第五十六話 早春の湖畔で。
思い立って家を出てきた私だけど、公園に近い入口に近づくにつれ、天野くんと何を話せばいいかわからなくて、私はわざと遠回りして、少し遠い入口から入ることにした。ペイヴメントを踏みしめながら、この道を歩いて、木立を抜けたとき、初めて天野くんを見つけたんだよな、と思い出す。
冬枯れを残す木立を抜けたとき、天野くんの姿が目に入った。これまたどこで見つけたの?みたいな、年代物のストールのような布で体をぐるぐる巻きにして、変装姿の天野くんは、あの日のままに手作り看板を出して、小さな椅子に腰かけていた。私は何も言わず、その前の席に黙って座り込む。
天野くんは驚いたふうでもなく、
「デッサンですか?彩色ですか?」
と普通の客に言うように、私に言う。
「デッサンでお願いします。」
私が小さな声で言うと、天野くんはコンテを握りしめた。けれど思い直したように、横のリュックサックから、いつものスケッチブックと鉛筆のセットを出してきて、無言で私を描きはじめる。その素っ気ない態度に、私は戸惑う。太郎は天野くんは私を待つために、この公園に毎日来てるって言ってたけど、ちょっと違うんじゃないかな、って思ってしまう。
天野くんの目を見ながら、正面から描いてもらうのは、二回目。描かれながら、天野くんの顔を観察する。丸眼鏡の奥に隠された顔は、やっぱり、とても真剣で……。そして、少し怒ってる?
あの日、行き先も告げず、黙って去ってしまって、そして何の連絡もしなかった私を、天野くんは怒ってるんだろうか。
「……天野くん、怒ってる?」
私は恐る恐る聞いてみる。
「何が?」
その返事はとても素っ気ない。
「やっぱり怒ってる。」
私はしょんぼりする。
「別に……。怒ってないけど?望月さんは元気そうだね。なによりだよ。」
うん、天野くんの口調はやっぱり怒ってる。呼び方も楓から望月さんに戻ってるし。
「天野くん、大学は?」
「おかげさまで、合格しました。」
「おめでとうございます。」
「それはどうも。」
木で鼻をくくったような回答。私はますますへこむ。……今日はとても告白どころじゃない。駆と太郎に背中を押してもらったけど、さっさと描き終えてもらって、別の日に出直そう。そう考えていたら、天野くんが口を開いた。
「向こうで友達、できた?」
「うん、たくさん。」
私が答えると、
「だろうね。」
と天野くんがつぶやく。……描いてるだけで、そんなこと、わかるんだろうか。
「こっちを出て行ったときは、やつれて、いまにも倒れそうな顔してたのに。いまはずいぶん満ち足りた顔してる。」
「はあ。おばさんのごはんが美味しくて。体重は元通りになりました。」
「て、そういう意味じゃない。……おばさんのごはん、て、いままでどこにいたの?」
「隣県の茜の宮学園……。おばさんの家に下宿させてもらってた。」
「そ。海外じゃないんだろうな、とは思ってたんだけど、意外と近くてびっくりだよ。」
うわあ、やっぱり怒ってるよ。
「隣県だったら、毎週とは行かなくても、二、三か月に一回ぐらいなら、描きに行けたんじゃない?俺。」
え、天野くんの怒りポイントそこ?……やっぱり、天野くんて、デッサンモデル以上の興味って、私には無いんじゃないかな。ええい、そうなら、もう言いたいことをいって、当たって砕けてしまえ、私はそう思って、口を開こうとすると、天野くんが聞いてくる。
「茜の宮って、結構なお嬢様学校だけど、友達は女の子ばっかり?」
「あ、学校は女子高だから、学校の友達は女の子ばっかりだけど、予備校の友達は男の子がほとんどだよ。」
「……へえ、そこで彼氏とかできちゃったりした?」
天野くんの声が低くなる。
「いや……、私はずっと片思い人生なので。」
「ふうん……。」
そう言って、天野くんはごそごそとスケッチブックの新しいページを開いて、二枚目を描きはじめる。……え、二枚目?私そろそろ寒くなってきたんだけど…。
「あの、寒いから二枚目は…。」
と言いかけると、天野くんの膝に乗せてあった毛布を渡された。仕方なくその毛布を肩から掛ける。天野くんの匂いがして懐かしいけど、これまたボロボロだな…。二枚目は、家で描いたら、って言おうと思ってたんだけど、なんとなく言いだしづらくなって、おとなしく私は二枚目のデッサンモデルをする。
「ずっと駆くんを想って生きるっていう姿勢は変わらないってこと?」
天野くんに改めて聞かれる。
「駆のことは今でも大好きだけど、それはもういいの。大事に思ってはいるけど、それとは別に、ちゃんと生きてる人も好きになった。」
「ふうん……。」
無表情に天野くんは鉛筆を走らせる。
「でも、その人、絵が好きすぎて、ずっと独りで生きていくつもりだって言ってるから、私はやっぱり、一生片思いかな。なかなか、恋愛は難しいね。」
