第九章•導き㊃
瞼を閉じた闇のなかーー王は、部屋にいる二人の人物が、短く息を吸う音を、耳に聞いていた……。
やがて……光の消え失せた瞳が、力なく、開かれる……。
〈ガンダ国〉の王は、天窓から差す陽光が、白く光を落とした床を見つめ、語り出すのだったーー
「私には、兄上の他に、もう一人血のつながった兄弟がいる。ーー私の、双子の弟だ。 ナダは、私とは反対側のーー〈リグターン〉から、南にいったところにある、〈ラッタ国〉を治めている。 我々三兄弟の父上はかつて、今となってはこの三つの国がおさまる、広大な領地を統治した、それは偉大なお方だった。 その父上が、早くに亡くなった母上と同じく、突然の病でこの世を去ると、すべてが一変した……。 必然的に、残された三人の息子たちが、あとを受け継ぐことになったのだ……」
ダダ王は、言葉を繋ぎながら、胸の内にある、さまざまな感情と……闘っているようだった。
「兄上と、下の私たち双子では、齢が十離れている。 父上が亡くなった当時の私とナダは、まだ成人ノ儀を終えてから、数年の時が経ったばかりの、あまりにも未熟な若者だった。 定められた流れというもので、年嵩である兄上が、すべての実権ーー采配を握りーー私は北の地へ、弟のナダは南の地へーーそれぞれわかれて、新たな国を治めることになった」
ジェラ、そしてビクもーー今や王の語る話に、引き込まれるように……黙って耳を傾けていた。
「私は、北の地を、新たに〈ガンダ国〉と名付けた。
そしてーー〈月の民〉と呼ばれる、彼らに出会った。 それまでも、〈シシン族〉の存在、彼らの伝説や噂は、耳には聞いて知っていたが、初めて彼らのすがたを目の当たりにしたとき、私は驚き……感銘を受けた……」
そのときの記憶が、王のなかに、鮮明によみがえっていることがーー流れた間に、伝わるのだった。
「彼らはみな、まるで月の輝く夜空の色をした、とても美しい髪をしているんだ。 〈月の民〉は、北の地が支配を受ける前、はるか昔にさかのぼり、厳しい北の大地に、先住民として、強くたくましく生きてきた。 父上の時代には、互いの存在を認めたうえ、深い関わり合いをもたぬことでーー王国側は彼らの領域を荒らさず、決して踏み入らないことーー彼らは王国に属することを認め、表には王国側の領地となることを条件に、両者の均衡が保たれていた。
しかし……王となった私は、彼らとどうしても、今までにはなかった関係を、築きたかった。 なぜなら、〈ガンダ国〉には、〈月の民〉の力が必要だったからだ。 私は時をかけて、少しずつ……互いの絆をつくり、父上の時代にはなかった関係を、築き上げてきたつもりだった……」
王の掠れた声が、消えていく……
「あんたの許されねぇ裏切りで、自らそれをぶち壊した」
重い沈黙にーービクの容赦ない声が、放たれた。
王の手が、きつく拳となって、震え握られる……。
「あんたのしたことは、間違いなく許されねぇ。だから、あんたの味方をする気はさらさらねぇ。ーーけど、俺の目が狂ってなけりゃ、あんたが理由もなしに、国を売るようなことをするとは思えねぇ。恐ろしい兄貴が関わってるなら、なおさらのことだ」
ダダ王は、しばらくの間、黙して俯いていた。
やがて……静かに顔を上げると、乾いた唇を、解くのだった。
「今となっては……すべてが……意味のない、醜い弁明だ……」
煩悶を映した王は、苦しく言葉を絞り出すように……続けた……
「北の大地は、私の想像をはるかに越えて、それは厳しいものだった……。 なぜ父上が、北に一番広大な領地をもちながら、ひとつの要塞城を築くだけで、ほとんどを手つかずにしていたか……あとを継いだ私には、すぐにわかった……」
王が、深く息を吸う……
「〈ガンダ国〉では、もとから地にある植物のほか、新たに植えようとするものは、ほとんどが芽を出さない。 厳しい環境とーー特殊な土壌ーーこの二つがあいまり、人の食する作物をつくることが、限りなく不可能に近いのだ……。 そのなかで唯一、私が希望を見出したのが、〈月の民〉が古くから育てている、〈マーン〉の存在だった……」
「〈マーン〉?……」
ビクが太い眉を寄せて、繰り返すのだった。
「君たちは、〈マーン〉を知らないのか?」
