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第5話「居場所の値段」

この場所を、誰が必要としているのか。


その問いを突きつけられたのは、朝の開店準備をしているときだった。リュックくんが息を切らせて飛び込んできた。


「クレールさん、ヴォルフ商会が自警団に苦情出したらしいっす」


「苦情」


「追放者が東通りに集まってきてる、治安が悪くなる、なんとかしろって」


リュックくんは雑巾を手に持ったまま、落ち着かない様子で窓の外を見た。


相談所の評判が広がるにつれて、東通りを訪れる人が増えていた。相談に来る追放者や流民だけではなく、彼らを頼ってグランメールに来る人も出始めている。一ヶ月前は週に二、三人だった相談者が、今は毎日一人は来る。


町にとって良いことばかりではない。それは理解していた。


昼前、ナディアさんが相談所に来た。


腰の短剣に手を添え、入口の柱に肩を預ける。いつもの姿勢だが、表情がいつもより硬い。


「ヴォルフが自警団長に直接言いに行ったよ。追放者の流入は治安の悪化を招く、あの相談所を何とかしろってさ」


「ナディアさんは、どうされましたか」


「今のところ問題は起きてないって突っぱねた。実際、あんたの相談所に来てる連中が揉め事を起こした記録はない」


ナディアさんは腕を組んだ。


「ただ、空気は悪くなってる。ヴォルフだけじゃなく、広場の商人が何人か同調してるって話だ」


私は椅子に座り、手を膝の上に置いた。


ヴォルフ商会。到着初日に銀貨三枚を突きつけた男だ。追放者が増えることで商売に影響が出ると思っているのか、あるいは単に自分を素通りした客が東通りに流れていることが気に入らないのか。


どちらにせよ、対立は避けたかった。この場所を続けるために。


「ナディアさん、ひとつ提案があります」


「聞こうか」


「相談所の運営を透明にしたいんです。相談の記録を作り、月に一度、自警団に報告します。個人の名前は伏せますが、相談の件数と内容の分類だけでも」


ナディアさんの眉が動いた。


「私たちが何をしているか、隠すことはありません。見てもらった方が、余計な憶測が減ると思います」


ナディアさんはしばらく黙った。カウンターの上に視線を落としている。棚に並んだ薬草の瓶、壁にかけた看板、シルヴァンさんが修理した二脚の椅子。それらを順に見て、こちらに目を戻した。


「自警団長に上申する。筋は通ってるから、断る理由はないだろ」


「ありがとうございます」


「ただし、あんたの側で記録をきちんと残すこと。言いがかりをつけられたとき、数字で返せるようにしておくんだよ」


「はい」


ナディアさんは背を離し、扉に向かった。振り返らずに手を上げた。


「がんばんな」


午後。


リュックくんが広場まで買い出しに行っている間に、来客があった。


行商人の男だった。王国の南部から荷を運んできたが、品物の一部が道中で破損し、損失の補填を巡って取引先と揉めているという。話を聞き、状況を整理した。法的な助言はできないが、「何が起きたか」を一緒に言葉にする作業だけでも、相手の表情は和らいだ。


