14.公爵夫人は叫ぶ、誰かの名を
「ジャスミン! ああ、ジャスミン!!」
そんな叫び声に、大広間に流れていた音楽が止まる。みな困惑しながら、声の主のほうをちらちらと見ていた。
そこに立っていたのは、ひときわ豪華な服を着た夫婦だった。年の頃は四十前くらいか、けれどどうにも顔色が悪い。今にも倒れてしまうんじゃないかと、心配になるくらいに。
今しがた叫んだのは、その夫婦の女性のほうだった。隣の男性が彼女の腕をしっかりと押さえている。こちらの男性も、奇妙にやつれていた。高級な身なりと、まるでつりあっていない。
男性は沈痛な声で、女性に話しかける。涙ぐんでいるような、そんな声だ。
「お前、ジャスミンはもう死んだのだよ。落ち着きなさい」
「だったら、あの子は誰なの、あなた! どこからどう見ても、ジャスミンでしかないわ!」
狂ったように言い立てる女性をなだめていた男性が、ふと何かに気づいたように動きを止めた。じっと私を見つめていたその顔が、ゆっくりとこわばっていく。
「……まさか、ローズ? あの子が、生き延びていた?」
男性はそんなことを呆然とつぶやいていたが、やがて小さく頭を振って、すっと背筋を伸ばした。
彼はまだ何事かわめいている女性を連れて、まっすぐに私たちのほうに歩み寄ってくる。やつれた顔の中の目が、やけに強い光をたたえていた。
「初めまして、私はオイジュス公爵家の当主。こちらは妻だ」
公爵というのは、貴族の位の中でも最上位のものだと聞いたことがある。つまり、人間たちの決まりでは、目の前の男性は私たちよりずっと立場が上だ。
私個人としては、そんなことはどうでもいいけれど、人間のふりをするならきちんと気を遣わなくてはいけない。
「ご挨拶いただき、かたじけない。私はシオン、こちらはユリ。ウラノス男爵家にゆかりの者です」
どう返事したものだろう、と悩んでいる間に、シオンお父様がさっさと自己紹介を済ませてしまう。
その声はいつも通り穏やかなものだったけれど、お父様はしっかりと私を抱き寄せていたし、見上げた青紫の目はいつもよりずっと鋭かった。
明らかに警戒しているお父様を無視して、オイジュス公爵は私だけをじっと見つめている。偉そうなのに苦しそうな、こわばった声でさらに話しかけてきた。
「ユリさん、といったか。ひとつ、ぶしつけなことを尋ねさせてくれ。君はウラノス男爵家にゆかりの者だという話だ。しかし正確にはウラノスの血を引いていない、そうではないか?」
「……失礼を承知で申し上げますが、本当に、ぶしつけな話ですね。少なくとも、大舞踏会の途中に聞くようなことではないと思いますよ?」
すかさず、お父様が口を挟んだ。ここでこれ以上その話をしたら、許さないぞという思いを込めた厳しい声と表情で。状況を見守っている周囲の人たちが、戸惑いにざわめいた。
それを見たオイジュス公爵が、軽く眉をつり上げる。ようやく、お父様が目についたといった顔だ。これだけ目立つお父様をそこまで無視できるなんて、どういうことなのだろう。
困惑する私をよそに、オイジュス公爵は堂々とした声でお父様に返答した。
「ああ、君の言う通りだな。だが私は、どうしてもその答えを知りたいのだ。ここで話せないというのなら、後日改めて話を聞きたい」
公爵のすぐ隣に立っている夫人が、ハンカチで目元をぬぐいながらこちらをじっと見ている。
彼女はさっきから一言も口を利かず、ただ私だけを食い入るように見つめていた。異様に熱を帯びたその視線が、怖い。思わず、お父様にすがりついた。
そして公爵は、そんな夫人にちらりと視線をやって、またこちらに向き直る。
「ユリさん、シオン君。大舞踏会が終わった後にでも、私の屋敷に来てくれないか。そこでなら他の者に邪魔されることもないし、君たちも気兼ねなく話ができるだろう」
それは依頼の形を取ってはいたものの、実質的には命令にほかならなかった。
彼は明らかに、他人に命令することに慣れている人間だった。そして自分の命令は必ずかなえられるのだと、そう確信しているようでもあった。そのことに、ほんの少しいらだちを感じる。
