第四話
妙にはしゃいでパスタやパン、スープを堪能するアルバロを鑑賞した朝食も終わり、今皐月は過去にしたことがない行為をしている。軽くどころでなく息を切らせながら。
欠食児童に瓜二つなほどの勢いで、何度も「美味しい」と口にしながら食べてもらえるのは意外に嬉しかった。もっともあれはレトルトで、自分で作ったものではないけれど。ああ、美味しい物を食べてテンションが上がるのはやっぱり万国共通なのかもしれない。なんて余所事を考えるのは、今している行為が辛いからに他ならない。
今皐月は、マイナスイオンがふんだんに含まれているだろう空気を感じつつ、歩いている。しかも獣道としか思えない道を。歩き始めてもう二時間と少しは経っているが、目的地にはまだ着かないようだ。
自宅と会社、たまに寄り道でスーパーに行く程度の運動しかしない近年。しかも学生時代から体力値は底辺レベルな自覚のある皐月には、この道程はキツすぎる。もう半分以上心が挫けている。
「うう……」
一人歩みが遅い自覚はあるが、まずもってコンパスが違うのだから許して欲しい。しかも履いているのはヒールは低いがパンプスだ。履き慣れた物ではあるけれど、それは整えられた平地でのみ。アウトドアに向くような靴でもない。痛み始めた爪先とふくらはぎを押して唸るようにして歩くけれど、やっぱり歩みが遅い。足手まといってこんな状況を言うんだろうな、なんて考えてみるけれどそれで気分が上向くわけでもない。
なにせ先ほどから痛いほどの視線が向けられるのだ。わからないわけもない。
レオの背中越しから、時折何か言いたげな視線を寄越すフォルナート。そんな彼の寄った眉を視界に入れつつ、ただ歩く。多分呆れられているんだろうけれど、これ以上のスピードアップは無理だからせめて足だけは止めないでおこうと決める。
死にかけの皐月には、この行程が何かの修行なのかと思うくらいの苦行だが、周囲の美形軍団は顔色人一つ変えていない。それが余計に足を止められなくさせてもいるが、救いは隣を歩くアルバロだ。彼も自分と同じ程度には息が上がっている。当面の目標は彼に遅れず歩くこと、である。
はあ、と大きく息をついて思う。もう一つの救いは、虫一匹いないこと、だろうと。
ここは森である。それも緑の深いひと気のない森。自然溢れる場所に付き物のそれがいないことは喜ぶべきこと、と思う皐月は遠目で見る蝶やトンボといった、あまり害のない虫ならば苦手ではない。が、蜘蛛や蜂に足の多い虫などは生理的に無理。悲鳴を上げて逃げる自信がある。まあ、今は体力値が最低ギリギリのため、できない可能性大だがそれも現れないのなら気にせずに済む。
取り留めなくどうして森に虫がいないのかをぼんやり思う。湖畔には蝶も、それ以外の虫もいた。だからこの世界に虫がいないわけではない。じゃあ、この森が特別なのか。緑と言えばあれが出ているのだろう。
溢れるほど、実際何度も枝葉が頬に当たるくらいに繁っている。だからきっと、ここにはフィトンチッドが多いのだろう。清々しい緑の匂いも強く感じるし、きっとそうだと納得する皐月だが、実際ここにそんな物質があるのかは知らない。そんな余所事を考えてしまうのは、もちろん無心に歩くのが辛くなってきたからだ。
無言のまま、足を進めて行くけれど辛い。せめてゴールまでどの程度なのか聞けば、その残りは頑張れるかも知れない──ともしかしたら心が折れるかも知れない質問をしてみた。この団体の長であるレオに。
「──あと、どれくらい歩く……予定、ですか?」
「んー…そうだね、あと一刻半くらいかな」
一刻ってどれだけ? まだ歩くの、と思わず応えてくれたレオを見つめてしまう。
皐月にはこの世界の時間の数え方がわからない。もしここでの一刻が皐月の知る江戸時代と同じであったなら──考えて項垂れた。こんな道を、しかも異性のペースに合わせて後三時間も歩けない。多分途中で行き倒れる自信がある。自慢にもできないが、絶対無理だ自分には。
