第4話「薬草と沈黙」
マルトさんの薬草店で、棚の瓶を順に確認していた。
朝の光が店の奥まで届いている。乾燥したラベンダー、カモミール、薄荷、レモンバーム。前世の知識と照らし合わせて、効能が一致するものを選んでいく。
「安眠用には、この白い花を多めに。緊張をほぐすなら、薄荷と合わせて」
私は手元の紙に配合の覚え書きを記しながら呟いた。相談に来る人たちに出す茶を、もう少し目的に合わせて調合したかった。前世のアロマテラピーの応用だ。薬ではない。温かい飲み物が体を緩め、香りが気持ちを落ち着かせる。それだけのことだ。
「配合の知識がどこにでもあるものじゃないよ」
マルトさんがカウンターの向こうから言った。腕を組み、私の手元を眺めている。
「白花と薄荷をその割合で混ぜる発想は、この辺りの薬草師にはないね。どこで覚えたんだい」
「独学です。本で読んだことを、試しながら」
マルトさんは数秒、私の顔を見た。それから、小さく頷いた。
「まあ、お茶でも飲みなさいな」
それ以上は聞かなかった。いつも通りだった。
薬草の代金は銅貨で払った。リュックくんが相談所の掃除を手伝う代わりに、ナディアさんが自警団の雑務を少し回してくれている。その報酬が、今の相談所の運営費になっていた。
夕方、シルヴァンさんが来た。
五日目だった。いつもの椅子に座り、銅貨を一枚置く。もうこの動作に迷いはない。
今日は新しい配合の茶を出した。カモミールを基本に、薄荷を少量と、レモンバームの葉を一枚。緊張緩和を意識した組み合わせだ。
シルヴァンさんは器を受け取り、一口含んだ。
動きが止まった。
器を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。湯気が指の間から立ち上っている。
「……久しぶりに、肩の力が抜けた」
低い声だった。独り言のように聞こえた。けれど、こちらに向けて言っている。
私はカウンターの椅子に座ったまま、黙って頷いた。
シルヴァンさんは茶を飲み続けた。いつもより、ゆっくりと。器を膝の上に降ろし、天井を仰いだ。
「昔」
声が出た。
「大事な人を、守れなかった」
私は動かなかった。呼吸を整えた。前世の癖だ。相手が語り始めたとき、聴く側の体が硬くなると、相手は口を閉じてしまう。
「どれだけ力があっても、間に合わないことがある。自分の手が届かない場所で、大事な人が消えていく」
シルヴァンさんの視線は天井に向いたままだった。声に感情の波がない。何度も反芻した言葉を、ただ口に出しているだけの調子だった。
「それから、俺には国がない」
国、という言葉が引っかかった。故郷、ではなく、国。
「どこにも属さない。誰のためにも動けない。それが、今の俺だ」
シルヴァンさんは器を口に運んだ。茶を一口飲み、長く息を吐いた。
私は何も言わなかった。
聞きたいことはあった。「国がない」とはどういう意味か。守れなかった「大事な人」とは誰か。この人の過去に何があったのか。
けれど、聞かなかった。
前世の訓練が止めている、と思った。最初は聴くだけ。助言も質問も挟まない。
ただ、それだけが理由ではないことにも気づいていた。
この人の話を聴いているとき、私の中に職業的な距離感だけでは説明できない何かがある。もっと近くで聴きたい、という感覚。もっと知りたい、という衝動。
それは、カウンセラーが持つべきものではない。
私が踏み込んでいい領域なのか。前世なら、こういう場合は専門家に紹介する。だが、この世界にその専門家はいない。紹介先がない。私しかいない。
そして、私しかいないという事実が、判断を曇らせる。
蓋をした。今は、聴くことに集中する。
シルヴァンさんは茶を飲み干した後、器をカウンターに戻した。
いつもならそのまま立ち上がる。今日は違った。
「ここに来るのは」
シルヴァンさんが言った。椅子に座ったまま、こちらを見ている。初めて、正面から目が合った。
暗い色の目だった。黒に近い茶。感情を押し込めた目だが、底の方にかすかな光がある。
