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仮番のはずが、本当の番は宿敵の人狼公爵でした  作者: ワシワシ/三月ふゆ


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 嵐の夜だった。

 リーゼ・セレニアは、ぬかるんだ地面に片膝をついていた。

 雨を吸った土は重く、手をつけば泥が指のあいだまで入り込む。裂けた外套は水を含んで肌に貼りつき、その下の軽鎧には魔物の爪痕がいくつも走っていた。左の脇腹は深く抉られている。応急の止血はしたはずなのに、もう追いつかない。血の匂いは雨に薄まりながらも、まだ生々しく鼻の奥に残っていた。

 熱い。

 なのに寒い。

 息を吸うたび胸の奥がひきつって、視界の端がじわじわ暗くなる。指先にはもう剣を握る力も残っていなかった。魔力もほとんど空だ。何体斬ったのか、いつから戦っていたのか、もううまく思い出せない。

 ここまで無理をしたのは、ローゼンベルク家から持ち込まれた厄介な討伐のためだった。

 これを片づければオリアンダーの立場がよくなる。

 群れのためにもなる。

 君にしかできない。

 そう言われて、リーゼは予定より長く、予定より深く森へ入り、何日も続けて魔物を狩った。

 その結果が、これだ。

 視界の先に、二つの影があった。

 オリアンダー・ローゼンベルク。

 そして、ミレイユ・エデル。

 淡いやさしげな栗色の髪を雨に濡らした男爵家の令嬢は、いつもは頼りなげに震える唇を、今は上機嫌にゆるめていた。

「これで、もう堂々とできるね、オリアンダー」

 甘く、ほっとしたような声だった。

 オリアンダーは濡れた金の髪をかき上げ、疲れたように息を吐いてから、ほんの少しだけ笑った。

「ああ。やっとな」

 その顔を見た瞬間、リーゼは理解した。

 ああ、そうか。

 この男は、最初から。

 最初から、こういう男だったのだ。

 セレニア家の結界も、浄化の術も、精髄の供給も、自分の魔力も、全部。

 全部、彼のために使われてきた。

 好きだった。

 番だと思っていた。

 役に立てることが誇らしかった時期も、たしかにあった。

 傷だらけで魔物の巣から精髄を持ち帰った夜、血の滲んだ包帯の上から「さすがリーゼだ」と笑われただけで、胸がいっぱいになったことだってあった。

 なのに今、彼は、こんなにもすがすがしく笑っている。

 ミレイユを庇うこと自体は責めたくなかった。

 できないことを前に泣く者がいる。手を貸す。それは群れとして間違っていない。リーゼだって、できない者を責めるつもりはなかった。

 けれど、そのたびに自分が引き合いに出される必要はなかったはずだ。

 君は強いから。

 君は平気だろう。

 彼女は君とは違うんだ。

 そう言われるたび、できることも耐えられることも当然にされる。痛くないはずだと勝手に決められる。みんなの前でそう扱われるたび、胸の奥に惨めなものが溜まっていった。

 それでもリーゼは笑って流した。

 そうね、無理をすることはないわ。

 群れは、そのためにあるもの。

 そう言って場を収めた。

 オリアンダーのために。

 群れのために。

 自分はいずれ、それを支える側の女になるのだと思っていたから。

 それも全部、無駄だった。

 雨がいっそう強くなる。

 リーゼは唇の端に、かすかな笑みを浮かべた。

「ああ……」

 声にならない息が漏れる。

 こんなやつらのために。

 怒りより先に、奇妙な静けさが胸の奥へ広がっていく。

 もう、いい。

 もし戻れたら。

 やり直せたら。

 そんなありもしない願いが、死にかけた頭の片隅をよぎる。

 その瞬間、オリアンダーが屈み込んできた。

 雨に濡れた灰青の目が、死にかけのリーゼの顔を覗き込む。

 その眼差しは優しさではなく、妙に粘ついた執着の名残に濡れていた。

「そういう目をするんだな」

 低く囁いて、金の髪は雨に打たれ、彼の緑の目は満足そうに笑った。

 リーゼは、その言葉の意味を理解する前に意識を失った。

 暗闇が落ちてきた。

 冷たいはずの闇は、どこか焼けるように熱かった。

 ――戻れたら。

 それだけが、最後に残った。

 次にリーゼが目を開けた時、そこにあったのは血の匂いではなく、白百合の香りだった。

 まぶしさに、何度か瞬きをする。

 天蓋付きの寝台。磨き込まれた鏡台。厚い絨毯。見慣れた侍女服の背中。

 自分の部屋だった。

 違う。

 さっきまで、私は森にいた。

 泥に膝をついて、腹を裂かれて、血を流していた。

 オリアンダーとミレイユが笑っていた。

 夢ではない。

 あんなもの、夢であってたまるか。

「お嬢様?」

 侍女のマルタが振り向いて、目を丸くした。

「どうなさいました? お顔色が」

 リーゼは喉を押さえた。

 痛くない。

 血も、ない。

 腹を触る。破れた感触も、熱い血も、どこにもない。指先も、腕も、ちゃんと動く。

 混乱したまま視線をさまよわせて、鏡台の上の日付札を見た瞬間、息が止まった。

 婚約式の日。

 頭の中で、何かが音を立てて繋がる。

 あの夜より前。

 殺されるより前に。

 全部が始まる、その日に。

 戻ってきたの。

 婚約式の日に……?

