第三十七話 最後の似顔絵
放課後、HRが終わると、私はそそくさと教室を後にする。居づらい教室にいるよりも、誰にも顔を合わせず、さっさと帰った方がいい。いつもより早い時間の電車に乗り込んで、私はため息をつく。お弁当、タケルに頼まれたから、お弁当箱、買わなくちゃ。
友達だったときは、ありあわせのおかずを、タッパーに詰め込んで、ほら、と渡すだけで良かったけど、これからはそうは行かない気がする。家に帰ってから、自転車で少し離れた雑貨屋に行く。
男性向きのお弁当箱を探しながら、ほんとうに私がタケルを好きだったら、こんなこともきっと楽しいんだろうな、と思う。彼氏へのプレゼントを選んでいるときの、凛音の嬉しそうな笑顔を思い出す。凛音は、もうあんなふうに、私に笑ってくれることはもう無いんだろうな。
どうして、こんなに一挙に、いろんなことが押し寄せて、そして、関係が崩れて行ったのか、私にはどうしてもわからなかった。
友達として、タケルと会っていた時は、私も確かに楽しかった。心ゆくまで駆のことを話す相手が出来て、嬉しかった。タケルも、とても楽しそうだった。タケルも、学校中の期待を背負って、スター選手として扱われる生活は、窮屈に感じていた面もあるんだろう。小学校の同級生として、私と接触して、タケルも大切に抱えてきた駆の思い出を、私と共有して、タケルもリラックスした表情を見せていた。
……そうか、私が、それを終わりにしよう、って言ったんだった。それが、タケルを傷つけたんだ。タケル、怒ってた。あふれる感情を隠そうともせず、壁を殴っていた。私が離れようとしたから、タケルは私に執着するんだ。
タケルは、今まで、人が寄ってくることがあっても、人が離れていくこと、あまり無かったかもしれない。駆の大事な思い出を抱えたまま、私が去っていくこと、タケルは許せなかったのかもしれない。それが、奇妙にタケルをゆがめて…。
結局、私のせいか。私はため息をつく。タケルの私を「好き」という言葉は、たぶん、普通の「好き」じゃない。「駆のことが好きな私が好き」っていうのは、おそらく、タケルの本心だろう。駆のことが無ければ、私はタケルの気にも止まることは絶対ない、普通の、平凡な女の子だ。
試合の時、タケルに寄りかかるように何かささやいていた、マネージャーの小松さんの横顔を思い返す。とても華やかで、自信に満ちあふれて、人目につくほど綺麗な女の子だった。タケルの隣には、本来、あんな女の子がふさわしいはずだ。でも、タケルの心には、いつも駆があって、それが、私をタケルに縛り付ける。
明日は、水曜日、太郎は、現れるだろうか…。
あることに気づいて、ふと私は弁当箱を選んでいた指が止まる。そうか、太郎は、私がタケルと「つきあった」から、姿を消したんだ…。
あの日、私は、タケルと初めてのキスをした。それが一方的なものだとしても、私はそれを拒否せず、「受け入れた」から、太郎は、依頼者からの役目を終えて、姿を消したんだ。さよならも言わずに。私は呆然とする。
私はタケルを得ることで、たくさんの大事なものを無くして行った気がする。凛音との友情、天野くんとの不思議な協定、そして、太郎の笑顔。
全部全部、突然で、なにも私はこの手にとどめることが出来なかった。断ち切られていったすべては、私にとって、とても大切なものたちだった。そこにある時は、たいして重要に思っていなかったのに。
凛音のことを、私は凛音が言うように、たいして信頼していなかった。凛音だって、私がそばにいると便利だから、一緒にいるだけだって、内心思ってた。
天野くんが、突然押しかけて、毎週のようにデッサンしてくるのを、私は面倒に思ってた。偽装結婚とか言い出して、何言ってるんだって、バカにしていた。
太郎は突然現れて、駆の顔をしてるくせに、中身が駆とは似ても似つかなくて、話し相手って言うのにろくなアドバイスも出来ないことを、ちょっと軽く見ていた。
でも、無くしてみれば、全部、私にとってかけがえのないものだった。そして残っているのは、タケルがくれる虚ろな愛情。
家に戻って、玄関扉を開け、私は声をかける。
「ただいま、太郎。」
サボ太郎じゃなくて、太郎に。姿は見えなくても、返事はしなくても、そこにいるかもしれない太郎に。そして、私は、夕飯づくりをするために、キッチンへ向かう。いつも通りの日常を送るために。
太郎が姿を見せなくても、凛音が笑ってくれなくても、そして、天野くんが助けに来てくれなくても、私は強くならなくては。
次の日、真新しい弁当箱を見て、タケルは嬉しそうな顔をした。
「これ、俺のために買ってくれたの?」
「うん、大きさとか量とか、ちょうどいいか分からないけど。」
「マジ嬉しい!量も十分あるよ。ていうか、楓が俺のためにこれ選んで買ってくれたっていうのが、すごい感激。」
子どもみたいな顔するタケルがおかしくて、かすかに私は笑った。
