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打ち合いは、短く、激しかった。
木剣がぶつかるたび、腕が痺れる。踏み込みが浅いと、すぐ読まれる。隙を見せれば、容赦なく詰められる。だが、その苛烈さが逆にリーゼの頭から余計な靄を払っていった。
「遅い」
「うるさい!」
返した一撃を、ルシアンはぎりぎりで受けた。肩から肘へ伝う力の流れがうまくて、真正面からぶつかっても押し切れない。なのに軽やかで、妙に腹が立つ。
近い。
呼吸が乱れる。
やはり、殺されて、戻ってきたばかりだから、神経が変になっているのだろう。
「……顔色が悪い」
不意にルシアンが低く言った。
「寝ていないのか?」
「ご心配痛み入りますわ!」
「そうか」
それ以上は何も言わない。言わないくせに、視線だけがやけに真剣で、リーゼはわずかに息を詰めた。
そのまなざしを、昔の自分はどう見ていたのだろう。
たぶん、ただ腹が立つだけだった。
打ち合いの最後、リーゼの剣先が彼の肩口を掠めた。
ルシアンは一歩引いて、ふっと笑う。
「少しは目が覚めたか」
「ええ。おかげさまで。付き合ってくれてありがとう」
「ならよかった」
それだけ言って、ルシアンは木剣を下ろした。
いつもなら、ここでさらに感じの悪いひとことが飛んできそうなのに、今日は妙に黙る。
沈黙が落ちた。
雨上がりの朝の湿り気と、訓練場に残る土と汗の匂いが、やけにはっきり感じられる。
リーゼは先に視線をそらした。
「もうすぐ婚約式ね」
「ああ」
「遅れないでよ」
「善処するよ」
ルシアンは器用に片眉を上げ、肩をすくめた。どうでもよさそう。相変わらずよくわからない人を食った態度だ。朝から稽古に付き合ってくれた感謝が薄れていく。
でも、そのくらいなら今は耐えられる。
私を殺したオリアンダーより、ずっとマシだ。ただ、それだけだ。それがこんなにありがたいなんて、ずいぶんどうかしているかもね。
ルシアンは木剣を脇へ立てかけたまま、ふいにリーゼを見た。
「……本当に、あいつと番になるのか?」
リーゼは眉をひそめた。
「何、急に」
「別に」
口調はいつも通り軽い。けれど、金褐色の目は少しも笑っていなかった。
「俺のほうが君に似合うと思うけど、今からでも考え直せよ」
一周目でも、言われた。
その時も、笑いながら。
婚約式なんていう大事な日に、笑えない最悪の失礼な冗談を。
私のことがそんなに嫌いなのか、だったらこっちだって、と心の底から軽蔑したのを、急にはっきり思い出した。
なのに今、同じ台詞が落ちてきた瞬間、胸の奥がひやりとした。
黄金に瞳孔の開く目が、笑っていない。
笑っているのは口元だけで、その奥は妙に静かだった。
リーゼは何も言えなかった。
何を返したらいいのかわからない。
ルシアンは一拍だけ待って、それから肩をすくめた。
「婚約式には出るが」
その声も、妙に静かだった。
「結婚式には招待しないでくれ」
「……は?」
そんなに私が嫌いなの。
「めちゃくちゃにしてしまいそうだからな」
前も言われた。
冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。
つかないのに、心臓だけが変にうるさい。
ルシアンはそれ以上何も言わず、木剣を拾い上げる。
「じゃあな」
そうして、本当にそのまま去っていった。
朝の光の中を、黒髪が揺れる。
しなやかな背中が遠ざかっていくのを、リーゼはしばらく見送っていた。
何なの、あれ。
昔と同じだ。
同じ台詞。
同じ感じの悪さ。
なのに、今は少しも同じように受け取れない。
婚約式には出るが、結婚式には招待しないでくれ。
めちゃくちゃにしてしまいそうだからな。
頭の中で何度も繰り返される。
嫌なはずなのに、耳に残る。
リーゼはぎゅっと木剣を握り直した。
平常心に戻らないといけない。
考え込んでいる場合ではない。
これから婚約式だ。
仮番の誓約を群れに告げ、最後の秘儀で正式な確定を行う日。
一周目では、何も疑わず進んだ日。
そして、全部が始まった日。
リーゼはゆっくり息を吐いた。
手はまだ少し震えている。
でも、さっきよりは頭が冴えていた。
