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二人の司馬懿①

――子供の頃から変わった子だと言われておりました。


 司馬孚(しばふ)はそう言うと、ゆらゆらと体を揺らした。

 琴を弾き、詩を歌う。俗世から距離を置いた老荘思想が流行り、竹林の七賢と呼ばれた人々がもてはやされた時代だ。俗世では政争が激しさを増しており、出世の道をあきらめ、老荘思想に傾倒するものが後を絶たなかった。

 老荘思想に憧れはあったが、俗世のしがらみが司馬孚を捕らえて離してはくれなかった。

 司馬孚、字は叔達、司馬懿(しばい)仲達の弟だ。父や兄と同様、魏の曹操に仕えた。性は温厚で誠実、人から恨みを買うということがなかった。

 目立つことが嫌いで、兄、仲達の影のように生きて来た。

 諸葛孔明の侵攻に苦しめられていた魏の明帝は、司馬孚を度支尚書に抜擢した。前線で孔明の北伐を食い止めようとする司馬懿の為に、兵員や物資を調達し、補給する役目だ。これを司馬孚はそつなくこなし、「わしは二人の司馬懿を得た」と明帝を喜ばせた。

 司馬孚は魏の重臣となった。

 老荘思想に憧れのある司馬孚は琴を弾き、詩を歌う。上手くはない。「味はあるが、長く聴くに堪えられない」と司馬懿は言う。

 夢中で琴を弾いていると、無我の境地に達する時がある。そして、何処からか声がする。司馬孚自身は、無我の境地にいる為、まるで意識はしていないのだが、一人、ぶつぶつと話をしているようだ。

「琴を弾きながら、誰かと会話をしている」と気味悪がられた。

 子供の頃は、何にでも直ぐに夢中になってしまうので、もっと独り言が多かった。「変わった子だ」と周囲に言われた。

「誰と話をしておるのだ?」と司馬懿に聞かれた時、「秦始皇の近臣だった高毅と申すものでございます。不老不死の体となり、この世を彷徨っております」と答えたら、「お前の魂魄も、この世を彷徨っているようだ」と呆れられた。

 今日も司馬孚は夢中になって琴を弾いていた。やがて、声が聞こえて来た。


――叔達殿。ご無沙汰でございましたな。

「このところ忙しゅうございましたからな。ゆるりと琴を弾いている暇がございませなんだ」

――曹爽(そうそう)・・・でございますか?

「流石は高毅殿。何でもご存じだ」

――実体のないものでござれば、何処でどんな話でも聞くことができます。

「それは恐ろしい・・・迂闊に密談も出来ませぬな」

――話は聞けても、私には何もできませぬ。ただ、知っているだけです。

「こうして私と話をしている」

――左様なものは滅多にございませぬ。

「左様か」

――司馬懿殿は曹爽をどうするおつもりなのでしょう?

 魏の明帝が崩御し、その子、曹芳(そうほう)が後を継いだが、曹芳は僅か八歳だった。曹爽と司馬懿が後見として、曹爽が内政を、司馬懿が軍事を司ることになった。だが、曹爽は蜀への侵攻を主張し、戦には大敗したが、司馬懿から軍権を奪い取ることに成功した。曹爽は次第に皇帝をないがしろにするようになり、これに身の危険を感じた司馬懿は高齢を理由に官を辞した。

「曹爽の専横はひどくなるばかりだ。このままでは陛下の身さえ危うい」

――司馬懿殿は本当に老いられたのでしょうか?」

「兄者から使者が参った」

――ほう~して、どのような?

「高毅殿は私のお味方か?」

――私は誰の味方も致しませぬ。

「明日、陛下は高平陵に向かうそうだ」

 明帝の陵墓に参拝するのだ。

――曹爽が都を留守にする訳ですね。

「そのようだ」

――司馬懿殿のお加減はよろしいのでしょうか?

 少し前のことになる。曹爽一派の一人、李勝が荊州刺史に任命された。曹爽の命を受け、李勝は赴任前の挨拶として司馬懿邸を訪れた。司馬懿の様子を探る為だ。司馬懿が現れる。下女に両脇を抱えられ、だらしなく胸元をはだけ、李勝の前で薬を飲もうとしてぽろぽろとこぼしてしまった。

 くどくどと病状が思わしくないことを繰り返すだけで、李勝の言うことをほとんど聞いていなかった。屋敷を辞去した李勝は曹爽に司馬懿が長くないことを報告した。

 そういう噂だった。

「兄者は策が多い」と司馬孚が笑う。

 全ては曹爽を油断させる為の芝居であったようだ。

――それで、明日、どうなされるので?

「兄者は裏切れぬ。それに、陛下のお為だ」

――曹爽は帝位を望んでいるのでしょうか?

 曹爽は魏の宗室だ。

「望んでいたとしても不思議ではない」

――何を悩んでおられる?

「降りかかる火の粉を振り払うだけだと分かっております。ですが、我が一族が曹爽に取って代わっては同じこと」

――ならば座して死を待つのみ。

「それでは兄者に対して不忠、引いてはご先祖様に申し訳が立ちませぬ」

――そこまで分かっておるのならば、悩むことはありますまい。そなたがいれば、一族が曹爽となることはないでしょう。

「高毅殿。そなたと話が出来て良かった。腹は決まり申した。もう悩むのは止めることと致します」

 司馬孚は琴を弾く手を止めた。

 途端に声が聞こえなくなった。


 正月六日、曹爽一派が皇帝を引き連れ、都を出た隙を狙って司馬懿は兵を挙げた。宮中に参内すると、明帝の皇后であった郭太后に対し、皇帝をないがしろにし、私利私欲な政治を行ったとして、曹爽一派の排除を願い出た。兵を率いての恫喝に等しい。郭太后が同意したところを見ると、太后も曹爽の専横を苦々しく思っていたということだろう。

 郭太后の勅許を得ると、司馬懿は子の司馬師、そして司馬孚に宮城の制圧を命じた。さしたる抵抗もなく、宮城を制圧することに成功した。

 宮城外で、曹爽は皇帝を擁していた。皇帝を前面に押し立て、司馬懿との決戦に臨んでいれば曹爽に勝機はあったはずだ。だが、曹爽はそうしなかった。

 曹爽は戦わずして司馬懿に降伏した。

 司馬懿は曹爽を軟禁すると、謀反の疑いをかけて誅殺してしまった。

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