「すげー旨いよ。これがもう食えなくなるかと思って、どれだけ俺が絶望の底に沈んだか、楓わかる?」
弁当を頬張りながら、はしゃぐタケル。
「タケルだったら、喜んでお弁当ぐらい作ってくれる女子なんて、いくらでもいると思うけど?」
「俺は、楓のが食いたいんだよ。他の女のなんているか。」
私の言葉に、あからさまに不機嫌そうな顔をするタケル。そして、食事が終わると、タケルは当然のように、私を膝の上に乗せる。
「……少しずつでいい?」
私はタケルに尋ねる。
「少しずつ、タケルを好きになれるように、がんばるから、私。」
「いいよ。いくらでも待つ。俺はずっとずっと、楓のこと、好きだったんだから。」
タケルの言葉を全部信じてるわけじゃない。でも、そう言ってくれるタケルの気持ちに、添えるようにならなくては、私はそう思った。
タケルは毎日、当然のように昼に迎えに来た。
「俺さ、朝も夕方も部活で、週末は試合ばっかりで、オフなんて月に一日もあればいいほう。試合も半分以上が遠征だし…。だから、昼ぐらいしか、楓に会えないんだよ。」
タケルはそう言う。
「そっか、仕方ないよ。でも友達とお昼食べなくていいの?」
「別に…。楓と過ごす方が大事だし。ていうか、ほんとはもっと一緒にいたい、会いたい。ほんとは週一回じゃ全然足りなかった。」
そう言ってタケルは私を抱きしめる。
タケルは、学食での食事のたびに、細かくノートをつける習慣を忘れない。
「そのノート、どうするの?」
「マネージャーが品目を分けて、カロリー計算して、足りない品目があったら指摘してくる。」
「すごいね、マネージャーさん。」
「ああ…。」
小松さん、すごい仕事してるんだな…。私なんかが、バスケ部のエースと交際してるの、どう思ってるんだろう。タケルとつきあってるっていう噂もあったし。私の顔色を見て、タケルが、
「小松はただのマネージャーだ。噂を真に受けるな。俺が好きなのは、昔から楓だけ。」
と言う。
昔からって、いつからよ、と心の中で思う。夏に私が梅崎くんと映画見に行った話だって、普通に聞き流してたっぽいのに。タケルの言葉にあまり誠実さは無いけど、そんなことを指摘したら、怒らせるかもしれないから、私は黙っている。
タケルは私とキスをするとき、よく私の身体を横たえる。
「身長差があるから、この方がキスしやすい。」
そんなことを言うタケル。そう言えば、小松さんは私よりも小柄な女の子だった。
私の身体をいたわる優しい仕草も、キスのやりかたも手慣れていて、タケルが女の子の扱いに長けているのがよくわかる。
「少し、口、開けて。」
タケルは優しく私に命令する。私が素直に応じると、タケルは満足そうに舌を絡めてくる。それが終わると、
「楓、可愛い。大好き。」
とうるんだ瞳で抱きしめてくる。
「早く、俺を好きになって。」
………いつかそんな日が、来るんだろうか。
金曜日、タケルは残念そうにため息をつく。
「この週末は遠征でさ…。ほんとは楓も連れて行きたいけど、そういうわけにも行かないし。」
タケルは膝の上に乗せた私をぎゅうっと抱きしめる。
「そのかわり、来週は、日曜日が半日オフだから、どこか出かけよう。」
「うん、わかった。」
私はうつろに応じる。
「どこか行きたいところとか、ある?」
「……特に思いつかないんだけど。」
「楓、デートの経験とか無さそうだもんな。」
タケルはそう言って笑う。そういうタケルは、いったいこれまで、何人の女の子とデートしてきたんだろう。
「わかった、プランは俺が考えるから。その日は試合、見に来て。そのあと一緒に出掛けよう。」
「うん……。」
また帆乃夏と顔を合わせることになるか、と思うと億劫だけど、行かないわけにもいかないんだろうな。
タケルが遠征に行ってしまった日曜日の午後二時半、いつもよりも控えめな音で、インターフォンが鳴った。私が黙って扉を開けると、変装していない私服姿の、天野くんが立っていた。
しばらく、二人で玄関で黙り込む。
「ごめん…、ほんとは来たらダメだって分かってるんだけど、今週はバスケ部が遠征だって聞いたから……最後に描かせて?」
苦しそうに天野くんが言う。
「いいよ。ちょうど、天野くんに渡すものがあったから。」
私は家の中に、天野くんを招き入れ、ダイニングテーブルの前に座ってもらって、お茶を出す。
二人で、黙ってお茶を飲む。
「最初に、ここで、天野くんにお茶、出したね。」
「そうだったね。」
「それから、無理やりポーズ取らされて、似顔絵描かれて、最初の絵、すごく私怒った顔してた。」
「うん。」
「あれから、いっぱい描いてもらったね。」
「描いてもらったとか言うなよ。俺が勝手に無理やり、描きに来てたんだよ。」
「でも、天野くんは助けてくれた。私を。」
「…………。」
「ありがとう。」
「……俺が勝手にしたことだから、別にお礼なんて。」
「あと、ごめん。約束守れなくて。」
「……もういいよ、それは、覚悟してたことだから。いつかはこういう日が来るかも、って思ってたし。」
