28 第七章 『春の森』 その1
『春の森』は『リデンの森』の東、ウルドの山岳地帯を遥かに望むところに位置する、美しい常春の森だった。
ペリがこの森にやって来たのは一年程前のことで、どうやってここに来たのか、来る前はどこにいたのか何も覚えてはいない。
時々彼女の元を訪れるシャールと名乗る男が、自分の事を〝ペリ〟と呼ぶので、自分の名前はペリだということを知っている。
その間、サアラという不思議な女性に預けられて過ごしていた。不思議・・と言うのは、彼女は時々、突然、昏倒しては眠ってしまうのだ。
そのためか、サアラが家の周りから離れることはなく、必要な物はいつの間にか家の前に置かれていている。
そして、その眠りから目醒めた時は、まるでどこか別の場所から突然、連れ戻されたかのように・・暫くの間、ぼんやりとしている。
そんなある夜の事だった。夜半過ぎにふと目が覚めたペリは、家の中にサアラの姿がないことに気づいた。満月の頃で、窓の覆いの隙間からも明るい月の光が漏れている。
起き上がり、覆いを外して月光の庭を眺めた。外は月明りで昼間のように明るい。
そのせいか、すっかり目が醒めてしまったペリは、誘われるように外に出た。
その時、月明かりの差し込む木立の間を、森の奥へと歩いて行くサアラの姿に気づいた。
(・・どこに行くのかしら・・)
好奇心に駆られたペリは、ちょっと距離をおいて・・そっと後をついて行った。
その森の奥には、きれいな泉の湧くせせらぎがある。その泉の手前・・木立のところで、ペリの足は止まった。
衣を脱ぎ、その水に身を浸すサアラの姿にペリは吃驚した。
いくら常春の森とは言え、こんな夜間に水を浴びるなんて・・。しかし木々の間から差し込む月の光に照らされ、長い髪を下ろしたその姿は・・うっとりするほど美しかった。
サアラは確かに美しい女性だったが・・彼女はいつもその髪を隠すように被り物で覆い、質素な衣を纏って一日中、立ち働いている。おまけにその顔はいつも半分煤を被って汚れている。
いつもきれいに掃除をしているのに、何故そんなに煤で汚れているのかとペリは不思議に思っていた。
ところが或る朝、早起きしたぺリに気づかず、サアラがまるで化粧でもするようにカマドの灰をそのきれいな肌に塗っているところを目にした。
吃驚して尋ねると、サアラはちょっと言い淀み・・数年前に他界した養父母の喪に服しているのだと言った。そんな風習があることを、ぺリは知らなかった。
が、それ以上聞く事を押し留めるようなものが、その表情にはあった。
そのサアラが今、そういった一切の偽装を脱ぎ捨て・・水を浴びている。
水で洗われた長い髪は、まるで艶やかな光沢を帯びる絹糸のようだ・・。その煤の洗い流された顔色は驚くほど明るく、いつもは煤けた唇がそれほど赤かったのかと思えるほど、青白い月光の下でさえその艶やかな色を隠すことは出来ない。
そんな驚くような変身を遂げたサアラの姿から、ペリはしばし目を放すことが出来なかった。
この森は精霊の住む処だと、シャールが言っていたことを思い出した。
その美しい精霊の夜の水浴びを、そういつまでも覗き見していてはいけないと思ったペリの目に、ふと何かが飛び込んだ。
(・・何かしら・・)
ジッと目を凝らしていたペリは、思わず叫び声を上げそうになった。
何と一糸纏わぬ無防備なサアラのすぐ近くに、一匹の大きな獣、銀色をした狼が姿を現したのだ。
しかし・・悲鳴を上げそうになったぺリに、何かが声を出すことを押し留めていた。
サアラを助けるために声を張り上げなければと思いつつ・・同時に、自分の口を両手でしっかりと抑えていた。
その銀色の獣はサアラのそばに近づくと、そっとその身を擦りよせた。サアラは白い腕を伸ばし、その月光に映える毛並みをそっとやさしく撫でた。
獣は喉を鳴らすように目を細め、美しい森の精霊の愛撫に身を任せ・・その赤い舌先で、精霊の美しい首筋や胸の先をやさしく舐めた。
何やらだんだん落ち着かなくなって来たペリは、身を翻してそこから立ち去ろうとした・・が、ふと、その獣に見覚えがあるような気がした。
(・・銀色の・・狼・・?)
それから獣はスッと水の中に飛び込んだ。月の滴が飛び散るように辺りにキラキラと飛沫の光が跳ねた。
一生懸命思い出そうと口元に指を当てて考え込んでいたペリが、その水音にふと目を上げると、森の泉に遊ぶ美しい精霊の傍らから銀色の獣は姿を消し、その代わりに・・月光に輝く長い銀髪の人物が寄り添ってた・・。
その髪も衣もサアラと同じく水に濡れ・・やがてサアラと同じように、水に濡れた邪魔な衣を脱ぎ捨てた。
翌朝、目覚めたペリの枕元にシャールの姿があった。
「ペリさま・・お加減はいかがですか・・」
ジッとペルの目を見て、シャールが言った。
「・・だいじょうぶよ・・シャール」
ペリもジッと相手の目を見て答えた。
見つめるペリの視線が妙に熱っぽい・・。実際、ペルは熱を帯びていた。風邪をひいたのだ。
日々、新鮮な空気が生まれる『春の森』で、風邪などと云う無粋な病は流行らない。
しかし昨夜、泉から急いで戻る途中、慌てていたせいか何かに躓き、そのまま気を失って・・夜明けにサアラに見つかるまで森の中にいた。
サアラは急いで、まだ泉の淵で眠っているシャールに知らせて家まで運んだ。
そしてペリを寝かせると、記憶を消した・・。