行商人が帰った後、リュックくんが戻ってきた。


顔色が悪い。頬が紅潮し、息が荒い。


「どうしました」


「広場で、ヴォルフ商会の使用人に絡まれたっす」


リュックくんは拳を握ったまま、椅子に腰を落とした。


「追放者の世話してるガキだろって。あの相談所が余計なことしてるせいで町が迷惑してるって言われて」


「手を出しましたか」


「出してないっす」


リュックくんは拳を見下ろした。指の関節が白くなっている。


「出しそうになった。殴りたかった。でも」


声が詰まった。


「シルヴァンさんが」


「シルヴァンさんが?」


「通りかかって、僕の肩を掴んで止めたんす。それで——」


リュックくんは深く息を吐いた。


「『ここで殴ったら、あの人の積み上げたものが崩れる』って」


私は黙った。


シルヴァンさんが、リュックくんにそう言ったのか。


「それ聞いたら、手が下がったっす。悔しかったけど。シルヴァンさんが正しいって、わかったから」


リュックくんの目が赤かった。怒りを飲み込んだ目だ。


「ありがとう、リュックくん。拳を下ろしたこと、間違いではないです」


「……はい」


リュックくんは俯いて、茶を一口飲んだ。手がまだ震えていた。


三日後。


ナディアさんから連絡があった。自警団長が、月次報告制度を正式に承認したという。


相談所は、グランメール自治都市の「非公式だが認知された」施設になった。


「ヴォルフは渋い顔してたけどね。苦情の根拠がなくなったから、表立っては何も言えないよ」


ナディアさんは腕を組んで笑った。


「あんた、やるじゃないか」


「ナディアさんが上申してくださったからです」


「あたしは紙を回しただけだよ。中身を作ったのはあんただろ」


私は頭を下げた。


この場所を守れた。少なくとも、今のところは。


報告書の第一号を書かなければならない。相談件数、内容の分類、対応の概要。個人名を伏せた形で、事実だけを並べる書類。前世の企業内カウンセラー時代に、毎月やっていたことと同じだ。


その夜、閉店後にカウンターで報告書の下書きを始めた。


ランプの灯りの下で、紙に向かう。件数を数え、分類を書き出し、備考欄に気づいた点を記す。


集中していた。


「まだやっているのか」


声がして、顔を上げた。


シルヴァンさんが、入口に立っていた。閉店後の修理作業に来たのだ。棚の上段にぐらつきがあると、昨日話していた。


「報告書を作っているんです。月に一度、自警団に提出する分の」


「そうか」


シルヴァンさんは工具の入った革袋を棚の横に置き、作業に取りかかった。棚板を一枚ずつ外し、木組みの接合部を確認していく。


私は報告書に戻った。


木槌の音が響く。筆を走らせる音と交互に。第4話の夕方と同じ、静かな時間だ。


けれど、報告書の作業は想像より手間がかかった。件数の数え直し、分類の見直し、文面の推敲。気がつくと、教会の鐘が九時を告げていた。


「クレール」


シルヴァンさんの声だった。いつもの「さん」がなかった。呼び捨てにされたのは初めてだ。


顔を上げると、シルヴァンさんが棚の修理を終えてこちらを見ていた。工具を片づけた後らしく、手は空いている。


「お前は自分のことを後回しにしすぎだ」


低い声だった。静かだが、はっきりとした苦言だった。


「昼もろくに食べていなかっただろう。リュックがパンを買ってきたのに、手をつけていなかった」


見ていたのか。


「報告書は大事だ。だが、書いている人間が倒れたら意味がない」


私は口を開きかけた。「大丈夫です」と言おうとした。


言葉が出なかった。


大丈夫ではないかもしれない。朝から夕方まで相談を受け、閉店後に報告書を書き、薬草茶の配合を調整し、倉庫に帰って眠る。食事を抜いた日が今週に入って三回目だ。


前世と同じだ。気づかないうちに、同じパターンに嵌まっている。


「……すみません」


「謝るな。食え」


シルヴァンさんはカウンターの隅に、包みを置いた。中身は黒パンと干し肉だった。いつ買ったのかわからない。


「食べてから、続きをやれ。それか、明日にしろ」


私は包みを受け取った。黒パンを一口かじった。硬かったが、噛むと穀物の甘みが広がった。


シルヴァンさんは向かいの椅子に座り、窓の外を見ていた。何も言わない。ただ、私がパンを食べ終わるまで、そこにいた。


食べ終えたとき、体が少しだけ軽くなった。


「ありがとうございます」


シルヴァンさんは小さく頷いた。立ち上がり、外套を羽織った。


「明日も来る」


「はい。お待ちしています」


扉が閉まった。


一人になって、報告書を畳んだ。続きは明日にする。


ランプの芯を短くした。灯りが薄くなり、店の影が長く伸びた。


この場所を守れた。


ナディアさんが動いてくれた。リュックくんが拳を下ろしてくれた。シルヴァンさんが、リュックくんを止めてくれた。


そして今、シルヴァンさんが私にパンを食べろと言った。


一人で積み上げたと思っていた。でも、一人ではなかった。


ランプを消した。


倉庫に帰る道すがら、ナディアさんの言葉を思い出した。「中身を作ったのはあんただろ」。


そうかもしれない。でも、中身を支えてくれている人たちがいる。


東通りの暗い路地を歩きながら、窓の向こうを見た。マルトさんの薬草店は、もう灯りが消えている。


明日、ナディアさんのところに報告書の下書きを持っていこう。


その足で、マルトさんに茶葉の追加を頼もう。


それから、ちゃんと昼食を食べよう。

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