第五十四話 帰宅と再会
やがて、その秋も暮れ、受験が近づき、私はますます勉強に明け暮れる。学校のみんなは
「がんばってね!楓ちゃんがお医者さんになったら、私の主治医になってもらうわ!」
とか応援してくれる。心強い。今年のお正月は、両親は帰ってこない。受験シーズンにお母さんだけが一か月間、帰国して、私のサポートをしてくれると言う。
そして、年が明けて一月半ば、私は久々に公園の見えるマンションに、母とともに帰宅した。
「ごめんね。医学部目指すのが遅すぎて、国公立受験が厳しくて。」
私は母に謝る。
「いいのよ。この一年で、あなた、飛躍的に成績が伸びたって、予備校の先生もおっしゃってるし、あなたが、とっても努力したのがよくわかる。」
「第一志望は、特待取れるようにがんばるから。少しでも経済的な負担を掛けないようにがんばる、私。」
「大丈夫。お父さんも、娘が医学部入るっていうので、ずいぶん気合が入ってる。……だから、あなたが学生の間は、もしかしたら帰国が難しいかもしれないけど、あなたなら大丈夫でしょう?」
「うん。ひとり暮らし、慣れてるし。」
「医学部は夜遅くなることも多いって言うし、遅くなりそうなら、タクシーとか使っていいんだからね。……安全第一よ。」
「わかった。お母さんに心配かけないように気を付ける。」
そう言って、私はベランダ越しに冬景色を見せる公園を眺める。家の中に緑はすっかり無くなってしまったけれど、窓から見える公園の風景は、都会の中で、そこだけが自然を主張し、四季のうつろいを惜しげもなく見せてくれる。寒そうにさざめく池の水面を見つめながら、私は心の中で、天野くんを想った。……天野くんの受験も、もう少しだ。励ましてあげたいけれど、まずは自分自身の受験に集中しなくては。
受験を次々とこなして行き、一か月してから、私は空港に母を見送って、いったんおばさんの家に戻った。
卒業式、ひさびさに学校に登校すると、みんな心配そうに私を見てくるので私はにっこりと笑って、Vサインを出すと、クラスメイトの顔が一斉に輝く。
「やったね!楓ちゃん!」
祝福の声に包まれて、私はとても嬉しかった。同じ合格でも、祝ってくれる人がいるのといないのでは大違いだ。
「大学は離れちゃうけど、一年あまり、みんなと過ごせて、とっても楽しかった。これからも友達でいてくれるかな?」
「もちろんだよ!」
女子高だけに、胴上げ、とまでは行かなかったけど、もみくちゃにされて、合格パーティを開いてくれる、という話まで持ち上がった。その週のうちに開かれたパーティの席で、
「でもさー、私たち、お医者さんと結婚したいなーとかそういう考えはあっても、自分がお医者さんになろうとか、そういうのは考えなかったな。」
と、友達に言われる。
「私も、そこまで考えて最初から理系やってたわけじゃないよ。いろんな人と接するうちに、初恋の子の死を無駄にしたくないな…とかそういうの思うようになって、だんだんね…。」
そう言うと、
「でもさ、きっと楓がそういう選択したこと、きっと駆くんも喜んでるよ。」
そういう声が上がって、私は不覚にも涙する。駆、ほんとに喜んでくれるかな……、今度、一度も行けてなかったお墓参りに行って、駆に報告しないと。
「ありがとう。私、ここに転校して来て、みんなが応援してくれたからこそ、私、医学部に合格できた、って思うんだ。」
私が涙声で言うと、クラスメイトの子たちも次々と泣きだして、私はみんなと固く抱き合った。転校前はちょっとマシになったとはいえ、前の学校では、愛人とか呼ばれ、謗られて、勉強に集中できない日も多くあった。そのほとんどの原因が、自分の、他人を受け付けない姿勢にあったとはいえ、突然現れた、部外者の私を、暖かく受け入れてくれたこの高校のクラスメイトには、感謝の思いしかない。
「みんな、大好きだよ。」
泣きながらそう言うと、クラスの子たちは
「私も、楓ちゃん大好き。」
「楓は私の太陽だよ。」
なんて泣きながら言ってくれる。
「ただ一つ、残念なのは、楓ちゃんにカッコイイお医者さんを紹介してもらいたいのに、楓ちゃんの行く大学が女子大って言うのが残念で…。」
と誰かが言って、パーティ会場は泣き笑いの渦に包まれて、楽しく終わることができた。たくさんの思い出と、友達。私は、かけがえのないものをたくさんこの学校で得られた。おばさんの家でも、あらためてお祝いとお別れパーティをしてもらって、私はこの懐かしい地を後にした。
卒業式から一週間後、私は公園の見えるマンションに戻ってきた。今度は、一時滞在じゃなくて、再び生活の拠点を戻すため、身の回りのものすべてを、おばさんの家から引き上げて、元通りの場所に直した。
違うのは、あの時と違って、緑がすごく減っていること。
モンステラの鉢をリビングに置いて、サボ太郎を玄関の下駄箱の上に置いて。
「やっぱりこれだけじゃ、寂しいかな。」
