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36:あなたと共に存在していたということを

 冷たい床の上を裸足で歩いていた。寝静まった廊下に、ひたひたと足音が響く。

 

 こんな時間に起きている者などいないことは分かっていたが、それでも、誰かが気づいてドアを開けるのではないかという予感が拭えなかった。

 

 今は誰にも会いたくない。

 

 ひとりで密かにあの木と決別をしたかった。


 薄暗い階段を降りると、すぐ目の前に大ホールが広がっていた。六フロア吹き抜けのアメニティ空間で、中央には、厚さ五センチのガラスケースに収められた、十メートルほどのルリカの木の標本があった。それは“オリジナル”――廃棄性放射能を浴びて変異する以前の第一世代(ファースト)と呼ばれている。

 

 研究者たちが保存されていた種を成長させ、サンプルを採取したのち、この場に展示したものだ。

 

 このホールは共用の多目的スペースとして使用されているが、言われなければ、この木がルリカの木の原型だと気づく者はほとんどいない。それほどルリカの木の形態変化は著しかった。


 ルリカはガラスケースの前で足を止めた。冷たい強化ガラスに手を触れ、標本を見上げる。

 

「ルリカの、木……」

 

 自分の両親と弟を喰らい、地上のありとあらゆる生命を奪ってきた、自分と同じ名前の木。両親がなぜこの木と同じ名前を自分につけたのか、ルリカは知らなかった。

 

 意味はあったのだろうが、もう聞くこともできない。

 

 この木を創り出し、こんな名前を付けたひとりの研究者を、ルリカは恨んでいなかった。この木とともに、自分の存在が消えてしまうのも――それでいいとさえ思っていた。

 

 この木がすべて悪いわけではない。この木が出現しなければならなかった状況――ヒトの愚かさこそが、元凶だった。


 深刻化する環境破壊に、ヒトはその根源を改善することよりも、更なる科学技術に投資し、人工物の投入を選択した。

 

 ルリカの木は、きっと自然界からヒトへの報復の具現化なのだ。そうやってヒトが淘汰されていくのなら、それこそが自然の摂理だ。

 

 自分たちは、その意味こそを考えなければならないのだ。


 時空移転装置を使って過去を変える行為は、そういう意味では再び自然の摂理に人工的異物を介入させることになる。それでも、いったんリセットをかけてやり直す機会が与えられたと考えてもいいはずだ。

 

 明日になってサカキが過去へ飛んだ後、ルリカの木のせいで死んでいった人々や、多くの生命の連鎖が蘇り、世界は新しい現実に成り代わるはずだ。

 

 それがどんなものなのか、ルリカには分からない。一四〇年の間に環境破壊は更に進み、地球上は砂漠になっているかもしれない。どこかで大きな戦争が起きるかもしれない。

 

 それでも――


 あの残虐な木がはびこる、死と恐怖だけの現実よりは、きっとましだと思えた。

 

 死と恐怖しかない、この世界よりも。

 

 どこにも逃げ場がない――そんな現実よりも。


 


「ルリカ?」

 

 呟くように名を呼ばれ、我に返って振り返った。ルリカが降りてきたのとは反対側の階段に、サカキの姿があった。

 

「眠れないのか?」

「うん。この木も見納めだと思って」

「こんなもの、わざわざ見納めなくてもいいだろ」

 

 ルリカの隣までやってきて、サカキもルリカの木の標本を見上げた。

 

 その横顔を見ながら、ルリカはサカキも同じように、この木と決別しに来たのだと悟った。誰よりも長く多くこの木と闘ってきたサカキだからこそ、余計に思い入れも深いのだろう。


「この木のおかげで、私はサカキに出会えたんだよね」

「……そうだな」

 

 小さく笑いながら、サカキがルリカを見下ろした。

 

 真っ直ぐに人を見据える、その濡れたような漆黒の瞳が――好きだった。

 

 夜のように深く強い光を宿した瞳は、言葉少ない彼とは裏腹に、彼の意思を何よりも強く映し出していた。


 出会った頃から、それは少しも変わらなかった。

 

「この木が存在しない、新しいもうひとつの現実で、私たちは出会えるのかな」

「――出会える」

 

 考える間もなく、サカキは言い切った。

 

 当然だと言わんばかりに。

 

「他の皆が忘れてもオレは覚えている。ルリカのこともこの現実のことも」

「すごい自信だね」

 

 その根拠がどこにあるのか分からないが、サカキがそう言い切るのなら、本当にそうなのだろうと思えてしまう。実際、サカキはできないことをできると言ったことはないし、やると言った以上必ずそれを実現させてきた。


「そうでなければ、意味がない」

 

 ルリカを見下ろす目には揺るぎない決意が見てとれた。

 

 出会った頃のサカキは、生きる強さは持っていても、物事に対して強い思い入れを持ってはいなかった。生きることにすら何の頓着もないようだった。

 

 もし、自分という存在が、少しでもサカキを変えたとしたら嬉しい。


 ルリカは首に手を回し、幼い頃からずっと身につけていた銀のネックレスをはずした。

 

「これ、あなたに預ける」

「……母親の形見だろ」

「母は自分の母親にもらったって。代々娘に受け継がれているものらしいの」

「そんな大事なもの、オレに預けていいのか」

「だからこそ持っていてほしい」

 

 ルリカは笑った。

 

「留め金のところにイニシャルが彫ってある。R.I.ってね。――Rina Izumi」

「それって……」

 

 驚いたサカキは、ネックレスを近づけてイニシャルを見た。

 

「――和泉莉菜。彼女がこのネックレスの一番初めの持ち主なの。」

「そうなのか……」

 

 偶然、にしてはあまりにも不思議なめぐり合わせだった。一四〇年の時間を超えて、サカキは明日、当の本人に会いに行く。

 

 場合によっては、彼女を殺すことになる。

 

 自分が和泉莉菜の子孫だということは、ずっとルリカの負い目だった。サカキにも打ち明けることができないほど。

 

 多くの命が奪われていく中で、ルリカの木を創り出した和泉莉菜の子孫である自分が生きていることへの罪悪感。

 

 きっとサカキは、そんなものルリカが背負う必要はないと言ってくれるだろう。


 それでも――


 自分は多くの命に助けられて生きてきた。


 そして、多くの命を犠牲にしてきた。


 それを忘れてはいない。

 

 

 サカキはぎこちない手つきで、銀のネックレスを首にかけた。初めての感触にくすぐったそうにしていたが、すぐに表情が引き締まった。

 

 ルリカが託したものに気がついてくれたのだろう。


 その様子を見ながら、ルリカは薄く笑った。

 

 きっと、サカキならやってくれる。

 

 ――もしかしたら、自分たちは、そのために出会ったのかもしれない。





 サカキ、忘れないでいて。


 あなたがここに戻ってきたとき――

 

 たとえ私がいなくても、

 

 私は確かに、


 あなたと共に存在していたということを。

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