15.大きな大きな鉄の芋虫
そうして大舞踏会も無事に……だいたいは無事に終わり、私たちはひとまずウラノスの別宅に戻ってきた。ハーヴェイとは後日また落ち合う約束をして、いったんお別れだ。
ドレスから部屋着に着替えて、ステファニーと二人でお茶を飲む。シオンお父様はダミアンさんの部屋で、一緒にお酒を飲んでいるらしい。思い出話に花を咲かせてくるよ、とか何とか言っていた。
「それにしても、妙なことになってしまいましたわね、ユリ」
「ええ。見ず知らずの公爵様から招待されるなんて……思いもしなかった」
「でも、あちらはあなたのことを知っているようでしたわ。心当たりは……ありませんよね。あなたはついこの間まで、天人の里で暮らしていたのですし」
ステファニーはそうつぶやきながら首をかしげている。しかし私は人間の世界と、一つだけ関わりがあるにはある。もっとも、私も覚えていない昔の話だけど。
ちょっとだけためらってから、その話を打ち明けることにした。
「……私、天人の里で育ったけれど、元々は人間なの。十六年前、成人の儀から帰る途中のお父様が私を拾ったのよ」
「まあ、そうだったんですの。……だとしたら……まさかと思いますけど、あの公爵様が、赤子のあなたと関係があったなんてことは……」
「ないと思いたいけど……」
オイジュス公爵夫人は、私の顔を見てジャスミンと叫んでいた。公爵は、ローズという名前を口にしていた。私はそのジャスミンだかローズだかに、とてもよく似ているらしい。
「そうだ、ステファニーはあのオイジュス公爵家について、何か知らない? ハーヴェイ様がなんだか不穏なことを言っていたから、気になって」
そう問いかけると、ステファニーは周囲をうかがうようなそぶりを見せて、声をひそめた。ここには私たち二人しかいないのに、妙に警戒している。
「わたくしもあまり詳しくはないのですけれど……確かあの家は、先代が数年前まで権力をにぎっていると聞いた覚えがありますわ。あとは、やけに縁起をかついだり、占いに凝っていたり……ちょっと変わった家だという印象ですわね。相手が相手ですから、みな大っぴらに噂することはありませんけれど」
「そうなのね、分かったわ。あの二人がどうして私のことを気にしているのかは分からないけれど、一応注意しておく」
「それがいいと思いますわ、ユリ。……あの、ところで」
ステファニーがほっそりとした手を頬に当てて、声をひそめる。なんだか、面白がっているような表情だ。
「ユリはハーヴェイ様のこと、どう思っているのかしら? ハーヴェイ様はあなたのこと、気になっておられるみたいですけど」
「知り合い。もしかしたら、友達になれるかもしれない。それだけよ」
ハーヴェイは私にひとめぼれしたのだと、そう言った。もっともその恋心は、お父様が力ずくでへし折ろうとしているみたいだけど。
けれどそのことに、さほど罪悪感は抱かなかった。ハーヴェイは悪い人ではない。けれど私としては、ほぼ初対面の彼に思いきり好意をぶつけられてしまって困っているというのが本心だったから。
それともう一つ、ハーヴェイがそうやって初対面の相手に告白して玉砕するのは、これが初めてではないのだとお父様が教えてくれたからでもあった。
だからいつぞやのお茶会の時も、周囲の人間たちは『またやってるな』くらいの感覚でいたらしい。
年に何回もひとめぼれしては振られる、ハーヴェイはそんな人物のようだった。それでも、さっぱりした人柄のせいか周囲の人々には好かれてはいるようだけれど。
「まあ、そうなの……ふふ、ハーヴェイ様はちょっと気の毒かもしれませんわね」
「気の毒って、その、あなたはどうしてそう思うの?」
ハーヴェイに告白されたことはステファニーには話していない。けれどステファニーは、おかしそうに笑ってこちらを見つめてきた。
「今日のユリは、とっても可愛らしかったんですもの。ハーヴェイ様だけでなくたくさんの殿方が、ユリに心奪われていましたわ。でもあなたは、どの殿方にも目を向けることなく……シオン様というとびきり素晴らしい殿方がそばにいては、仕方ないかもしれませんけど」
昼間のことを思い返して笑っているステファニーに、ふと思ったことを尋ねてみた。
「ねえ、ステファニー。……お父様は、素敵だと思う?」
「ええ、とっても。あなたがついていなかったら、シオン様はたくさんのご令嬢たちに取り囲まれていたんじゃないかしらって、そんなことを思うくらいには」
「……それで、今日の私とお父様は、どんなふうに見えた?」
「仲睦まじい恋人たちに見えましたわ。シオン様にはシオン様なりの狙いがあってのことだと、おとうさまからそう聞いてはいましたけど……事情を知っているわたくしにも、恋人としか見えなくて……ふふ、素敵でした」
彼女の言葉に、じっと考え込む。それは喜ぶべきことなのか、悩むべきことなのか。それでなくてもお父様には伴侶がいない。
まだお父様は四十前、天人としてはかなり若いほうだから、そう急がなくてもいいというのは分かるけれど。
そもそも、私という手のかかる娘がいるから、お父様はいつまでたっても独り身なのではないか。私のことが心配で、お父様は妻のことまで考えが回らないのではないか。
「……やっぱり、父離れしないといけないのかな」
そんな独り言をつぶやく私を、ステファニーはやはりくすくすと笑いながら見守っていた。
そうして、大舞踏会の数日後。王都のすぐ隣に広がる草原に、私たちは立っていた。すぐ後ろには真新しく美しい建物がそびえていたけれど、私たちの目を釘付けにしていたのはもっと別のものだった。