私はひとりごとをつぶやく。ほんとうは、前ほどではなくても、もう少し増やしたいけれど……、でも、これから始まる長い学生生活、あまり無駄遣いもしていられない。入学式までは、まだ間があるけれど、何もしないのは落ち着かないので、私は部屋の大掃除や模様替え、入学準備の買い物、そして夜は勉強に明け暮れた。
そうして三日たったある日。私が買い物から帰って来た日。
「お帰り、楓。」
太郎が、あの日のように、ふんわりと浮かんでいた。
私の手から、スーパーの袋がどさりと落ちて、りんごが転がる。
「太郎……。」
私の唇からつぶやきが勝手に漏れた。
………太郎は、あの時とまったく同じ笑顔で、そして、あの時とおなじ制服姿で。
「もう、出てこないって、思ってた……。」
私が言うと、太郎が首をかしげる。
「どうして?楓、いま、ひとりなんでしょ?」
……えっと、太郎の出現条件って、私がひとりでいること、そして、この部屋の中だけで、そして……。
「そっか、今日、水曜日か……。」
学校も休みになってだいぶたつから、曜日の感覚が忘れつつあった。私は口を引き結んで、スーパーの袋とりんごを拾い上げ、キッチンへ向かう。太郎はふわふわ飛びながらついてくる。私が無言で食材を冷蔵庫に収めはじめると、太郎は後ろから、
「ねえ、楓、怒ってるの?」
なんて聞いてくる。
「別に……。」
私が言うと、太郎は私の顔を横からのぞきこんで、
「いや、絶対、この顔怒ってるよ?」
と言う。
「だって、太郎ってなんなの?さよならも言わずに勝手にいなくなって。私、太郎のせいで風邪ひいて、ひどい目にあった。」
……あの日、雨に打たれて、びしょ濡れのまま、太郎が出てくるのを待ち続けた日を思い出す。
「……だって仕方無いじゃん。楓が前触れもなくいきなりタケルくんとつきあったりするから。」
「あんな一方的にキスされることを、つきあうって言わないの!」
私は太郎に向き合って、怒鳴るように言うと、太郎はびくっとして、後ずさるように後ろにふわりと下がって言う。
「それを嫌とも言わないで、そのあと仲良く駅まで手をつないで帰ってたじゃん。あれってつきあってるってことでしょ?」
「あれは、自分の頭が突然のことを処理できなくて、ぼーっとしてたから……。」
私は言い訳するように太郎に言って、そんな自分に腹が立つ。結局過去の自分がはっきりしない態度を取ったから、太郎が出て来れなくなっただけじゃないか。
「でも、確かにタケルくんとつきあってるときの楓、あんまり幸せそうじゃなかったよね。そこは僕も依頼者も葛藤があったんだよ。」
「……じゃあ、なんで出てきて、相談に乗ってくれなかったの?」
私は問う。あの日、私は人生で一番、太郎を必要としていた日、太郎は露ほども姿を見せず、私はひとりきりだった。
「僕も悩んでたんだよね……。タケルくんは楓の心を捕えるためだろうけど、駆くんの気持ちを代弁してたよね、あの時。」
「うん………。」
「あれって、見事にほんと、依頼者の依頼そのものだったから……。さすがに駆くんの親友だな、って感心したよ。よく分かってるんだな……って。」
そう言って太郎はくるりと回る。
「結局楓は、そうやってタケルくんに強引に揺さぶりを掛けられて、引きずりだされなきゃ、ずっと自分の殻に閉じこもって、誰ともつきあうこともなかったのかな、とも思うし。」
「………そうかもしれないけど。」
確かにあの頃の私は、居心地の良い自分の殻の中で、時折おとずれてくれる天野くんや、駆の写真を見せてくれるタケルの存在で、ほどほどの寂しさをまぎらわせて、特に不満も無く生きていた。
「タケルくんとつきあったからこそ、楓は天野くんへの気持ちも自覚したし、自分のやりたいことにも目覚めたんでしょ?悪いことばっかりでも無かったと思うけど?」
「…………。」
私は太郎に何も言い返せなくて、言葉に詰まる。
「……だけどね、ほんとつらかった。あの頃の楓を見てるの。契約上、出てはいけないけど、僕も依頼者も、楓がかわいそうでたまらなかった。学校中にひどい噂が出回って、あげく襲われかけたりとか。」
「………何よ、依頼者、依頼者って。私は未来の子孫にまで同情されないといけないわけ?」
私は太郎に背を向けて、八つ当たりの言葉をぶつける。久々に出てきてくれた太郎に、こんなひどい言葉しか言えないなんて、私はやっぱりひねくれている。
「まだ気づかない?楓。」
後ろから、静かに太郎が私に声をかける。
「……何を?」
「僕のほんとうの依頼者。なんで僕、こんなスーツ着て出てきてると思うの?」
「え………。」
「楓、ほんとうは分かってるって思ってた。ドラえもんて言えば、簡単にアイツ信じるから言えよ、って言ったの依頼者だけどさ。まさかそんな単純にずっと信じ込んでるって思わなかった。」
太郎の意味することが分かって、私は愕然とした。