「俺のためだけじゃない」
「はい」
「この場所が続いてほしいと思っている。だから、何か手伝わせてほしい」
私は少し驚いた。
相談所を訪れる人は、話を聞いてもらいに来る。聞き終わったら帰る。それが通常の流れだ。手伝いを申し出たのは、リュックくんに続いて二人目だった。
「お気持ちはありがたいです。でも、お給料は出せません」
「いらない」
即答だった。
「では、何かお願いできることがあるとすれば」
私は店の中を見回した。リュックくんが直してくれた窓枠。マルトさんが持ってきた棚の薬草。カウンターの椅子は二脚とも脚がぐらついている。先週から気になっていたが、工具がない。
「椅子の修理をお願いできますか。脚がぐらついているので」
シルヴァンさんは椅子を見下ろした。自分が座っているその椅子の脚を、手で軽く揺らした。
「ああ。接合部が緩んでいる。釘と木槌があれば直せる」
言い方が具体的だった。道具の名前がすぐに出てくる。手仕事に慣れた人の反応だ。
「明日、工具を持ってくる」
「ありがとうございます」
シルヴァンさんは立ち上がった。銅貨を置き、扉に向かった。
「シルヴァンさん」
振り返った。
「閉店後に作業していただいても構いません。リュックくんは昼過ぎに帰りますので、夕方以降なら場所は空いています」
シルヴァンさんは少し考える素振りを見せた。それから、頷いた。
「わかった」
扉が閉まった。
相談所に、三人目の「居場所を見つけた人」が加わった。
翌日の夕方。
シルヴァンさんは本当に工具を持って現れた。
革の袋に入った釘と木槌と、小さな鉋。どこで調達したのか聞こうとして、やめた。聞かないことが、この人との距離感だった。
シルヴァンさんは椅子を裏返し、脚の接合部を確認した。手つきに迷いがない。釘を一本ずつ打ち直し、緩んだ木組みを鉋で削って合わせていく。
私はカウンターで翌日の薬草茶を準備しながら、その音を聞いていた。木槌が釘を打つ小さな音。規則正しく、落ち着いた音だった。
「一脚目、終わった」
シルヴァンさんが椅子を元に戻した。座面を手で押して、揺れがないことを確認している。
「ありがとうございます。座り心地を試してもいいですか」
座った。ぐらつきがなくなっている。背もたれに体を預けても安定していた。
「とても良いです」
シルヴァンさんはもう一脚に取りかかった。
作業の間、会話はほとんどなかった。木槌の音と、私が薬草を刻む音だけが交互に響いた。
不思議な時間だった。二人とも黙っている。けれど、沈黙が重くない。お互いの作業の気配だけが、空間を満たしている。
二脚目が終わったとき、窓の外はもう暗くなっていた。
シルヴァンさんが工具を革袋にしまった。私は茶を淹れ、差し出した。
「作業の後に。どうぞ」
シルヴァンさんは受け取った。修理したばかりの椅子に座り、茶を飲んだ。
「この場所は、いい」
ぽつりと言った。
「静かで。誰も急かさない」
その言葉が、胸に沁みた。
この人に頼ってもいいのだろうか。
相談所を開いてから、私はずっと「聞く側」だった。リュックくんの話を聞き、相談者の話を聞き、シルヴァンさんの沈黙を受け止めた。誰かに頼るということを、私はまだしていない。
シルヴァンさんが椅子を直してくれた。それだけのことだ。けれど、誰かが私のために手を動かしてくれたという事実が、思った以上に重い。
答えは出なかった。
窓の外を見た。東通りの向こうに、薄い月が出ていた。二月の終わり。空気はまだ冷たいが、日が少しずつ長くなっている。
シルヴァンさんは茶を飲み終え、立ち上がった。
「明日も来ていいか」
「はい。お茶を用意しておきます」
シルヴァンさんは頷いて、扉を開けた。
冷たい夜風が一瞬だけ店に入り込み、すぐに扉が閉まった。
一人になった店で、修理された椅子に座り直した。
ぐらつかない。しっかりしている。
この人に頼ってもいいのだろうか。
同じ問いが、まだ胸の中にある。