「ごめんね。私、確かに天野くんの言うとおり、流されやすくて、弱い人間だったの。」
「別に……それより、早く描かせて。」
「うん、あと、これ、この間のお礼。」
私は、天野くんがいつも使っていた鉛筆のダースセットを渡した。
「ほんとはこんなものじゃ、お礼にならないの、わかってるけど…でも、何かしたくて。」
「ありがとう。いくらでも使うものだから、助かる。」
「それ、使って、また素敵な絵、描いて。」
「素敵な絵は、俺の趣味じゃないんだけど…。」
天野くんに言われる。
「そうだった。」
私は苦笑する。
「じゃあ、それを使って、ドロドロの人間の表情、描いて。好きなだけ。」
そう言うと、天野くんは口をつぐんでしまった。しばらく、じっとしていたけれど、天野くんはダイニングテーブルから立ち上がって、椅子を動かし始めた。
「………、ここ、座ってくれる?描くから。」
「ちょっと待って。今日は、私が髪をアレンジする。自分で。」
「わかった。」
私は、寝室に行き、自分の鏡の前で、ピンを取り出して、前髪を分ける。私が、駆に恋していたころの髪型。私がリビングに戻ると、壁際に椅子がつけられ、そのわきにモンステラの鉢が飾られていた。
「今日は、正面から描くから、俺の目、見て。」
「うん。」
言われた通り、椅子に座って、天野くんの顔を見て、口角を上げる。最後の絵だから、笑顔で終わりたい。
天野くんが絵を描いている姿を、まじまじと眺めるのは初めてだ。こんなに真剣に描いているんだ、と思う。最初は嫌だった、天野くんとのデッサンの時間。なんだって、毎週無理やり押しかけてくるんだろう、って思ってた。でも、少しずつ、言葉を交わすようになって、天野くんの暖かさに触れるようになって、少しずつ、私は天野くんに気を許すようになった。
お互い、相手を作るつもりのない関係、というのは気楽だった。天野くんは、絵が好きで、それに没頭するために、一人で。私は、駆を想って、ずっと独りで。そう思ってたのに。
でも、お互い、気を許しあっていたから、少しずつ、私たちの心は知らず知らずに近づいて行った。
天野くんは、気がついたら、デッサンとは関係のない時間も、私に触れるようになっていた。私は、それを自然に受け入れていた。梅崎くんと映画を見に行った日、私が梅崎くんを断った、と言ったら、安心したように、天野くんは私を抱き寄せてきて、私は、彼の胸に額をつけて。
それからも、天野くんは、私の額や頬に触れてきて、私はそれを当たり前のように思っていた。少しずつ、育っていた友情とも違う感情。私たち二人は、それに気づかないふりをしてきた。だって、私たちは「パートナーを作らないパートナーシップ」だったから。
天野くんは真剣な顔をして、でも、どこかつらそうに、スケッチブックに鉛筆を走らせる。私は、その天野くんを、昂然と見つめる。どんなに悲しくても、もう、私は泣かない。
やがて、
「……終わった。」
天野くんがぽつりと言う。
「見せて。」
天野くんは、近づいてきて、私にスケッチブックを差し出した。絵の中の私は、額を見せて、顔を上げて、少し笑っていた。
「良かった…、最後の絵が、ちゃんと笑えてて。」
私が言うと、天野くんが震えるような声で、
「そんな悲しそうな顔して笑うぐらいなら、無理に笑わなくて良かったのに。」
そう言って、私の両肩に手を置いた。
「あんたがもっと幸せそうな顔してくれてたら、俺、ちゃんとあきらめがついたのに…。」
「ごめんね…。」
天野くんの震える両手から、天野くんの感情が流れ込んでくるような気がした。固く抱き合うことも、キスを交わすことも、お互いの気持ちを確かめ合うこともなかった、私たちの関係。天野くんは、震える両手で、私の頬を包み込むように触れて、私の目をじっと見つめた。
「俺、ほんとはさ…。」
天野くんは、何か言おうとして、言葉を途切れさせた。天野くんは、抑えきれない感情を、いま、口にしようとしている。でも、それは、言わせてはいけない言葉で…
「ありがとう、天野くん。」
私は、天野くんの言葉をさえぎるように言った。
「最後に、天野くんが、描きに来てくれて、良かった。」
天野くんは、口を閉じて、黙り込む。
「駆とは、さよならが言えなくて、ずっと悔いが残ったままだった。でも、天野くんには、ちゃんとお別れができる。今まで、描いてくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。」
私に触れていた天野くんの両手が、力なく落ちていく。天野くんは、のろのろとスケッチブックを私の膝から取り上げて、鞄に入れた。鉛筆も片付けて、そして、天野くんはゆっくりと玄関に向かう。
「ありがとう、天野くん、さよなら。」
私が言うと、天野くんはうつむいたまま、
「戸締り、気を付けて。」
それだけ言って、玄関扉を開けて、出て行った。