項垂れたまま顔を引きつらせる皐月へと、息も絶え絶えな声が届く。
「一刻は……お前んとこだと……イチジカンハンってやつ……っらしい、ぞ」
「え? 一時間、半……?」
日に当たることが少ないのだろう、青白いくらいに白い肌に神経質そうな顔つきをしたアルバロ。身長的にも近いと感じていた彼は、どうやら体力的にも同程度なのだろう。皐月は大汗をかき、悲愴感漂うアルバロの言葉を聞き、計算してみた。
「ああそうか。サツキは知らなかったね、ゴメンね気づかなくて」
「や、それは……いい、ですけど……」
「はは、疲れてるみたいだね。大丈夫かい? 少し休もうか」
「……できたら、嬉しいです。でも……時間、平気なんですか?」
一刻が一時間半なら単純に半刻は四十五分。合計で二時間と十五分くらい歩くのだ。正直無理だ。せめて小休止を入れさせてもらえたなら皐月としても嬉しいが、先ほどから自分を見てくるフォルナートが文句を言いそうな気がした。
チラリと彼を窺い聞けば、別の場所から返事が届く。
「構わない。日暮れ前には余裕でつける。心配するな」
「ジェットの言う通りだ。時間はあるのだから、お前の体が辛くない行程で向かえばいい。実際辛いのだろう? 随分と顔色が悪くなっている」
「う、え、えと……」
キラキラしい、五人の中で一番王子様然としているエリオットの言葉。しかもそっと、それもまるで壊れ物に触れるかのような柔らかさで頬に手が添えられる。さっきまで歩き疲れて火照っていた頬が別の意味で熱くなった。多分今ので顔色はすこぶるよくなったはず、と惚けたまま彼を見上げてしまう。
ほんの少しだけ上気した滑らかな白い頬。スッキリとした目元が涼しげな、十人中十人が振り返るだろう美形なエリオット。似合う形容はカッコイイじゃなくて美しいか麗しいだろう。ていうか光に溶けるような淡い金の髪に空のような青い瞳にけぶるような長い睫毛。やっぱり完璧な王子様じゃないか。なんてことを考えてしまう皐月は、別に白馬の王子様に憧れているわけではない。嫌いなわけでもないが。
眼福だけど、でも本当にその言葉に乗って平気なのだろうか。ちょっとばかり心配になりながら彼を見上げていればまた届く声。
「お、俺は……休むのに、賛成だ……」
自分と同じか、もしくはもう少しばかり疲労が深刻に溜まっているだろうアルバロは、そんな一言とともにその場に座り込んだ。頭を下げ、肩で息をするその様子は本当に彼に体力がないのだと教えていた。
周囲の面々もそんな彼に苦笑いしながら足を止める。
「そうだね、じゃあここで少し休んでいこうか」
「仕方ありませんね、エリオットが言うのですからそれが正しいのでしょうし……。エリオット、水をどうぞ」
「ああ、すまないフォルナート。……サツキの分はどうした?」
「ジェットが持っていますよ。心配ありません。水筒の余分はありませんでしたが、彼女の荷物の中に飲み物があると言っていましたからね。彼女の分はそれで賄う予定のはずですよ」
手持ちの水筒を一つ、エリオットへ献上するかのように渡すフォルナートは、どう見ても王子に付き従う侍従のようだった。しかもそんなフォルナートの行動に疑問も持たず当たり前のように水筒を受け取るエリオットは、やっぱり王子様にしか見えない。
足を止めたことでいっそう汗が出て、不快な気分を味わいながら皐月は水筒代わりのペットボトルを一つ出す。今皐月が持っている荷物は、初めの時に漁ったトートバッグ。そこには会社に行くために必要な物しか詰めていなかったが、丁度よく昨日買ったお茶の残りが入っていたのだ。
適当な倒木に腰掛け、生温いお茶を口に運ぶ。正直キリッと冷えたビールを飲みたいくらいだけれど、贅沢は言えない。ましてまだこれから歩くことは決定事項なのだから、酒が欲しいなんて口が裂けても言えない。皐月は粛々とペットボトルを傾ける。
