第十六話 危機感を持つことについて
「負けちゃった、か。」
試合が終わって、ぽつりと凛音が言う。
「覚悟はしてたけど、しょうがないね。……ごめん、彼氏のところに行ってくる。今日は付き合ってくれてありがとう。」
凛音は沈んだ顔でそう言った。
「ううん。初めて来たけど、結構楽しかったよ。誘ってくれてありがとうね。」
凛音の彼氏の応援横断幕を外すのを手伝って、凛音や帆乃夏たちにさよならをして、私は体育館に出た。しとしとと、梅雨の雨が降り続いている。時刻は三時少し過ぎ。急いで帰れば、四時に間に合うかな、と思ったけど、私は試合の余韻に浸るように、わざとゆっくりと足を進めた。
駆ももし生きてたら、あんなふうに試合に出て、勝ったり負けたりして、喜んだり、悔しかったりした顔を見せたのかな。私も凛音みたいに、手を取り合って、駆といっしょに、喜びも悲しみも一緒に受けて止めていたんだろうか。揺れる電車の中で、私は駆のことを思った。
駆のことを思い出すと、苦くてつらい味が、以前はこみ上げてきたけれど、いまはその味が、かすかに痛む胸と、優しい哀しみに変化してきた。時間が経つって、こういうことなんだろうな。思い出は色あせることなく、違う色に変化して…。
いつの間にか、マンションの前についていた。エントランスを通り抜けて、エレベーターに乗って、家の前の扉の前に行くと、やはり、天野くんが待っていた。
天野くんは文庫本を読みながら、壁に背をもたれて立っていた。公園の似顔絵描きの時の変装ではなくて、今日は体にフィットする白いTシャツの上に、さわやかな薄い水色のカッターシャツを羽織って、革紐にシルバーのチョーカーがさりげなくおしゃれだ。私はふっと笑った。
「天野くん。」
「あ、お帰り。」
天野くんは文庫本を閉じてにっこりと笑う。
「天野くんのちゃんとした私服、はじめて見た。」
そう言いながら、私は扉を開けた。天野くんも、お邪魔します、も言わずに当たり前のように上り込んでくる。
「今日は久しぶりの外出で疲れたから、早めに終わらせてよ。」
「大丈夫、今日は楽な体勢にしてあげるから。」
……早めに終わらせる気は、微塵もないらしい。私はため息をついた。手を洗って、喉が渇いたので、冷蔵庫を開けてお茶を取り出す。自分だけ飲むのも気が引けたので、天野くんにも冷たい麦茶を入れてあげる。
「お、望月さんにお茶出してもらうのなんて、最初の日以来だな。」
そんなことを言われる。
「じっと見られながら、自分だけ飲めないじゃない。」
そう言って、冷たい麦茶でのどを潤す。私が二杯目のお茶を飲んでいる間に、天野くんは一息に飲み干してしまったお茶のコップをキッチンにさっさと下げて、ソファーにクッションを置き始めた。天野くんがなにやらセッティングしている間に、私はバッグを片付けるために寝室に向かおうとすると、天野くんに声を掛けられる。
「着替えないでよ、その服装で。ちょうど今日は、ワンピース着てもらおうと思ってたから、ちょうどよかった。」
……また勝手なことを、と思って、返事もせずに寝室に入る。今日はオフホワイトのロング丈のワンピース姿。帽子を脱いで壁に掛けると、バッグの中身を整理した。すると、文房具屋でラッピングしてもらった、梅崎くんへのお礼の品が出てきて、私は思い出した。そうだ、これ、傘と一緒に月曜日に梅崎くんに渡さないと。
リビングに戻ると、天野くんがにっこりと笑う。
「さ、ちょっとソファーに横になってよ。枕作っておいたから。」
「寝姿描くの?」
「そうそう…だからって本気で寝ないでよ。はい、ここに腰かけて、横になって、頭はこの位置、右腕を曲げて、手の甲で頭を支える感じで…。」
好き勝手なことを言いながら、相変わらず、肩や髪に無遠慮に天野くんが触ってくる。さすがに回数を重ねて、だんだん私も慣れてきたとはいえ、天野くんは馴れ馴れしすぎないか。スカートの裾まで直すと、鞄から、小さな櫛まで出してきて、私の髪を整え始める天野くん。
「もういいから、早く描いて終わらせてよ、疲れてるのに。」
「はいはい、もう終わる。」
天野くんはやっと、向かい側に座って、スケッチブックを広げた。
「視線は、自分の膝を見る感じでね。」
そう言いながら、さらさらと鉛筆を動かす天野くん。
「……今日は、凛音ちゃんとどこへ行ったの?」
鉛筆を走らせながら、天野くんが尋ねてくる。
「凛音の彼が、N高でバスケやってるから、その試合の応援。」
「…へえ、あんたがスポーツ観戦するなんて意外。対戦相手どこ?」
「うちの高校。」
「は?うちの高校の対戦相手の応援に行ったの?あんた。友達づきあいがいいねえ。」
天野くんが笑い声を立てる。
