君野×きいろ「2人の夏休み」
朝、きいろは目を覚ました。
窓の外では、木々が風に揺れている。
夏休みに入ると、彼は決まってこの山小屋へ来る。
街の喧騒も、人の視線も届かない場所。
絵を描くには、それくらい静かな場所がちょうどよかった。
「あっついね、きいろ君……」
隣に腰を下ろした君野吉郎は、服の裾をぱたぱたとあおぎながら、キャンバスへ視線を向けた。
「無理してここにいなくていい」
筆を止めることなく、きいろが言う。
「でも、僕、きいろ君が熱中症にならないか心配で」
君野はそう言うと、扇風機のつまみを「強」に回した。
「風を止めろ」
きいろが静かに言うと、君野は慌ててスイッチを切った。
「あ、ごめん。風、嫌だった?」
「……」
答えないまま、きいろは筆を走らせる。
君野は眉を下げると、扇風機の向きを自分へ変えた。
「あ~~……」
風に震えた声が、背中越しに聞こえてくる。
――それでいい。
首筋を汗が伝う。
きいろはキャンバスから目を離さないまま、真後ろで君野が涼しそうに風を浴びている気配を感じていた。
「ねえ、きいろ君」
「……」
「きいろ君」
扇風機の風に当たりながら、君野は何度も呼びかける。
それでも、きいろは一向に振り向かない。
せっかくの夏休み。
2人きりで過ごせるというのに、彼は今日も絵に夢中だった。
だけど、キャンバスの中には、いつも君野がいる。
壁に立てかけられた絵も。
マネキンに掛けられた描きかけの作品も。
どれも、全部、自分だった。
それなのに、その絵たちは誰かに見せられることもなく、このアトリエから出ていく気配がない。
ずっと、この場所に閉じ込められたまま。
その姿が、今の自分と重なった。
きいろのすぐそばにいるのに、きいろはキャンバスの中の自分ばかりを見つめている気がした。
そして、何気なくSNSへ投稿する。
最初の頃はほとんど反応がなかった。
だが最近は、少しずつコメントが付くようになっていた。
「え……欲しい?」
数十件並んだコメントの中に、その一文を見つける。
1枚の絵を譲ってほしい――そんな内容だった。
君野の目がぱっと輝く。
「きいろ君!!」
思わず甲高い声が響く。
その珍しい声色に、きいろの筆がぴたりと止まった。
「なんだ」
背中越しに、きいろが答える。
君野は慌てて立ち上がり、スマートフォンを彼の前へ差し出した。
「見て!!この絵、欲しい人がいた!!」
嬉しそうに目を輝かせる君野。
きいろは重たいまぶたをわずかに上げ、画面へ目を落とす。
そして一言だけ返した。
「渡さない」
「え?」
「絵は誰にもやらない」
「……でも、ここで眠ってるの、もったいないよ。こんなに上手なのに」
「いい。余計なことはするな」
「……」
君野は差し出していた手を、ゆっくり下ろした。
誰かに、この絵の素晴らしさを知ってほしい。
ずっと、そう思っていた。
けれど、きいろはいつも「見せるものじゃない」と言う。
その考えが、君野には少しだけ歯がゆかった。
「この人ね。また絵を楽しみにしてるって……」
「そうか」
「……こんなにすごいのに」
君野は、ぽつりと呟いた。
あまりにも素っ気ない言葉が続いたあと、きいろは静かに口を開いた。
「これは」
「え?」
「これは駄目だ」
「……?」
「お前だから」
君野は首を傾げる。
「お前を、誰にも渡したくない」
「きいろ君……」
その一言だけで、君野の沈んでいた表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、これなら?」
君野は壁に立てかけられた1枚を指差す。
それは自分ではなく、目の前の湖畔を描いた風景画だった。
「この絵ね。この人、大好きだって。家に飾りたいって言ってる」
「好きにしろ」
「ほんと?いいの?」
「匿名で」
「え?」
「配送」
「ああ、うん!」
君野は満面の笑みを浮かべた。
それから数日後…
ふと、机に置かれた君野のスマートフォンが震えた。
画面に浮かんだ通知が、ふと目に入る。
「…またよろしくお願いします」
通知にはそれだけが見えた。
心に、嫉妬が炎のように湧き立った。
それだけの一文で、胸の奥がざわつく。
絵の具だらけになってまで絵を描いているくせに、君野へ向けられたたった一言で嫉妬してしまう。
……馬鹿らしい。
自分でも、呆れる。
開くと、SNSのやり取り画面が現れた。
そこには絵を送った先の人物と君野のやりとりが残っていた。
きいろ君は不器用で、絵を描き始めるとあんまり話してくれないんです。
でも、僕は分かるんです。
目の動きとか見てると、「今は話しかけちゃいけないんだな」って。
絵を描いてるおっきな背中が、僕は好きなんです。
だから、自分の絵を大したものじゃないとか、見せるものじゃないとか言わないでほしいんです。
遠くに行っちゃったら寂しいけど……。
それでも、僕はどんなきいろ君でも大好きなんですよね。(*^o^*)
「……匿名だったよな」
送った住所は匿名だった。
なのに、これでは意味がない。
「あー!!」
いつの間に目を覚ましたのか、すぐ近くのソファで眠っていたはずの君野が目の前に立っていた。
「やだ、恥ずかしい!」
スマートフォンを慌てて胸に抱き寄せる。
「……恥ずかしい?」
あれだけ素直な言葉を並べておいて、今さら。
そう思いながらも、きいろは恥ずかしそうに俯く君野の頭へ、そっと手のひらを乗せた。
【完】




