第3話「名前のない男」
あの人は、誰かを守ることに慣れている。
相談所を開いて二週間が経った。リュックくんが毎朝来て、窓を拭き、椅子を並べ、湯を沸かしてくれる。訪れる人は少しずつ増えていた。週に二人、三人。商売のもつれを抱えた行商人、故郷に帰れない元兵士、子供を連れた未亡人。話を聞き、茶を出す。それだけのことを繰り返している。
口コミが広がっている、とナディアさんが言っていた。「聞くだけの女がいる」と。褒め言葉なのか皮肉なのかは、わからなかった。
ある夕方のことだった。
閉店間際に、扉が開いた。
背の高い男だった。黒い髪。外套の襟を立てている。二週間前、東通りを通り過ぎたあの男だ。あのときは看板を一瞥しただけで去っていった。
「いらっしゃいませ」
私はカウンターの向こうから声をかけた。リュックくんはもう帰っている。店には私一人だった。
男は入口に立ったまま、店の中を見回した。棚の薬草。二脚の椅子。カウンターに置かれた茶器。それから、私の顔。
「名前を聞いてもいいですか」
私の問いに、男は少し間を置いた。
「シルヴァン」
それだけだった。姓もなければ、出身地もない。
「クレールです。どうぞお座りください」
男は入口に近い方の椅子に座った。背筋が伸びている。椅子に深く腰かけず、やや前傾の姿勢。けれど、リュックくんが初日に見せた警戒とは違う。力みがない。この座り方は、いつでも動けるように体を保つ訓練を積んだ人間のものだった。
「相談ではないんだが」
シルヴァンさんが言った。声は低く、抑えた調子だった。
「ただ、座っていていいか」
「お茶代だけいただきます。銅貨一枚で」
「ああ」
シルヴァンさんは外套の内側から銅貨を取り出し、カウンターに置いた。指先の動作が丁寧だった。銅貨を置く音が小さい。力の加減を知っている手だ。
私は茶を淹れた。カモミールと、マルトさんから仕入れた薄荷の葉を少し。シルヴァンさんの前に器を置いた。
「ありがとう」
シルヴァンさんはそれきり黙った。
茶を飲み、窓の外を見て、時折器を傾ける。それだけだった。私はカウンターで翌日の薬草茶の配合を準備しながら、同じ沈黙の中にいた。
日が落ちた頃、シルヴァンさんは立ち上がった。
「また来てもいいか」
「もちろんです。お待ちしています」
シルヴァンさんは小さく頭を下げて出ていった。礼の角度が深い。平民の挨拶にしては丁重すぎる。
翌日も来た。
同じ時間に。同じ椅子に座り、同じように茶を飲み、何も話さずに帰った。
三日目も同じだった。
リュックくんは昼過ぎに帰るため、シルヴァンさんとは入れ違いになる。だが、リュックくんは彼の存在を知っていた。
「あの黒髪の人、また来てたんすか」
翌朝、窓を拭きながらリュックくんが聞いた。
「ええ。三日続けて」
「何しに来てるんすか」
「お茶を飲みに」
リュックくんは腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
四日目。
シルヴァンさんはいつもと同じ時間に来た。いつもと同じ椅子に座った。茶を受け取り、一口飲んだ。
そこまでは同じだった。
「ここには」
シルヴァンさんが言った。器を両手で包んだまま、視線は窓の外に向けている。
「追放された人が来るのか」
初めての問いかけだった。
「そういう方もいます。行き場のない方、困っている方。いろいろです」
「そうか」
シルヴァンさんは黙った。それから、器の中の茶を見下ろした。
「俺も、似たようなものかもしれない」
声が低くなった。独り言のような調子だった。
私は何も聞き返さなかった。待った。
シルヴァンさんはそれ以上話さなかった。茶を飲み干し、銅貨を置いて、立ち上がった。
「明日も来る」
「お待ちしています」
扉が閉まった。
一人になった店の中で、私は器を片づけた。
