14 : 植物にも意識があると思ってる
「あれ?」
買い物バッグをテーブルに置いて、莉菜は部屋の中を見回した。留守番をしているはずの少年の姿がどこにも見当たらない。出かける前に置いた金はそのままだ。ここを出て行きたくても、IDカードだけでなく、金がなければ出られるはずがない。
「散歩かな」
熱のこもった部屋に風を通すため、窓を全開にする。日が一番長いこの季節、夕方とはいっても陽はまだ高く、西日を受けた街の影がまだ色濃い。ベランダに出て、西日の眩しさに目を細めながら風を受けた。
すぐ下の小川では小学生くらいの少年がふたり、網と小さなバケツを持って魚を追っている。そのすぐ側で小さな女の子が川原にしゃがみ込んで二人の行く末をじっと見守っていた。仲間に入れてもらえないのだろうか。莉菜は何だか微笑ましい気持ちで三人の姿を眺めた。
そのうち彼らはそこを諦めたのか、下流のほうへ移動して行き、街路樹の葉の陰に見えなくなった。そのまま下流へ目を向けると、中央公園の木々が視界に入った。夕方の太陽がちょうどその上にかかっている。
莉菜は手を目の上にかざして、夕凪に揺れる茂みを見つめた。
まさか……。干してあったTシャツを引っつかみ、急いで着替えはじめた。中央公園の茂みの中に、少年がいるような気がした。
洗いざらしの白いシャツに汗がにじむ。帰ってきてから着替えればよかったと思いつつ、テーブルの上に置いたカード・キーの束を引っつかんだ。
慌てて出てきたものの、中央公園の石畳を歩きながら、莉菜は小さなため息を漏らした。この広い公園で彼一人を見つけるのは容易ではない。すれ違う可能性もある。勢い込んで部屋を出てきたことを後悔しながら、少しぶらぶらしたら戻ろうと考えた。
「明日も天気よさそう……」
陽が傾いて夕焼けがかった空を見上げ、莉菜は呟いた。汗ばんだ身体に夕方の風は涼しくて心地よい。陽が傾くのを待って出てきた人たちが、ベンチに腰かけて涼んだり、散歩を楽しんだりしている。
街の外への往来に制限があったり、ショッピングや映画を楽しむ場所がないなど、この街には不便が多い。たが、この公園は人々の憩いの場になっている。この街に住む人で、この公園を利用しない者はいないだろう。
風に乱された髪を無造作にバレッタで留めながら、背の高い樹木の間を通り抜け、池に面したループ路に出た。
「さて……」
腰に手を当て、右か左か思案する。
陽の当たらない池には、鴨たちの姿はすでにない。池を通って吹き抜ける風は、さすがにひんやりとしてきた。
莉菜はしばらく迷って、右に行くことにした。大学に向かう通学路である。この先は昨日の朝少年を見つけた場所だった。
木陰だけの涼しげな道には、散歩やジョギングをしている人のほかに、学校帰りの大学生たちの姿もちらほらしている。少し歩くと、カーブする石畳の道の先に、少年の姿が見えてきた。
「あたり」
そう呟いて莉菜は歩調を早めた。
昨日と同じく、少年は大きな樹木を振り仰いで佇んでいた。その姿は、なぜか周囲から浮き上がるように際立って見えた。整った横顔からは何を考えているのか分からないが、まるで木と対話しているようだ。
近づいていくと、少年が顔だけ動かして振り向いた。
「……莉菜」
「部屋にいなかったから、散歩がてら捜しにきたの」
そう言って少年が見つめていた樹木を見上げた。
「昨日も同じように木を見上げていたけど、覚えてる?」
「……何となく」
少年は短く答えると、三十センチ程の柵を越えて中に入り、ごわごわとした木の幹に手を触れた。
「不可解な感覚だ。目の前にこんな大きな木がある。なのにこんなに静かなのは」
「どういうこと?」
彼の真意をはかりかねて莉菜は首を捻った。少年は振り返り、莉菜の瞳を見つめたまま低く答えた。
「よく、わからない」
それっきり何も言わずに彼は歩き出した。
「思い出せたこと、何かないの?」
「ない」
寒くなってきたのか、少年はシャツのボタンを留めながら答えた。
「……新しい服買った方がいいわね。」
少年の長い指先を見つめたまま莉菜は言った。彼は大きく破けた肘に目をやり、それから莉菜の顔を見下ろして軽く首をすくめた。当の本人はたいして気に留めていないようだ。
莉菜が口を開きかけたとき、向こうからジョギングをしてきた年配の男性が、すれ違いざまに軽く会釈をしてきた。朝のジョギングのときによく挨拶を交わす人である。慌てて莉菜も会釈を返した。
「ここは、いろんな人が集まる場所だな」
男性が通りすぎていくのを見送って、少年が不意に言った。
「そうよ。この公園はこの街に住む人たちの憩いの場だからね」
「なぜ?」
「なぜって……」
予想外の質問に莉菜は戸惑った。
「緑や池のある場所って、落ち着いたりしない?」
「落ち着く……」
少年は、その言葉を確かめるようにゆっくり繰り返した。
「あなたは違うの?」
「オレは…」
そう言って、少年は言葉を途切った。
「――少し違う気がする」
「どう違うの?」
「何というか、気を抜けない感じがする。」
「気を抜けない……」
莉菜は小さなため息をついた。それが彼の記憶と関係があるか分からない。
「私ね、植物にも意識があると思ってる。人とは違うけど、ちゃんと反応してくれる。人はそれに癒されるんじゃないかって」
「だから安堵するのだと?」
「そう」
少年の言葉に莉菜は笑顔を見せた。
「もちろん、私個人の考えだけどね。でも、人間だって自然の一部だし、安堵感や懐かしさを感じてもおかしくはないでしょ」
「懐かしさ……」
「ずっと出かけていて、やっと家に戻ったとき、ほっと一息つくでしょ。あれと一緒」
少年は正面から吹いてくる風に髪を乱しながら、思案しているようだ。
「一緒と言われても、分からない」
「分からない?」
「ああ」
「それって……」
莉菜は思わず立ち止まり、少年を見上げた。何かの手がかりが見つかるかもしれない。
少年も立ち止まって宙をにらんだまま、一瞬考えを巡らせたようだったが、すぐに莉菜に目を向けた。
「分からない」
「分からないことばかりね」
予期していた答えだった。何か見えそうで、結局なにも見えてこない。
「まあいいか。時間はあるし、悲観的になってもしょうがない。とりあえず帰って夕ご飯でも食べよう」
無言のまま莉菜を見下ろす少年を励ますように、満面の笑顔を見せて莉菜は歩き出した。
どうにかなるだろう。
その楽天的な前向きさも、彼女の長所だった。