「別に、凛音がうちの高校との対戦じゃ、一緒に見てくれる人がいないからって、私に声かけてきただけだよ。私はどっちの応援もしてない。」
「…そっか。で、初観戦の感想は?」
「楽しかったよ、ふつうに。」
「どっちが勝った?」
「うちの高校の圧勝。荒川くんて言う人が大活躍。」
「ああ、三組の…。絵になる男だよね、彼は。」
「知ってるんだ、天野くんでも。」
「誰でも知ってるでしょ。わが高のバスケ部のアイドル。」
「そ?凛音が天野くんと人気を二分する人気だって言ってた。私は今日まで知らなかったけど、その人。」
「バスケ部のアイドルと俺が並べられるとは、光栄だね。しかし、彼を知らなかったとは、あんたらしい。」
天野くんはくすくすと笑う。
「だって今までクラスも違えば、授業も一緒になったことも無かったら、知らないでしょ、普通。」
「そんなことも無いよ、あんたが他人に無関心すぎるだけ。あの長身に、絵に描きたくなるようなあの風貌、ふつうは凄く目立つから気づくと思うよ?」
「絵に描きたくなるのは、天野くんだけでしょ。」
「そうかな?…あんたはいっつも、廊下で目を伏せて、誰とも目を合わさないようにさっさと早足で歩いてる。あんなんじゃ、確かに人の顔は覚えられないかもね。」
そう指摘されて、私はドキッとする。
「なんでもよく見てるねえ、観察家の天野くんは。」
皮肉たっぷりにそう言ってやる。
「うん、絵になるものはないか、目を光らせておかないと、いい構想が得られないからね。……この間の、きみらの相合傘の後姿も、なかなか絵になってたよ。」
からかうようにそう言われて、私は驚く。
「え……それも見てたの?」
「うん。僕がだいぶ後から帰ったはずなのに、なぜか君らに追いついて。で、面白そうだったから、ちょっと後ろから観察してた。」
「趣味悪。何でもかんでも観察するとか。」
「初々しくて、なかなか良かったよ、あんたの恥じらいながら傘に入ってる後姿も。付き合いはじめの優等生カップル、って感じで。」
「付き合うとか冗談やめてよ…。恥じらうっていうか、緊張するのよね。物理のクラスは一緒の人だけど、あんまり喋ったことも無いし。……でも、あの傘借りちゃったから、また話さないと。」
「……へえ、あの豪雨の中、あんたに傘貸したの、男気あるね、彼。」
「そんなつもりもなかったのに、さらっと傘置いて行っちゃって、断る暇も無かった。」
「なかなかスマートやり方だね。惚れた?」
「冗談やめてよ。私は誰とも一生付き合うつもりないって、言ってるじゃない。」
「そう?恋して変わっていくあんたの姿も、俺、描いてみたいから、誰かと付き合ったら面白いのにね。」
その言葉に、なにかイラッとさせられる。
「いい加減にしてくれる?私はそんなつもり無いって言ってるのに。それに、私がもし仮に、だれかとつきあったりしたら、天野くんもここに入り浸って、私の絵を描くなんてできなくなるはずだけど?」
「そうか、それは考えてなかったなあ。確かにそれは困る。やっぱり誰とも付き合わないで。」
適当すぎる天野くんの言葉に、あきれて返事をする気も失せた。天野くんが話しかけきてても、それからは生返事しかせずにソファーに横たわっていたら、いつの間にか私は眠ってしまっていた。はっと気づいたら、もうかなり時間が経っていて、天野くんはなんだか怒った顔で、黙々とまだ鉛筆を走らせている。
「ごめん、いま、何時?」
「六時半。」
「やば、結構寝てたね。」
私はソファーに起き上がって座り込む。
「寝るなって言ったのに、無防備に寝やがって。腹が立ったから、襲ってやろうかと思った。」
「え、しないでしょ、天野くんはそんなこと。」
寝起きのぼーっとした頭で、そんなふうに言うと、天野くんはますますむっとした顔をする。
「しないよ。そんなことしたら、今後あんたを描けなくなって困るから。でも、それぐらい腹が立ったってこと。」
「寝そべりポーズにしたの、天野くんじゃない。それが描きたかったんでしょ?」
「そうじゃない、あんたが隙だらけってことだよ。普通、二人きりの部屋で、男の前で寝るか?」
……なんだって、天野くんはこんなに怒ってるんだろう。
「仕方ないから、あんたの寝姿もデッサンしてやった。……どうだ、無防備だろ?襲ってくださいって言わんばかりじゃないか。」
スケッチブックを目の前に突き付けられる。口でも開けて寝てる顔かな?と思ったけど、そんなことは無くて、両手を耳の下で重ね合わせるように枕代わりにして、私が寝ている姿を描かれていた。片足はソファーからずり落ちそうになっていて、私の寝顔は安らかそのもの。私はうっかり笑った。
「すごい、自分の寝顔なんてはじめて見た。」
「バカ面だろ?危機感持て、危機感。」
「いたっ。」
スケッチブックの角で、天野くんに頭を小突かれた。




