、ハーヴェイが軽い足取りで窓辺に向かう。
窓を開けると、さわやかな夜の風がふわりと吹き込んできた。心地よさげに目を細め、ハーヴェイは笑う。
「そうと決まれば、もう休もう。ああ、明日からの旅が楽しみだ」
その声は、静かな夜の闇の中にすっと吸い込まれていった。




