第39話 記憶を“消した”理由
翌朝。
起きて、支度をして、いつも通り外へ出る。今日は図書院のアルバイトの日だ。
昨日あんなことがあった後でも、生活は止まらない。もちろんレオンさんには止められたけれど、「大丈夫です」と押し切って、半ば無理やり出勤した。
図書院に着くと、カウンターの向こうで同僚のカリナが書類の山に埋もれていた。
「あ、ミナ。ちょうどよかった」
「おはよう。相変わらず大変そうだね」
「大変なんてもんじゃない」
カリナは私の返事を聞くより早く、封筒と札のついた箱を二つ、どん、と机に置いた。
「悪いんだけど、これ。王宮の公文書館に届けてほしい」
「全然いいよ。外に出る用事って、仕事の時間が短く感じるから好きなんだよね」
「私は寒いの苦手だから、中で仕事してる方が好き」
「王宮まで、ここからすぐだよ?」
「そう言ってくれると思った。だからミナに頼んだの」
(つまり、私が断らない前提で押しつけたな)
「はいはい。任せて」
口では軽く返したものの、最後に王宮へ行ったのは――地下へ忍び込んで本を探したとき以来だ。胸の奥が、ほんの少しだけ落ち着かない。
カリナは私の顔色など気づきもしないまま、さっさと説明を続ける。
「行き方は分かるよね。手続きはいつも通り。納品確認のサインをもらって戻ってきて。箱も一応、封はしてあるから」
「了解。……箱、重くない?」
「うん。たぶん」
「たぶんってなに」
カリナは肩をすくめるだけで、もう視線は書類に戻っていた。
「それと、帰ってきたら声かけて。あとでご飯行こう」
「分かった。じゃあ、いってきます」
封筒を懐にしまい、箱を抱える。
そして私は、王宮へ向かった。
王宮。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
広い。白い。高い。
人の足音ですら、少し遅れて響く気がする。
(何回来ても迷いそうになる)
案内されたのは、図書院の納品で何度か来たことのある公文書館だった。
受付で納品書を出し、箱を運ぶ。
「こちらで確認いたします。少々お待ちを」
公文書館の職員が封を確かめ、内容物と照らし合わせていく。私はその横で背筋を伸ばして待った。
(早くサインもらって、カリナとご飯――)
そう思った瞬間、視界の端に見覚えのある姿が入った。
「義姉様?なぜここに?お久しぶりです!」
第二王子のアレクだ。
(義姉様……?)
「お久しぶりです。仕事で、こちらに少し用があって――」
アレクは納品箱を見るなり、目を輝かせた。
「ああ、届いたんですね!よかった!それ、実は私が図書院に依頼した本なんです」
「そうだったんですね。……じゃあこちら、どうぞ」
箱を差し出すと、アレクは受け取りながら、どこか懐かしむように私を見た。ふっと目を細める。
「ありがとうございます。……それにしても、義姉様が王宮にいらっしゃるのは久しぶりですね。ここでまた会えるなんて、正直嬉しいです」
「嬉しい……?」
頭のどこかが、かすかに揺らいだ。
「だって義姉様、王宮が嫌いだったでしょう」
「え?」
「ああ……義姉様は記憶を失われているんでしたね。すみません」
あなたのお兄さんに記憶を消されたから何も覚えてない、と言いたいところだけど我慢だ。殿下がどこまで知ってるかも分からないし、黙っておこう。
アレクは、悪びれた様子もなく続ける。
「それに、義姉様が働いているとは正直驚きです。兄上も変わられたなぁ。……あ、別に悪く言ってるわけじゃないですよ?兄上は少し厳しいところはありますけど、本当に頼りになる方ですから!」
(レオンさんのこと、嫌ってはいないのかな。王族の兄弟って、もっとギスギスしてるイメージだったから意外だ)
「兄弟、仲がいいんですね」
当たり障りのない返事をしたつもりだった。
「仲がいい……?」
アレクの笑みが、ふっと消えた。
周囲の音が急に遠ざかる。
「たしかに兄上が死ねと言えば、私は死ねますね」
冗談めかした調子じゃない。
声の温度だけがすっと落ちて、目だけがこちらをまっすぐ見ている。
そして彼は一歩近づき、私の耳元へ唇を寄せて囁いた。
「ああ、そうだ、義姉様。兄上はなぜあなたの記憶を書き換えずに、『消した』と思いますか?」
「え……?」
「なんだ、まだ分かってないのかあ。まあ、兄上が以前とは変わったとはいえ、どうせ逃げられないんだし。無駄なことは考えないのが一番だと思いますよ」
(な、なに?さっきと雰囲気が全然違う……)
怖い。そう感じてしまった。
「あはは。今のは、いろいろ言葉が悪かったですね」
次の瞬間、張りつめた空気を自分でほどくみたいに、アレクは肩をすくめた。
そして何事もなかったように、さっきまでの人懐っこい笑顔へ戻る。
(今の、冗談には見えなかった。悪い人じゃないとは思うけど……腹の中が見えなくて、怖い)
「では、私はこの資料を使って仕事に戻りますので!義姉様もお仕事、頑張ってください」
「あ、ありがとうございます」
笑おうとしたのに、頬がひきつるのが自分でも分かった。