「丁度半分くらいかな、この調子ならジェットの言う通りに日暮れ前には着けるだろうね。……少し早いけれどどうせなら昼食も済ませてしまうかい?」
「それも悪くはないですが、それなら昼食時間を過ぎた頃にまた休憩を取った方が得策でしょう。彼女は我々と随分と違うようですから」
「ああ……そう、だね。華奢な靴も履いているし、休憩は小まめにした方がいいか……サツキ、少しいいかい?」
「え、あ、はい。なんですか?」
「足、辛いんだろう? 少し冷やそう」
「え? べ、別に平気ですよ?」
レオの言葉に動揺してしまうが、どうして気づかれたのか。皐月はそっと自分の足を彼から見えないように引っ込めてみた。全く隠れてはいないけれど。
「足引きずっていたろう? ここからまだ歩くし、道は今までより少し荒れてしまうんだ。だから不安要素はなるべく排除しておきたい。まあ、どうしても冷やすのが嫌で、このままで行くと言うのなら途中からジェットが君を抱えて歩くことになるよ。それでもいい?」
「ああ、俺は構わない。その方が負担は少ないだろう」
「え! ちょ、それは……」
「? 別に落としはしないぞ?」
そんな心配はしてません、ていうより抱き上げられるのが嫌なんです! とは真っ新なほど下心の滲まないジョルジェットの目に言えなくなる。
けれどキラキラした、オリエンタルな美形と密着する。しかもひたすらに歩いて来た所為で汗臭い自分を自覚しているのに。そんなことできるわけないと思ってしまう程度には皐月も乙女だ。
「じゃあ、足を見せて? 抱き上げられるのは嫌なんだろう? ならできるよね?」
「……はい」
「ジェット、水と薬を。……いや、癒しをかけよう」
「そうだな。サツキ、楽にしていろ」
倒木に腰掛けた皐月の前に跪くようにして座る美形二人。心臓に悪いこの構図を見ずに済むように目を閉じて、足の力を抜く。代わりに肩にはすごい力がこもったが仕方ない。自分の足に触れるレオとジェットの手だとか、細いとは言えないけれど太くもない足を見られているだろうとか。考えたらきっと羞恥で死ねる。緊張してしまうのも当たり前である。
ストッキングに包まれた足。もしかしたら脱いでおいた方が良かったのだろうか、とは思うがパンツスタイルの皐月がそれを脱ぐにはあの小屋は狭かった。一部屋しかない場所で眠ってはしまったけれど服は脱げない。
ああ、どうしたら──ぐるぐると混乱してしまう皐月を他所に、ジョルジェットが何事かを呟く。
「水精霊よ、彼女に癒しを」
その言葉が気になって薄目を開ければ見えるのはふわりと薄青い柔らかな光がジョルジェットの手のひらから生まれるところ。じんわりと爪先とふくらはぎとが温かくなる。温感湿布を貼った時のような感じであるのに、それよりもずっと足が軽くなっている。
これが神力ってものなのか。不思議だけれど嫌な感じではなく、むしろ気持ちいい。労られているように気がして、皐月は強張らせていた肩の力を抜いた。
「……随分と効きがいいな」
「そう、だね。いつもより光が強かったし……何か違う事をしたわけじゃないだろう?」
「ああ、いつも通りどころかもっとも簡素な言葉にした。傷ではなく痛みを取るだけなのだからそれで充分だろう? だが効果がおかしい」
「えと、あの……どうかしましたか? なにかおかしかったんですか?」
「いや、なんでもないよ。サツキ、もう痛みはないかな? 楽になったかい?」
「あ、はい。すっごく楽です。歩き始めた時よりずっと楽。その、お二人ともありがとうございます。これでまた歩けそうです」
「いや、礼には及ばない」
「楽になっても、疲れは残っているはずだからあまり無理をしては駄目だよ。エリオットも言っていたけれど、疲れたり辛かったりしたらちゃんと言ってくれないかい? 女性と行動することがないからね、僕らは平気だからとつい君に無理をさせてしまうかも知れない」
真剣に言うレオに、体力がないので小まめに休憩は嬉しいです。と言い切れるほど厚顔にはなれない。が、迷惑をかけたくもない。ならば答えは一つだと、皐月は頷く。
