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仮番のはずが、本当の番は宿敵の人狼公爵でした  作者: ワシワシ/三月ふゆ


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2

 打ち合いは、短く、激しかった。

 木剣がぶつかるたび、腕が痺れる。踏み込みが浅いと、すぐ読まれる。隙を見せれば、容赦なく詰められる。だが、その苛烈さが逆にリーゼの頭から余計な靄を払っていった。

「遅い」

「うるさい!」

 返した一撃を、ルシアンはぎりぎりで受けた。肩から肘へ伝う力の流れがうまくて、真正面からぶつかっても押し切れない。なのに軽やかで、妙に腹が立つ。

 近い。

 呼吸が乱れる。

 やはり、殺されて、戻ってきたばかりだから、神経が変になっているのだろう。

「……顔色が悪い」

 不意にルシアンが低く言った。

「寝ていないのか?」

「ご心配痛み入りますわ!」

「そうか」

 それ以上は何も言わない。言わないくせに、視線だけがやけに真剣で、リーゼはわずかに息を詰めた。

 そのまなざしを、昔の自分はどう見ていたのだろう。

 たぶん、ただ腹が立つだけだった。

 打ち合いの最後、リーゼの剣先が彼の肩口を掠めた。

 ルシアンは一歩引いて、ふっと笑う。

「少しは目が覚めたか」

「ええ。おかげさまで。付き合ってくれてありがとう」

「ならよかった」

 それだけ言って、ルシアンは木剣を下ろした。

 いつもなら、ここでさらに感じの悪いひとことが飛んできそうなのに、今日は妙に黙る。

 沈黙が落ちた。

 雨上がりの朝の湿り気と、訓練場に残る土と汗の匂いが、やけにはっきり感じられる。

 リーゼは先に視線をそらした。

「もうすぐ婚約式ね」

「ああ」

「遅れないでよ」

「善処するよ」

 ルシアンは器用に片眉を上げ、肩をすくめた。どうでもよさそう。相変わらずよくわからない人を食った態度だ。朝から稽古に付き合ってくれた感謝が薄れていく。

 でも、そのくらいなら今は耐えられる。

 私を殺したオリアンダーより、ずっとマシだ。ただ、それだけだ。それがこんなにありがたいなんて、ずいぶんどうかしているかもね。

 ルシアンは木剣を脇へ立てかけたまま、ふいにリーゼを見た。

「……本当に、あいつと番になるのか?」

 リーゼは眉をひそめた。

「何、急に」

「別に」

 口調はいつも通り軽い。けれど、金褐色の目は少しも笑っていなかった。

「俺のほうが君に似合うと思うけど、今からでも考え直せよ」

 一周目でも、言われた。

 その時も、笑いながら。

 婚約式なんていう大事な日に、笑えない最悪の失礼な冗談を。

 私のことがそんなに嫌いなのか、だったらこっちだって、と心の底から軽蔑したのを、急にはっきり思い出した。

 なのに今、同じ台詞が落ちてきた瞬間、胸の奥がひやりとした。

 黄金に瞳孔の開く目が、笑っていない。

 笑っているのは口元だけで、その奥は妙に静かだった。

 リーゼは何も言えなかった。

 何を返したらいいのかわからない。

 ルシアンは一拍だけ待って、それから肩をすくめた。

「婚約式には出るが」

 その声も、妙に静かだった。

「結婚式には招待しないでくれ」

「……は?」

 そんなに私が嫌いなの。

「めちゃくちゃにしてしまいそうだからな」

 前も言われた。

 冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。

 つかないのに、心臓だけが変にうるさい。

 ルシアンはそれ以上何も言わず、木剣を拾い上げる。

「じゃあな」

 そうして、本当にそのまま去っていった。

 朝の光の中を、黒髪が揺れる。

 しなやかな背中が遠ざかっていくのを、リーゼはしばらく見送っていた。

 何なの、あれ。

 昔と同じだ。

 同じ台詞。

 同じ感じの悪さ。

 なのに、今は少しも同じように受け取れない。

 婚約式には出るが、結婚式には招待しないでくれ。

 めちゃくちゃにしてしまいそうだからな。

 頭の中で何度も繰り返される。

 嫌なはずなのに、耳に残る。

 リーゼはぎゅっと木剣を握り直した。

 平常心に戻らないといけない。

 考え込んでいる場合ではない。

 これから婚約式だ。

 仮番の誓約を群れに告げ、最後の秘儀で正式な確定を行う日。

 一周目では、何も疑わず進んだ日。

 そして、全部が始まった日。