「うわあ……これ、何ですか?」
呆然とつぶやく私に、お父様が静かに答える。お父様の声にも、感嘆の響きが混ざっているようだった。
「汽車、というものらしいね。前に人間の世界に来た時、そういう計画があるらしいということだけは小耳に挟んでいたけれど……そうか、完成したのか」
ちょっとした小屋くらいの大きさの、細長い鉄の芋虫のようなもの。それがいくつも、一列に並んで横たわっている。
その芋虫には窓のようなものがあり、中に人がいるのが見える。
なんでもこの芋虫行列は、ひとりでに走り、人や物を遠くに運ぶのだそうだ。地面に敷かれた線路というものの上以外は走れないけれど、それでも馬車よりはずっと速いらしい。
「術も使えないのに、こんなに大きなものを作り上げるなんて……」
大舞踏会の日に、王宮を目にした時にもそう思った。私の素直な感想に、お父様がそっと言葉を添える。
「術が使えないのに、ではなく、術が使えないから、じゃないかな。私たちは術を使って色々なことができる。でもその分、新たなものを作り出すことは不得手だ。だいたいのことは、過去に編み出された術を使えば解決してしまうから」
「……そうですね。人間って、私が思っていたほど無力ではないのかもしれません」
実のところ、私は人間のことを少し下に見ていた。術は使えないし、そのくせ身分なんて変なものがあるし、他にも色々と面倒な決まり事が多い。
成人の儀が終わったら、もう二度と山脈を超えることなく、ずっと天人の里で生きていくのだと、そう思っていた。
でもその考えは、徐々に変わりつつあった。ステファニーという友達もできたし、ハーヴェイの熱意にもちょっと感心している。応えるつもりはないけれど。そこへもってきてこの鉄の芋虫、汽車だ。
「ああ。この旅の間にしっかりと学ぶといいよ。人間とは、どういう生き物なのかを。……まあ、私もいまだに彼らのことをつかみかねているんだけどね」
「えっ、そうだったんですか? お兄様は既に成人の儀の旅を終えていますし、ダミアンさんという友人もいますし……もう人間たちについては詳しいのかと」
「そうでもないよ。私が人間たちについて知っているのは、彼らの世界のほんの一部でしかないよ。君の旅についてきたのは、私自身の目でもう一度こちら側を見ていこうと思ったからというのもあるんだ」
「『も』ということは、主な目的は別にあるってことですよね?」
「おっと、ばれてしまったか。……実はね、君と一年も離れているなんて、想像しただけで寂しかったからだよ。君と離れていたら三日で泣き言を言う自信があったし、十日で寝込む自信もあった」
「もう、お兄様ったら。冗談がうまいんだから」
「本気だよ?」
「えっ」
思わず汽車から目を離して、隣のお父様をまじまじと見る。お父様は青紫の目を細めて、まっすぐに私を見返していた。とても真剣な、見とれてしまいそうになるほど美しい目だった。
「おまたせしました、ユリ、シオン様」
ステファニーの声に、我に返る。そちらを振り向くと、ダミアンさんとステファニー、それにハーヴェイが歩み寄ってくるのが見えた。三人は私たちの背後の建物で、汽車に乗るための手続きをしてくれていたのだ。
「出発は十五分後だそうです。さっそく乗り込みましょう」
そうしてダミアンさんは、小さな紙切れを手渡してくる。そこには王都発、オイジュス領行きと書かれていた。
「それは切符ですわ。これを持っていれば、汽車に乗ることができるのですよ」
首をかしげて紙切れを見る私に、ステファニーがそう説明してくれた。
「鉄道の路線は、今のところ二本しか引かれていないんですの。ひとつは、ここ王都とオイジュス公爵家の領地を結ぶもので、もうひとつは別の公爵家の領地と王都とをつなぐものなんです。いずれ、もっとあちこちに広がっていく予定になっているそうですわ」
「だとしたらいずれ、国のあちこちをこんな大きな汽車が走り回ることになるの?」
「ええ、おそらくは。まだ計画段階ですから、何十年も先のことになるでしょうけど」
「そうなんだ。やっぱり人間って……考えることが怖い、かも」
ステファニーと並んで汽車に乗り込みながら、声をひそめてそうつぶやく。
「あら、そうですの? 便利になっていいと、わたくしはそう思いますけれど」
「でも、こんな大きなものを動かすなんて……制御に失敗したら、大変なことになるわ」
天人は術を使える。それにより、自分ひとりの力では動かせないものをやすやすと動かすことができるのだ。
でも同時に、それはもうみっちりと術を練習させられるのだ。己の手足のようにやすやすと術を使いこなし、大人たちからの許可を得るまでは術を一人で使ってはならないという、そんな決まりもある。
大きなものを動かす術は、失敗した時の被害がとても大きくなる。天人たちはそのことをよく知っているから、とても慎重に術を継承しているのだ。人間たちに、その慎重さがあるのだろうか。
そう考えたとたん、不安になってしまった。この大きな鉄の塊は、はたして安全なのだろうか。思わず立ち止まった私の肩に、ぽんと手が置かれた。振り返ると、穏やかに微笑んだお父様と目が合う。
「大丈夫、人間だって結構やるものだよ。そう緊張しないで、ゆったりと構えていればいい」
「お兄様……」
「それに、何かあっても私たちがいるからね。多少のことなら、何とかできるだろう」
お父様の言葉を聞いていたら、肩に入っていた力がすっと抜けていくのを感じた。
「……はい、そうですね」
だからにっこり笑って、お父様と見つめ合った。その向こうに、複雑な顔のハーヴェイがちらりと見えていた。