気づいていることがある。シルヴァンさんの茶器の扱い方。器の持ち方、口のつけ方が端正すぎる。平民の食卓で身につく所作ではない。かといって、貴族の作法とも少し違う。
問い詰めたいとは思わない。それは相手が話すまで待つべきことだ。
けれど、私の中に別の感覚がある。この人のことが気になっている。「相談者」としてではなく。
その感覚に、蓋をした。
閉店後、帰り支度をしていた。
外套を羽織り、鍵を手に持って扉を開けた。東通りは暗い。街灯は広場の周辺にしかなく、この路地には月明かりだけが頼りだ。
三歩ほど歩いたところで、声がかかった。
「よう、姉ちゃん」
路地の壁にもたれて、男が立っていた。商人風の身なりだが、足元がふらついている。酒の匂いが風に乗って届いた。
「追放者の世話してるんだって? いい商売だな。あいつらから何巻き上げてんだ」
私は立ち止まった。
心臓が速くなっている。暗い路地。酔った男。一人。逃げ道は、来た方向に戻るか、通りの先に抜けるか。
「すみません、通していただけますか」
声が平坦に出た。前世の訓練だ。危険な場面では声を低く、平らに。感情を見せない。
男が壁から体を離し、一歩近づいた。
「なあ、聞いてるか——」
男の言葉が途切れた。
私の背後に、気配があった。
振り返ると、シルヴァンさんが立っていた。いつの間に。足音は聞こえなかった。
シルヴァンさんは何も言わなかった。酔った男を見た。ただ、見ただけだった。
男の顔色が変わった。
シルヴァンさんの目に何があったのか、私の位置からは見えなかった。けれど、男は半歩下がり、それから背を向けて通りの奥へ去っていった。足取りが急だった。酔いが醒めたわけではないだろう。それ以上の何かが、あの目にあったのだ。
「大丈夫か」
シルヴァンさんが言った。こちらを見ていない。男が去った方向を見ている。
「はい。ありがとうございます。でも、なぜここに」
「通りがかっただけだ」
嘘だった。
この時間に東通りを通る理由がない。シルヴァンさんの宿がどこかは知らないが、閉店後にこの路地にいるのは偶然ではない。
けれど、指摘しなかった。
「助かりました」
シルヴァンさんは小さく頷いた。それから、背を向けて歩き出した。
「シルヴァンさん」
足が止まった。振り返らない。
「明日もお待ちしています」
少しの間があった。
「ああ」
シルヴァンさんは歩き去った。外套の裾が夜風に揺れていた。
倉庫に戻り、毛布に包まった。
天井の隙間から、星が見える。あの夜と同じ星だ。グランメールに来た最初の夜と。
シルヴァンさんのことを考えていた。
あの人は、暴力を使わなかった。声も上げなかった。ただ立って、見ただけだ。それだけで酔った男を退けた。
あれは、力を知っている人間の振る舞いだった。
そして、「通りがかっただけ」と嘘をつく人だった。守ることに慣れていて、守ったことを認めない人。
あの人は、誰かを守ることに慣れている。
でも、守られたことはあるのだろうか。
その問いが胸に残ったまま、眠りに落ちた。
翌朝。
リュックくんが掃除をしている横で、私は茶の支度をしていた。
「クレールさん」
リュックくんが雑巾を止めて、声をひそめた。
「あの人——シルヴァンさんって言うんすか。昨日、閉店前にちらっと見たんすけど」
「ええ」
「あの人の歩き方、僕知ってるっす。剣の訓練をやった人間の歩き方です。重心が低くて、足音がしない」
リュックくんは元騎士見習いだ。基礎訓練を受けている。
「あの人、ただ者じゃないっすよ」
私は答えなかった。
窓の外を見た。東通りはまだ静かだ。朝の光が、石畳の上に長い影を作っている。
シルヴァンさんが何者であっても、彼が話すまで待つ。それが私のやり方だ。
けれど、「相談者」として待つのか、それとも別の理由で待つのか。
その区別が、少しずつ曖昧になっている。