 リーゼはゆっくり息を吐いた。

 手はまだ少し震えている。

 でも、さっきよりは頭が冴えていた。

 部屋に戻ると、マルタが支度を整えて待っていた。

「お嬢様」

 いつも通りの声に、少しだけ救われる。

「髪を」

「ええ」

 椅子に座ると、鏡の中の自分と目が合った。

 青い顔をしている。昨夜の死の気配がまだ肌の下に残っているようだった。

 でも、生きている。

 今日の私は、まだあの男のために何も差し出していない。今後も絶対に。

 マルタが櫛を入れるたび、淡い銀の髪が肩の上を流れ落ちる。

「お嬢様、本当に大丈夫ですか」

「わからない」

 思ったまま言うと、マルタの手が一瞬だけ止まった。

「婚約式ですから、緊張なさって当然ですよ」

 リーゼは鏡の中の自分を見たまま続ける。

「緊張はしてるかもね。⋯⋯戦いだから」

「……えっ」

 マルタは混乱したようだ。

 リーゼはもう答えなかった。

 婚約式の礼装は、セレニア家の色を織り込んだ白だった。

 締め上げるような華美さはない。動けるように整えられていて、それでも高位の家の娘だとひと目でわかる仕立てだ。

 一周目のリーゼは、この服を着た時、少しだけ嬉しかった。

 ようやく正式に、と思っていた。

 思い返して、胸の奥が鈍く痛んだ。

 でも、その痛みを今日はそのまま連れていく。

 忘れないために。

 リーゼの頭の中ではいくつものことが絡まり合っていた。

 森で殺されたこと。

 戻ってきたこと。

 今日が婚約式だということ。

 そして、朝の訓練場でルシアンが言ったこと。

 俺のほうが君に似合うと思うけど、今からでも考え直せよ。

 昔は、ただ嫌味だと思った。

 今も、感じの悪いことに変わりはない。

 でも。

 どうして目が笑っていなかったんだろう。

 どうして、あんな静かな声だったんだろう。

 考えても答えは出ない。

 今はまだ、それでいいのかもしれない。



 婚約式は、ローゼンベルク家の本邸で行われた。

 人狼たちの貴族社会では、婚姻は家と群れの均衡にも関わる。

 若いうちは本当の番を見極めにくいため、家同士の利害と血筋を踏まえて「仮番」を先に結ぶのだ。

 そして、そのまま結婚することがほとんどだった。

 本当の番を見つけられる幸運なものは稀なのだ。

 だからこの式は、ただの祝いではない。

 仮番同士の家が一堂に会し、群れの重鎮たちが見守る中で行われる、見せるための儀式でもある。

 ローゼンベルク家の本邸は、朝の曇り空の下でもいやに華やかだった。石造りの正面階段、濃紺の旗、磨き抜かれた扉、待ち受ける使用人たち。すべてが「今日は祝うべき日だ」と言っている。

 吐き気がした。

 でも、笑う。

 今のリーゼにできる、最初の反撃はそれだ。

 何も知らない顔をして、この屋敷の本丸へ入っていくこと。

 案内された大広間は、白銀と群青を基調に整えられていた。人狼たちの古い儀式具と、貴族らしい見栄がきれいに並べられている。今日は息苦しい。

 群れの重鎮たちが並び、視線がこちらへ集まる。

 その中に、オリアンダーがいた。

 人前用の優しい顔をして。

 完璧な婚約者の笑みで。

「綺麗だよ、リーゼ」

 一周目でも、同じことを言った。

 その時は嬉しかった。

 嬉しくて、少し泣きそうにすらなった。彼に褒めてもらって、認めてもらえたみたいに感じてた。

 本当に私自身もどうかしていた。

 自尊心が、巧妙に皆の前でこの男に削られていった結果だ。今なら分かる。

 今は、オリアンダーに対して、よくそんな顔ができるものだと思うだけだ。

「ありがとう」

 礼だけを返す。

 声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。

 オリアンダーの目が一瞬だけ曇る。

 けれどすぐに取り繕う。そういうところだけは、本当に上手い。

 少し離れた位置に、ミレイユもいた。

 やわらかい色合いの装いで、控えめに微笑み、いかにも場に慣れていないふりをしている。周囲の視線をよく知っている顔だった。

 ああ、一周目の私は、この女にも刺されていたのだと思う。

 いちいち傷ついて、でもそれを見せたらまたオリアンダーを喜ばせる気がして、ずっと笑ってきた。

 もう、しない。

 リーゼはゆっくり息を吸った。

 大丈夫。

 まだ始まっていない。

 まだ選べる。

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