「……シオン、これってどう考えても、普通の話ではないですよね……」
声をひそめて、隣のお父様に呼びかける。
「そうだね。明らかに訳ありだ。ただ、ここで彼らを追い払うことに成功しても、たぶん彼らは旅の間中追いかけてくる、そんな気がするよ。なぜか彼らは、君に執着しているみたいだからね」
「だったら、一度彼らの屋敷に行ってあちらの事情を聞き出し、その上で後腐れのない解決法を探す。それしかないでしょうか」
「私も同意見だよ。でも本音としては、オイジュス公爵家とはあまり関わりたくないね。あくまでも、私の個人的な意見だけれど」
「奇遇ですね、私も同じです」
公爵夫妻に聞こえないようにこそこそとそんなことをささやき合ってから、公爵に向き直る。内心、ため息をつきたいのをひた隠しにしながら。
「あの、それではお招きにあずかりたいと思います。後日、そちらにうかがいます」
私がそう答えたとたん、公爵夫妻はあからさまにほっとした顔をした。夫人にいたっては、またぽろぽろと涙を流している。しかしその顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
彼らの視線を感じていると、どうにも居心地の悪さを覚える。
二人から敵意は感じない。感じるのはべっとりとまとわりつくような、いっそ愛情に近い何かだ。けれどそんな感情を向けられる理由がない。訳が分からなさ過ぎて怖い。
私が少しおびえていることに気づいていないのか、二人は心底嬉しそうに笑っている。さっきまでお父様にかけていた偉そうな声とはまるで違う甘い声で、私に話しかけてきた。
「ありがとう、ユリさん。私たちの招きに応じてくれて。それでは、私たちは屋敷で待っているよ。君が来てくれる、その日までずっと」
「ユリ……それが、あなたの名前なのね。お願いだから、必ず来てちょうだいね。あなたまで、いなくならないでね」
やけに必死な、哀願するような言葉を次々と投げかけながら、名残惜しそうに公爵夫妻が立ち去っていった。後にはぽかんとした顔の私と、険しい表情のお父様が残される。
大広間にひしめいていた人々は、その間驚いたような顔をして、何も言えずに突っ立っているだけだった。
人々が我に返る前に、この場を離れてしまおう。私たちはそう考えて、急ぎ大広間から出ていった。
そして廊下に進み出たその時、横合いから声をかけられた。ステファニーとダミアンさんだ。二人とも、こちらを心配しているような表情を浮かべている。
「ユリ、わたくしたちも話を聞いていましたけれど……なんだか妙なことになってしまったみたいですわね」
「うん、そうなの。いきなり公爵家に招待されるなんて、思わなかったわ……それに公爵夫人が、私を誰かと間違えているみたいで。どうにも薄気味悪くて」
「でしたら、わたくしたちも同行しましょうか? 人数が多いほうが気がまぎれるでしょうし、あちらもきっと気になさらないとは思うわ」
「私もそう思いますよ、ユリさん。それにあなたたちはオイジュス公爵家について何も知らないでしょう? 世情に詳しい私たちがついていたほうがいいと思いますよ」
ステファニーとダミアンさんが、口々にそんなことを言ってくる。分からないことだらけのこの状況では、その申し出はとてもありがたい。けれど私は、素直にうなずけなかった。
「お二人が来てくれれば助かりますけど……でも、余計な面倒ごとに巻き込んでしまうかもしれませんし……そもそも私は成人の儀でこちらに来ているのですから、自分に降りかかった問題は、自分で解決すべきだと思うのです」
「いいえ、ユリ。わたくしとあなたはお友達でしょう? お友達に手を貸したいと思うのは、当然のことですわ」
有無を言わさぬ笑顔で、ステファニーが断言する。と、お父様がかがみこみ、耳元でささやいてきた。
「彼女の言う通りだよ、ユリ。助け合うことを学ぶ、それもまた立派な旅の目的だからね。君はどうしても自分一人で頑張ろうとする癖があるからね。この旅の間に、自分一人ではどうしようもないことがたくさんあるのだと、そう学ぶといい」
