わたしの手の中にあったもの
美咲視点です。
山の空気は、少しだけ冷たかった。昼のはずなのに、光はやわらかく弱い。木々が重なって、空を細く切り取っている。
その隙間から落ちてくる陽は、細い線みたいに揺れていた。足元の土は湿っていて、踏み出すたびに、じわりと沈む。靴の裏に、まとわりつく。それでも、止まらない。
「……咲」
呼ぶ。
声は、すぐに木々に吸い込まれて消えた。
返事はない。
それでも、呼ぶ。
何度でも。
名前を。
奥へ、進む。
枝が腕に触れ髪に絡む。
白いブラウスに、土がつく。
気にしない。
気にしていられない。
ただ、探す、どこにいるのかも、わからないのに。それでも、足は迷わなかった。
まるで、誰かに導かれているみたいに。
ふと胸の奥で、何かが揺れる。
言葉じゃない、音でもない。
確かに感じる。
——ここにいるよ、と言われた気がした。
足が止まる。
視線が、自然と落ちる。
地面、そこだけ、わずかに違う。
土の色、盛り上がり方。
ほんの少しの違和感。
でも、目が離せなかった。
近づきしゃがみ込む。
手を伸ばす。
土に触れる。
やわらかい。
新しい。
(……ちがう)
すぐに、否定する。
そんなはずはない。
でも手は止まらない。
少しだけ、掘る。
爪の間に土が入り込む。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
そして、指先に触れる。
布のやわらかい感触。
震える手で、土を払う。
色が現れる。
——薄い、ピンク。
時間が、止まる。
そこにあったのは。
咲のワンピースだった。
最近、買ってあげたばかりの。
あの子が、うれしそうに回って見せてくれた服。
「かわいいでしょ?」
笑っていた顔が、浮かぶ。
あの光の中で。
きらきらと揺れていた。
その同じ色が。
いまは。
土の中にある。
「……ちがう」
声が、震える。
「ちがう……」
繰り返す。
何度も。
でも、現実は変わらない。
手に取る。
冷たく湿っている。
重い、その重さが。
すべてを、教えてしまう。
膝から力が抜ける。
その場に崩れる。
息が、できない。
視界が、揺れる。
それでも頭の奥で、何かが繋がっていく。
勇の言葉。
あの違和感、あの視線。
点だったものが、線になる。
「……うそ」
小さく、呟く。
そのとき、奥から音がした。
土を掘る音。
規則的な音。
しゃく、しゃく、と。
顔を上げ、立ち上がる。
ワンピースを握りしめたまま。
音のする方へ、歩く。
木々の間を抜ける。
視界が、開ける。
そこに、ふたりいた。
ひとりは勇。
そして、もうひとり。
同じ顔。
同じ姿。
同じ目。
“もうひとりの勇”。
その足元。
掘り返された土。
そこに、のぞくもの。
——髪。
やわらかい色。
見慣れているはずの、あの長さ。
それだけで。
すべて、わかってしまう。
声が、出ない。
時間が、止まる。
ただ、理解だけが進む。
「……見つけたんです」
気づけば、口にしていた。
「咲を!」
勇が、何か言おうとする。
でも、もう聞こえない。
聞く必要もなかった。
ワンピースを、強く握る。
胸の奥が、静かになる。
不思議なくらいに。
もう、泣けなかった。
「……大丈夫です」
自分でも驚くくらい、穏やかな声だった。
「ひとりに、しません」
そう思った。
ただ、それだけだった。
後ろへ、一歩。
崖の縁。
風が強く吹く。
髪が揺れる。
ワンピースが、ひらりと広がる。
あの子が笑っていたときみたいに。
同じ色が、空に揺れる。
勇の声が、聞こえる。
何か叫んでいる。
でも、もう遠い。
すべてが、遠くなる。
「……ごめんなさい」
それだけ、残す。
そして、足を離す。
身体が、軽くなる。
風に包まれる。
落ちていく。
その瞬間思い出すのは。
あの子の笑顔だった。
光の中で、ただ、笑っていた。
山は、静かだった。
風が、木々を揺らす。
それだけが、続く。
変わらない何も。
ただ、そこにあったものだけが。
もう、どこにもなかった。
それでも確かに。
あのとき、あの場所で。
わたしの手の中に、あった。