「わかりました。本当に体力がなくて申し訳ないです」
多分自分がいなければ、彼らは目的地に着いていただろう。そうわかったからこその謝罪だったが、それはある意味で受け入れられ、ある意味で受け入れられなかった。
「いや、いいんだよ。君は女性なんだから、それが当たり前のはずだろう?」
「そうですよ、あなたが謝ったりしたらアルバロも謝罪しなくてはいけなくなるでしょう? 甘えればいいのですよ、あなたは」
あんなに意味深な視線を寄越していたフォルナートが、笑顔で言った。あんまり胡散臭く感じないその顔は、本心から言っているのだろうか。彼の性格を理解できているわけもない皐月には判断もつかない。が、周囲が彼に注目をしているところを見れば、なんとなくはわかる。これが普段通りの彼の姿ではないのだと。
「え、フォルナート……さん? えと、それはどういう……」
どうしてだろうか。胡散臭いと思っていた相手の爽やかな笑顔が怖いと思うのは。皐月は寒くもないのに自分の両腕を抱え込みそうになった。多分絶対に失礼になるだろうから抑えたけれど。
真っすぐに自分を見るフォルナートの視線に戦々恐々とする皐月の耳に、それはもう低い、機嫌の悪さが窺える声が聞こえる。
「……フォルナート、それは暗に俺の体力がこいつと同等と言いたいのか?」
「嫌ですね、同等ではないでしょう? あなたの方が先に音を上げたではないですか。だらしないですよ、アルバロ」
「な! ばっ馬鹿にすんな! 俺はこいつが言わねえから!」
「ああ、もう。アルバロあんまり騒ぐとなけなしの体力がまたなくなるよ。それに大人気ない」
「っぐ……」
やっぱりアルバロはみんなにいろんな意味で可愛がられているのだろう、と気づいてちょっとばかり生温かい目で見てしまう。皐月にとってもアルバロの性格は読みやすい。隠し事のできない、よく言えば素直。悪く言えば単純な彼を操縦するのは簡単だ。
「……アルバロ、ありがとう。お礼に昼食にさっきと違うやつ渡すね」
「──ゆ、許してやらないこともない。が、勘違いすんなよ、俺が許してやるのは、腹いっぱい飯が食いたいだけだからな!」
「ああ、うん。わかった。大丈夫だから、水でも飲んでもう少し休もう?」
よっぽどあのパスタが気に入ったようで、彼の機嫌は見事に好転している。そっぽを向いた上、口では納得していないと言っているが雰囲気が柔らかくなっている。だからだろうか、皐月はアルバロはツンデレ属性があるのだろうと思ってしまう。美形、それもインテリ系美形がツンデレというのはある意味美味しいので、それはマイナスポイントにはならない。ご馳走でもないけれど、可愛らしいと思えてしまうのだから、それがアルバロの美点なのだろう。
「はい、良ければこのお茶どうぞ。冷たくはないけど」
「……もらってやらないこともない……」
こんなに扱いやすくていいのだろうか。ちょとばかり彼の行く末が気になるところだが、本人曰く『王都一の頭脳』の持ち主なのだ。きっと大丈夫なはず。やっぱり生温かい目をしたまま、彼を見つめて和んでしまう皐月だ。
アルバロの隣、同じ倒木に腰掛けて枝葉の隙間から零れる陽の光を見る。これまで見てきたどの光よりもそれが綺麗に見えるのは、この場所の空気が綺麗だからなのか。それともここが知らない場所だからなのか。
ぼんやりと光が作る模様を眺めながら、どうすればこの世界から帰れるのだろうかを考えてみる。夕べ眠る前に皐月が聞いた言葉に対して、レオも誰も明確な答えを返さなかった。それはつまり帰る方法がないのか、彼らがそれを知らないのかの二択だろう。
もし帰る方法を知らないのだとしたら、それをどう探せばいいのだろうか。アルバロが一刻が何時間かを知っていたように、それも調べることができないか。取り留めなく考えていれば声が届く。
「ねえサツキ、不躾な内容だと思うんだけど幾つか質問をしてもいいかな?」
