第0話「ひとり」
『ソフィア・レコード』をお読みいただく前に。
この物語には、たくさんの人が登場します。
それぞれに、それまで生きてきた時間があり、抱えているものがあり、これから選ぶ道があります。
誰かにとっての出来事が、別の誰かにとってはまったく違う意味を持つこともあります。
もし気になる人物がいたら、その人の立場に立って、少しだけ物語を眺めてみてください。
誰かを応援するだけではなく、誰かになってみる。
そんなふうに、物語の中へ入り込んで楽しんでもらえたら嬉しいです。
夕暮れが近づいていた。
山の斜面に沿って伸びる細い道を、少年は一人で歩いている。どこへ向かっているのかは分からない。道の先に何があるのかも知らないまま、坂を上り、下り、木々の間を進み続けていた。
枝の隙間から差し込む日はもう低く、山の向こうへ傾き始めている。長く伸びた木々の影が道を横切るたび、足元は少しずつ暗くなっていた。
靴の中では、擦れた足の指が痛んでいた。
足が止まるたびに少し休み、また歩いた。何度繰り返したのか、もう覚えていない。
しばらくして、静かな山道の向こうから人の声が聞こえてきた。
足が止まる。
「――この先を下れば、夜には着くだろ」
男の声だった。
「朝も似たようなこと言ってなかったか?」
もう一人の声がして、二人で笑った。姿はまだ木々に隠れて見えないが、二つの足音は少しずつ近づいてきていた。
少年は道を外れた。
斜面の草を踏み、木々の間へ入っていく。枝が裂けた袖を引っかいたが、そのまま奥へ進んだ。
「町に着いたら先に飯な」
「先に宿取れって。暗くなってから探す羽目になるぞ」
「飯食ってからでもいいだろ」
二人の声と足音が、木々の向こうを通り過ぎていく。
少年は木の陰から動かなかった。
やがて声が遠ざかり、足音も聞こえなくなる。
残ったのは、風に揺れる葉の音と、どこかで鳴く鳥の声だけだった。
それから道へ戻り、二人が消えていった方を一度見たあと、また歩き始めた。
日は頼りなく、さらに傾いていた。
山の向こうから影が広がってくる。夜になるまで、もうそれほど時間は残っていない。
最後に食べたのがいつだったか、もうよく覚えていなかった。
坂を上りきったところで、細い煙が上がっていた。
木々の向こうに、小さな屋根が見える。
少年は立ち止まった。
黒く染まり始める空へ昇った煙は、風に流されながらゆっくり形を崩していく。
しばらく見ていた。
腹が、また痛む。
一歩だけ進んだ。
そこで止まった。
枝を避け、草を踏みながら進んでいく。
木々の隙間に見えていた屋根が消えた。
少しして、煙も見えなくなった。
木々の奥へ進むほど、辺りは急速に暗くなっていった。
道らしいものはもうない。木の根を跨ぎ、足元の草を踏みながら進んでいたが、ほとんど前が見えなかった。
歩くのを止め、大きな木の根元へ力なく身体を寄せると、触れた背中に鈍い痛みが走った。
少年は息を噛み殺し、膝を抱えた。冷えた指先が、服の上から腕に触れた。
腹は空いていた。喉も渇いている。足も痛かった。
膝へ顔を伏せる。
頬に触れたものを、袖で拭った。
少しして、また拭った。
何かが鳴いた。
少年は顔を上げた。
暗い森の中には、もう何も見えない。
膝を抱える腕に、少しだけ力が入った。
そのときだった。
「こんなところで、何してる」
少年の身体が固まった。
顔を上げると、少し離れた木々の間に男が立っていた。すでに辺りは暗く、姿は見えても、その顔まではよく分からない。
膝を抱えていた腕に力が入る。
男は一歩も近づかなかった。
「……悪かった。驚かせたな」
低く、静かな声だった。
少年が何も答えずにいると、男はその場でゆっくり腰を落とした。背負っていた荷物を下ろし、その中から小さな包みを取り出す。
布を開くと、中にはパンが入っていた。
少年の視線がそこへ落ちた。
それを見ても、男は何も言わなかった。少し離れた地面へパンを置くと、また数歩離れた。
「腹、減ってるだろ」
少年はパンを見たまま動かなかった。
「いらなければ、それでいい」
木の幹へ背を預けた男は、先に視線を外した。
森の中には、風が葉を揺らす音が続いている。
少年は男を見る。
男はこちらを見ていない。
少年はもう一度、地面に置かれたパンへ目を向けた。
男は動かない。
夜の森の中で、二人の間に置かれたパンだけが、そのまま残っていた。
やがて、少年の膝から離れた手がパンへ伸びた。
少し迷ってから、一口かじった。
男は何も言わなかった。
口の中のパンを飲み込もうとして、少年の喉が小さく動く。
けれど、うまく飲み込めなかった。
男が荷物へ手を伸ばした。
少年の手が止まる。
取り出したのは水の入った革袋だった。
男は栓を外すと、パンを置いたのと同じ場所へそれを置き、また木の幹へ背を預けた。
少年は革袋へ手を伸ばした。
両手で持ち上げ、口をつける。
一口飲んだ。
もう一口。
乾いていた喉を、水が通っていく。
少年はそのまま、何度か喉を鳴らした。
革袋を置き、もう一度パンを手に取る。
森の中で、風がまた葉を揺らした。
少年は、二口目をかじった。