部屋に戻ると、マルタが支度を整えて待っていた。
「お嬢様」
いつも通りの声に、少しだけ救われる。
「髪を」
「ええ」
椅子に座ると、鏡の中の自分と目が合った。
青い顔をしている。昨夜の死の気配がまだ肌の下に残っているようだった。
でも、生きている。
今日の私は、まだあの男のために何も差し出していない。今後も絶対に。
マルタが櫛を入れるたび、淡い銀の髪が肩の上を流れ落ちる。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか」
「わからない」
思ったまま言うと、マルタの手が一瞬だけ止まった。
「婚約式ですから、緊張なさって当然ですよ」
リーゼは鏡の中の自分を見たまま続ける。
「緊張はしてるかもね。⋯⋯戦いだから」
「……えっ」
マルタは混乱したようだ。
リーゼはもう答えなかった。
婚約式の礼装は、セレニア家の色を織り込んだ白だった。
締め上げるような華美さはない。動けるように整えられていて、それでも高位の家の娘だとひと目でわかる仕立てだ。
一周目のリーゼは、この服を着た時、少しだけ嬉しかった。
ようやく正式に、と思っていた。
思い返して、胸の奥が鈍く痛んだ。
でも、その痛みを今日はそのまま連れていく。
忘れないために。
リーゼの頭の中ではいくつものことが絡まり合っていた。
森で殺されたこと。
戻ってきたこと。
今日が婚約式だということ。
そして、朝の訓練場でルシアンが言ったこと。
俺のほうが君に似合うと思うけど、今からでも考え直せよ。
昔は、ただ嫌味だと思った。
今も、感じの悪いことに変わりはない。
でも。
どうして目が笑っていなかったんだろう。
どうして、あんな静かな声だったんだろう。
考えても答えは出ない。
今はまだ、それでいいのかもしれない。
婚約式は、ローゼンベルク家の本邸で行われた。
人狼たちの貴族社会では、婚姻は家と群れの均衡にも関わる。
若いうちは本当の番を見極めにくいため、家同士の利害と血筋を踏まえて「仮番」を先に結ぶのだ。
そして、そのまま結婚することがほとんどだった。
本当の番を見つけられる幸運なものは稀なのだ。
だからこの式は、ただの祝いではない。
仮番同士の家が一堂に会し、群れの重鎮たちが見守る中で行われる、見せるための儀式でもある。
ローゼンベルク家の本邸は、朝の曇り空の下でもいやに華やかだった。石造りの正面階段、濃紺の旗、磨き抜かれた扉、待ち受ける使用人たち。すべてが「今日は祝うべき日だ」と言っている。
吐き気がした。
でも、笑う。
今のリーゼにできる、最初の反撃はそれだ。
何も知らない顔をして、この屋敷の本丸へ入っていくこと。
案内された大広間は、白銀と群青を基調に整えられていた。人狼たちの古い儀式具と、貴族らしい見栄がきれいに並べられている。今日は息苦しい。
群れの重鎮たちが並び、視線がこちらへ集まる。
その中に、オリアンダーがいた。
人前用の優しい顔をして。
完璧な婚約者の笑みで。
「綺麗だよ、リーゼ」
一周目でも、同じことを言った。
その時は嬉しかった。
嬉しくて、少し泣きそうにすらなった。彼に褒めてもらって、認めてもらえたみたいに感じてた。
本当に私自身もどうかしていた。
自尊心が、巧妙に皆の前でこの男に削られていった結果だ。今なら分かる。
今は、オリアンダーに対して、よくそんな顔ができるものだと思うだけだ。
「ありがとう」
礼だけを返す。
声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。
オリアンダーの目が一瞬だけ曇る。
けれどすぐに取り繕う。そういうところだけは、本当に上手い。
少し離れた位置に、ミレイユもいた。
やわらかい色合いの装いで、控えめに微笑み、いかにも場に慣れていないふりをしている。周囲の視線をよく知っている顔だった。
ああ、一周目の私は、この女にも刺されていたのだと思う。
いちいち傷ついて、でもそれを見せたらまたオリアンダーを喜ばせる気がして、ずっと笑ってきた。
もう、しない。
リーゼはゆっくり息を吸った。
大丈夫。
まだ始まっていない。
まだ選べる。