 喉の奥がひくりと震えた。

 思い出したくもないのに、雨の冷たさも、泥の重さも、腹を裂かれた痛みも、あまりにはっきり残っている。

 あの嵐の夜までが一度目なら。

 今は、二度目だ。

 一周目。

 二周目。

 そう名づけた瞬間、心のどこかが少しだけ落ち着いた。

 だったら今度は。

 今度は、私の人生は、私のものよ……。

 いいように使われたりしない。

「お嬢様?」

 マルタの不安そうな声で、リーゼははっとした。

「……何時」

「はい?」

「今、何時?」

「午前九時でございます。本日の御支度、そろそろ」

 九時。

 婚約式まで、まだ少し時間がある。

 震える手を握りしめる。

 怖くないわけではない。胸はうるさいほど鳴っているし、足先は少し冷たい。でもそれ以上に、腹の底には黒い怒りが沈んでいた。

「マルタ」

「はい」

「今日の式、予定通りに進めて」

「承知しました」

「それから……ローゼンベルク家の訓練場、まだ使える?」

「はい。招待客用に朝のあいだも開けているはずですが……」

 そこまで聞いて、リーゼは顔を上げた。

「誰か使っている?」

「フェンリル公子様が、夜明け前にローゼンベルク伯へ断って借りられたと聞いております」

 マルタが少しためらいがちに答える。

「婚約式の前に身体を動かしたいと」

 リーゼは息を呑んだ。

 ルシアン。

 胸の奥が妙にざわつく。

 一周目の自分は、あの男を見るたび腹が立った。何を考えているのかわからなくて、意地悪で、いつも余裕ぶっていて。

 最低なクソ野郎のオリアンダーに比べたら、全然感じのいいやつだ。

 ムカつくことを言われても、今なら寛大な心で許せそうだ。

 心なしか、少し落ち着かない気もする。

 殺されたばかりだからかも。

 近くに立たれるだけで、息が浅くなる。

 ルシアンは、少なくとも卑劣な不意打ちで女を殺す男ではない。

 平常心に戻り、これから婚約式で戦うためにも、訓練したい。

「お嬢様?」

「……行く」

「ですが、お支度が」

「少しだけでいい」

 短く言うと、マルタはもう何も言わなかった。

 リーゼがこういう声を出した時、止まらないのを知っているからだ。

 軽装のまま部屋を出る。

 回廊を抜けるたび、心の中で何かが少しずつ噛み合っていく。

 思い出せ。

 何をされたか。

 何を差し出したか。

 どこで、どんなふうに、自分が削られていったか。

 もう二度と、同じようにはならないために。

 訓練場には、すでにひとり、先客がいた。

 黒髪が、朝の光を鈍く返している。

 長身で、しなやかな若い雄鹿を思わせる身体つきだった。厚すぎる筋肉ではない。けれど肩から胸、腰へ流れる線は無駄なく張っていて、木剣を振ったあとの汗が喉元から鎖骨へ伝うさまが、妙に目を引く。

 そして、振り向いた時にこちらを射抜いた目。

 蜂蜜を煮詰めたような金褐色の双眸が、まっすぐリーゼを捉えた。

 ルシアン・フェンリル。

 人狼公爵家フェンリル家の次期アルファ。群れの長の座を継ぐ男。

 そして、一周目のリーゼには、感じの悪い宿敵としか思えなかった男。

 ルシアンは木剣を肩に担いだまま、やって来たリーゼを見ると、片眉だけをわずかに上げた。

「婚約式の日の朝に鍛錬とは、勤勉だな。リーゼ」

 その声音に、昔と同じ棘がある。

 一周目の自分は、こういうところが嫌いだった。

 人の心をざわつかせる言い方ばかりして、いつも余裕そうで、何を考えているのかわからない男。

 でも今なら、ムッとするくらいで済みそうだった。

「あなたには関係ないでしょ」

「あるさ」

「ないわ」

「今日はある」

 噛み合わない。いらつく。けれど、たぶん今はそれでいい。

 ルシアンは木剣を軽く振って、指先でくい、と招いた。

「一戦するか」

「朝から?」

「朝だからだろ?」

「婚約式の日よ」

「だから身体を動かして、頭をすっきりさせた方がいい」

「あなた、本当に感じが悪いわね」

「リーゼにだけは言われたくないな」

 その言い方に、少しだけ懐かしい何かが刺さる。

 一周目でも、こうだった。

 彼はいつだって、こちらを怒らせるようなことしか言わなかった。

 けれど剣を交えた時だけ、誰よりもリーゼの全力を受け止めてくれた。

 弱いふりも、手加減も、慰めもない代わりに、誇りだけは絶対に踏みにじらない男だった。

「……いいわ」

 リーゼは壁際の訓練剣を取った。

「あなたを叩きのめしたら、少しは頭が冴えるかも」

 ルシアンの口元がわずかに上がる。

「それは楽しみだ」

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