「え? あ、ああ、別にいいですよ。答えられることなら」
「そう? ありがとう。じゃあまず一つ目だけど君は結婚しているのかな?」
「ど、独身ですけど……」
「じゃあ、恋人は? 今、もしくはこれまでにいたことはある?」
「……あります、今はいませんけど。ていうか……なにが聞きたいんですか?」
柔らかな声音での問いかけ。けれどレオの目はそれとは裏腹に柔らかさなどない。少し怖いくらいに真剣で、お遊びのような問いかけにどんな意味があるのか探りたくなる。もっともそれがどんな理由かなど、皐月には思い当たりもしなかったが。
「────君に男性経験があるか否か」
「は?」
「……その反応はないということか?」
平坦な声で、首を傾げて問うのはジョルジェットで、そんな流麗な顔をして、下世話なことを聞かないでくださいと叫びたくなった。皐月は顔に熱が昇るのを感じながらも必死で言葉を継いだ。
「な、なんで、そ、そんなことを言わなくちゃ……」
「経験がないのならきっと辛い。せめて初めは君の好きになった誰かにしてあげたいから……一応僕はそういうことを進言できる立場にはいるからね、だから聞きたかったんだ」
「う、え、あ……」
しょんぼりという形容が似合いそうなほど肩を落とす美形。そんな姿に心が痛まないほど、皐月に美形の免疫はない。これまでの経験上でもそうであるし、彼らにも慣れはしたがそれは存在自体だけで顔にではない。むしろ顔はなるべくよく見ない方向で会話をしていた。
もちろん相手の目を見て会話するのは皐月にとっても常識なのだが、『美人には三日で飽きる』が表す通り、まだ三日どころか一日も経っていない今、皐月は彼らの顔には慣れていない。慣れなど夢のまた夢の気がするくらい、皐月には彼らの顔は凶器だった。
そんな美形が言った内容。言っていることは正しいように思えるけれどどう聞いてもおかしい。
何故誰かと体験することが前提になっているのか。確かに夕べはそんな可能性もあるとは言っていたけれど、今それをどうして問うのか。拒否権はないのかと、思わず見渡した彼らの顔は真剣なもの。そんな顔をして知りたいと思われても、素直に言える内容ではないだろう。と思う程度に皐月は純情である。
どうやって答えればいいの! 言葉にできないそれを飲み込み俯けば、頭に視線が集まっているように感じる。だけれど彼らに経験の有無を答えるのは、気恥ずかしいを通り越して死ねるほどの羞恥だと思ってしまう皐月は、顔を上げることもできないまま唇を噛んだ。
助けなど期待できない。それを理解してまごつくのは仕方ないことだろう。
「サツキ、言えないのなら頷くだけでもいいよ。経験はないのだろう?」
「ないだろ、こいつなら。こんなちまい子供なんだ。なくって当たり前だろうが」
「アルバロは静かにしていてください。それに夕べも言ったでしょう? 彼女は成人していますよ。大人のとは言えないかも知れませんが成人女性なのですから、経験があることはおかしなことではないでしょう?」
「サツキ、答えは? アルバロの言う通りにないのかい?」
譲歩どころか強制にしか思えないレオの問いかけに、皐月はゆっくりと首を振った。左右交互にきっちり一往復。間隣から驚きの声がした。
「お前……子供じゃねえの?」
「アルバロ、だから静かにと言っているでしょう」
窘められているアルバロを余所に、皐月はレオへと問いかける。
「えと……ここで成人て幾つから、ですか?」
夕べ王都の名やレオやフォルナート、アルバロたちの名前や所属を聞きはした。けれど当たり前に知っているだろうことはなに一つ聞いていない。
一刻がどれだけの長さであるかは知ったけれど、一日がどれだけの長さであるかは知らないし、太陽が東から登るのかも知らない。月が一つではなく幾つもあるという違いがあるように、全てのことが違うのだろう。それなのにどうして言葉が通じているのだろうか。そんなことを浮かべながら、レオの言葉を待った。