お父様がさらに声をひそめる。吐息が耳をかすめていくのがくすぐったくて、ふっと緊張がゆるむ。
「……公爵夫妻の様子は明らかにおかしかった。君は何か、面倒なことに巻き込まれつつあるのかもしれない。だから少しでも、協力者は多いほうがいい」
「協力者、ですか? そんな大ごとになるんですか? 行くだけ行って、話だけ聞いてすぐに帰ってくればいいと思っていたんですけど」
「あくまでも勘だけれど、そう簡単に片はつかないと思うよ。たぶん彼らの屋敷に出向いたら、引き留められることになると思うんだ」
「だったら、こっそり逃げてきてしまえば……術を使って行方をくらませればいいだけですし」
「たぶん、そう簡単にはいかないと思うね。相手は貴族の中でも最上位の公爵で、権力はとびきりだから。全力で追っ手をかけてきそうな、そんな気がするんだ。君も見ただろう? あの二人の表情を。あれは目的のためなら、何でもする顔だよ」
お父様の言葉を否定できなくて、口ごもる。あのおかしな目をした公爵夫妻が、私を探して国中に人をやる。その姿が、容易に想像できてしまったのだ。
「それに、私たちがウラノスの遠縁と名乗っていることは、もうみなに知れ渡っている。ここで私たちだけが逃げたら、ダミアンとステファニーに迷惑がかかってしまうよ。それは君だって本意ではないだろう?」
「……分かりました。みんなと一緒に行って、できるだけ平穏に帰ってこられるよう努力します」
「よろしい。ほら、言っているそばから協力者がもう一人来たよ」
そこでお父様はすっと背筋を伸ばし、横を見る。その視線の先にはハーヴェイが立っていた。あんなに押しが強く堂々としていた彼が、やけに神妙にこちらの様子をうかがっている。
「ユリさん、シオン殿。実は公爵夫妻とのやりとりを、俺も聞いてしまった」
ハーヴェイは申し訳なさそうな様子で近づいてくる。
というか大広間は静まり返っていたし、ステファニーたちの様子からしても廊下まで話し声が響いていたのだから、彼が聞いてしまったのも半分くらい不可抗力だと思うし、そんな顔をしなくてもいいと思うのだけれど。
「……そこで、一つ頼みがあるのだ。オイジュス公爵家へ向かう旅に、俺も同行させてくれ。俺の思いが、君のもとに届きそうにないということは理解した。ただそれでも、俺は君の力になりたいのだ」
思いもかけない申し出に、とっさに言葉が出てこない。ただ、ハーヴェイがやけに険しい顔をしているのが気になった。それに、ステファニーとダミアンさんも。
どうして彼らは、こんな表情をしているのだろう。それが気になって、小声で尋ねてみる。
「あの……オイジュス公爵家って、どんなところなんですか?」
我ながら、あまりにもぼんやりした問いだと思う。しかしハーヴェイは険しい顔のままで、私に聞こえるぎりぎりの声で答えた。
「あそこには、色々あるのだ。……それについてここで話すのは、ちょっとはばかられる。ただ、何も知らない君が単身あそこに乗り込むのをそのままにしてはおきたくない」
「おや、単身ではありませんよ。もちろん私もいますからね、ハーヴェイ殿。それに、ダミアンとステファニーも来てくれるようですから」
お父様の面白がっているような声が割り込んできた。しかしハーヴェイは少しも動揺することなく、お父様を見返していた。
「それでも、同行させてほしい。何がどうなるか分からないのだから、人手は多いほうがいい。俺にも何か力になれることがあるかもしれないからな」
「確かにそうですね。それではハーヴェイ殿、よろしくお願いします」
お父様のその言葉に、ハーヴェイはほんの少し緊張を緩めたようだった。ステファニーたちと、挨拶を交わしている。
そんな彼の姿を見ながら、お父様がぽつりとつぶやいた。
「協力者が増えるのはありがたいけれど……あれだけ見せつけたにもかかわらず、なおも食い下がるなんて、私は彼の根性を少しばかり甘く見ていたかもしれないね。ただの惚れっぽい貴族だとあなどったのは、少し申し訳なかったかな」
お父様の口元に浮かんだ笑みは、とても楽しそうなものだった。