「…………。」
天野くんは黙り込んでしまった。困るよね、私にこんなこと言われたら。
「だから、また良ければ、改めて私と、パートナー作らないパートナーシップを結んでくれたら、嬉しいかな…とか思うんだけど。」
そう言って、私は顔を伏せる。こんな私が一方的に思ってのパートナーシップなんて、迷惑至極だろうけれど。
「もう……たくさんだ。」
天野くんが怒ったような声でつぶやいた。ほら。やっぱり。私はぎゅっと唇を噛んだ。
「くだらないポリシーのために、目の前で大事なものをさらわれていくのは、もう、俺はごめんだ。」
天野くんはそう言って、描きかけのスケッチブックを置いて、立ち上がって近づいてきた。
「パートナーシップじゃなくて、俺とちゃんとつきあおう。好きだ、楓。」
そう言って天野くんは私を引っ張り上げて、抱きしめた。
「あまのく……。」
驚いて何か言おうとした私の唇は、天野くんの唇で覆われた。
いつの間にか、私たちは、いつか天野くんが雨宿りしていた杉の木陰に移動して、キスを繰り返していた。天野くんはやっぱり怒った顔のままで、キスの合間に、ずっと文句を言っている。
「どうして、日本にいるのに、連絡してこないわけ?」
「どうして、帰ってから三日も経ってから、やっと来るわけ?」
「俺が死ぬほど心配してたのに、そんなに元気そうなのはどういうわけ?」
熱い吐息で、唇を甘噛みされながら、繰り返されるキスの合間に聞かされる天野くんの怒りの理由。言い訳をしようとしたら、その口はまた天野くんの唇でふさがれる。
やっとのことで、天野くんから身体を離して、
「あの、キスするか文句言うか、どっちかにしてほしい…。」
と言うと、天野くんはむっとした顔をして……そして、小一時間、説教モードに入った。久しぶりに会って、やっと両思いになれたっていうのに、ムードもへったくれもない。いや、天野くんはこんな薄汚い変装姿で、私はボロボロの毛布を肩からかけて、もともとムードなんて無いに等しいんだけど。
しょうがない。こんな変人を好きになったんだから、ムードなんて期待してはいけない。それに黙っていなくなった私が悪いんだし。そう思って、天野くんの愚痴のような説教のような言葉を、私はうなだれて神妙に聞いていた。
言いたい放題いった後、天野くんは放心したように池の近くのベンチに腰を掛けた。私もその隣に座る。少なくとも、天野くんが音信不通の間に、とても私を心配してくれていたのは、すごくよくわかった。
二週間前から、時間の許す限り午後はこの公園に来ていたらしい。そして、三日前から、私の部屋にカーテンが開いて、夕刻から明かりが灯るのに気がついていた。でも、両親も一緒かもしれないと、遠慮していたらしい。
「新しい連絡先も教えてもらえてないしさ、俺から連絡しようもないじゃん?」
「うん。」
「寒い中、毎日毎日、楓の来るのを待ち続けてる俺の気持ち、ほんとに理解してんのかよ。」
「ごめん。」
「で、ケロッとした顔でやってきて、それでさらっと告白とか、なめてんのか、と思う。」
「ケロッとも、さらっとも、してないつもりだったんだけど…。」
私は私なりに、決意を固めての告白だったつもりだったんだけど。
「あげくの果てに、もう一回パートナーシップを結べってか?……あんな腰砕けそうなキスしといて、今さらパートナーシップ?ふざけんなよって感じだよ。」
「ごめん。」
「楓はわかってない。全然、わかってない。腹が立つ。すっげー腹立つ。」
「ごめん。」
私はひたすら謝り倒す。
「確かに目の前にいたはずの、一番大切なものを、突然誰かに攫われていく気持ちを、そして、もっと遠くに行かれちゃう気持ちを、ほんとに楓はわかってんのかよ!」
「ごめんなさい。」
天野くんの一年分の恨みを、つもりつもった気持ちを、一気に聞かされて、私はひたすら謝りつづけた。一晩寝ないで、ずっと私の心配をしてくれた、優しいこの人を、私はある日突然、裏切った。そして、一年あまりの長い間、姿を消して、連絡一つしなかった。全部全部、自分のわがままで、どれだけ天野くんを傷つけたか、私はわかっていなかった。
山ほどつもる文句を聞かされたあと、天野くんは私を抱きしめた。
「もう、行くな。どこにも行くな。」
「うん。行かない。」
「俺のそばにいて、お願い。」
「うん、ずっといる。」
なぜだろう、似たような言葉をタケルから言われたら、ただひたすら怖いだけだったのに、天野くんから言われると、暖かな喜びを感じる。言われると、ますます離れたくなくなって、しっかりとしがみつく。
「天野くん、好き。」
「俺も。つか、もう天野くんていうのやめて。名前で呼んで。アイツだけ名前呼ばれてるの、腹立つ。」
「匠、好き。」
「俺も、楓が好き。」




