自分は親を尊敬し、応援していたよね?
その心の葛藤、痛いほど伝わってきます。親への純粋な愛ゆえに自分を削ってしまう、幼い日の優しさは呪いのように響くことがありますよね。
いただいたメッセージの核心である「親を喜ばせるための、自分を殺す嘘」と「愛する人の成功を願う無垢な残酷さ」をテーマに、物語を綴りました。
掌編小説:優しい嘘の標本
台所の換気扇が、低い唸り声を上げている。
中学二年生の湊は、食卓で解答欄の埋まったテスト用紙を眺めていた。数学、九十二点。クラスで二番目の成績だ。普通なら胸を張って見せられる数字だが、湊の指先はわずかに震えている。
「湊、テスト返ってきたんでしょ?」
背後から、母の明るい声がした。パートから帰ったばかりの母は、まだエプロンも外さずに冷蔵庫を開けている。最近、父の会社がうまくいっていないことを湊は知っていた。夜中に居間で、二人が低い声で数字の話をしているのを、襖越しに聞いていたからだ。
「……うん。まあまあかな」
「見せて。あんたの頑張りが、お母さんの今の唯一の楽しみなんだから」
母が湊の隣に座る。期待に満ちた、縋るような眼差し。湊はその視線を受け止めることができず、テストを差し出した。
母の顔がぱっと華やぐ。
「すごいじゃない! 九十二点! 湊ならできると思ってた。塾、行かせてあげられてないのに……本当に自慢の息子ね。嬉しいわ」
母は湊の肩を抱き寄せた。その腕は細く、少しだけ湿布の匂いがした。
湊の胸の奥で、何かが小さく悲鳴を上げる。
本当は、この九十二点を取るために、湊は三日間ほとんど寝ていなかった。休み時間も、友達からの遊びの誘いを断って図書室に籠もった。本当は、もう限界だった。数学なんて大嫌いだ。数字を見るだけで吐き気がする。もっと外で走り回りたかったし、流行りのゲームの話をしたかった。
「お母さん、湊が頑張ってるのを見ると、明日も頑張らなきゃって思えるのよ。お父さんもきっと喜ぶわ。湊は、勉強、楽しい?」
心臓がドクンと跳ねる。
「楽しくない。苦しい。もうやめたい」
喉元まで出かかった言葉を、湊は全力で飲み込んだ。ここでそんなことを言えば、母のこの笑顔は一瞬で消える。父を支え、家計をやりくりして疲れ切っている母から、最後の光を奪うことになる。
「……うん。楽しいよ。もっといい点取れるように頑張るね」
湊は、自分でも驚くほど滑らかな声でそう言った。
親が喜ぶ返答。親が安心する言葉。
それは湊にとって、親を「応援」する方法だった。十代の子供にとって、親は世界のすべてだ。その世界が壊れないように、湊は自分の本心を犠牲にして、綺麗な言葉を選んで差し出す。
それが自分をじわじわと窒息させる毒になるとも知らずに。
もし、親がもっと賢ければ。あるいは、言葉というものの重みを正しく理解していれば。
「子供が自分のために無理をしていないか」と見抜けたのかもしれない。けれど、疲れ果てた大人にとって、子供の「大丈夫、楽しいよ」という言葉は、あまりに都合の良い救いだった。
数週間後、湊の幼馴染である大樹が、サッカーの選抜メンバーに選ばれたというニュースが飛び込んできた。
大樹の家は裕福で、両親もいつも余裕がある。大樹は湊に「お前も勉強ばっかしてないで、たまには運動しろよな!」と無邪気に笑った。
その瞬間、湊の心に黒い泥のような感情が湧き上がった。
応援している。親友だと思っている。大樹が努力していたことも知っている。
けれど、苦しくてたまらない自分を差し置いて、あんなに軽やかに成功を手にする彼が、許せなかった。
「おめでとう」
そう言いながら、湊の指は爪が食い込むほど握りしめられていた。
大好きなはずの親を喜ばせるために自分を殺し、友人の成功を呪う自分。
人間とは、なんと浅ましく、矛盾に満ちた生き物なのだろうか。
夜、湊は机に向かい、白紙のノートを広げた。
そこには、誰にも見せない本当の言葉を書こうと思った。
「お母さん、僕は苦しいよ」
「大樹、お前が羨ましくて憎いよ」
けれど、ペン先は動かなかった。
一度でもその言葉を形にしてしまえば、自分が積み上げてきた「優しい僕」という仮面が割れてしまう。そして、それ以上に恐ろしいのは、その仮面が割れた時、親を支える柱が一本折れてしまうことだった。
湊はペンを置き、そっと目を閉じた。
換気扇の音だけが、変わらず部屋に響いている。
彼はまだ知らない。自分が選んだ「親を楽にする言葉」が、いつか自分自身の心を壊すほど重くなる日が来ることを。そして、その重さに耐え抜こうとすることが、彼なりの、あまりに不器用で残酷な「愛」であることを。
窓の外では、夜の闇が深く静かに広がっていた。
明日もまた、彼は親が望む「最高に幸せな返答」を携えて、学校へ行くのだ。