王の驚きを含めた言葉に、ビクがジェラへ視線を向けるーー相棒が小さく首を振るのを見ると、再び黒い瞳が、相手を見据えた。
「俺たちは知らねぇな」
ダダ王はしばしの間、なにか考えるように黙していたが、やがて、微かに頷いた……。
「この〈リグターン〉には、あらゆる国々からの品が集まってくる。 君たちが知らないのも、無理はないのかもしれない」
王は静かに言うと、言葉を継ぐーー
「〈マーン〉は、〈ガンダ国〉で生まれ育つ、固有種の羊のことだ」
「羊……」
つぶやいた、ジェラの脳裏へーーその動物のすがたが、浮かび上がる……。
「特徴的な黒い顔と、大きな体に、分厚く上質な毛をつける。〈マーン〉は、厳しい北の大地に生まれ生きることで、雌からとれる乳は濃厚にーーその肉も、甘みのある脂がのった、この上ない味になるんだ」
「そいつを、〈月の民〉のやつらは、昔からずっと育ててたのか」
ダダ王は、頷いた。
「彼らは〈マーン〉を、祖先たちから受け継ぎ、絶やすことなく、自分たちの生きるすべとして、大切に育て続けてきた。〈マーン〉のえさになる草は、〈ハラキ〉という、寒さに丈夫な草で、この草は〈ガンダ国〉に、一年を通して多く生えている。彼らはそうして、大切に育てあげた〈マーン〉を、必要になった分だけ、命をいただき、肉も皮もーー毛も骨もーーそのすべてを、一切余すことなく、見事に使い切るんだ」
言葉を切った、王の顔がーー悲愴の影に、沈んでいく……
「私は……彼らの〈マーン〉こそ、北の国の閉ざされた運命を開く、希望の鍵になると……そう信じた……。 長い時……多くの困難を乗り越え……ようやく、彼らと共に〈マーン〉を、〈ガンダ国〉の名産にすることができたんだ……」
微かに震えた、王の声から伝わるものに、ジェラは胸が、ぎゅっと苦しく締め付けられるのだった……。
「羊の話はわかったが、だったらなおさらのこと、それがあんたの裏切りと、どう関わるのかわからねぇ」
ジェラが目を向けると、ビクは鋭い眼差しに、真っすぐ王を見据えていた。
王の唇が噛み締められ……握られた拳に力が入る……
「〈ガンダ国〉は、国の現状……〈マーン〉という、唯一の産物だけで、成り立っている……。確保できる数自体も、まだまだ少ない……。 だが……国で暮らす者たちはみな、貧しさに飢えることも、過酷な冬場、凍てつく寒さに凍えることもなく、安寧な日々を送れている……。 それは……なぜか……」
王の息を吸う音が、部屋に大きく響き渡る……
「それは、兄上の率いられるこの帝国が、輸出する〈マーン〉すべてを、破格の高値で買い取り、事実上ーー北の一国を、支配国として、底から大きく支えているからだ」
冷たいしじまがーー部屋を押し包む……
「……つまり、あんたも、あんたの国も、すべては、〈生ける神〉の手に握られてるってわけだ。 血も涙もねぇ、恐ろしい兄貴に逆らえば、〈ガンダ国〉は一巻の終わり。 命令されれば、従うしかない。 そういうことだろ」
低く唸るような声で、ビクが放つのだった。
息苦しい沈黙が支配するーーダダ王がゆっくりと、口を開いた。
「〈ムー〉の知らせを聞いたのは、新たな取引国を訪れて、帰国した、すぐあとのことだった……。 私の王として弱さ……あってはならぬ迷いが……取り返しのつかぬことを、生んでしまった……」
己を責め苛む、王のすがたーーそのすぐ後ろに見える、美しい〈神獣〉のすがたをーージェラは、胸の張り裂けるような思いに、見つめるのだった……
運命とは……どうしてこんなにも……残酷なものなのか……
「南に飛ばされた弟のほうも、兄貴に支配されてるのか」
ビクの声にーー王は疲れ、やつれたような顔を上げた。乾いた唇を湿らし、口を開く。
「ナダの国は、南の温暖な気候をいかして、たくさんの作物を育てている。そのなかには、〈メーシュ〉という、黄金色の実をした、とても貴重な果実もあるんだ」
(黄金の実……)
ジェラは、頭で想像してみても、そのすがたを、思い浮かべることができなかった。
「ナダの国は、彼の手腕も合わさって、すでに大きな軌道にのり、たとえ兄上の手を振りほどこうとも、十分にやっていけるだけの、国力を備えている。 だが……ナダはいまだに、〈ラッタ国〉でとれる多くの作物を……貴重な〈メーシュ〉までも、この〈リグターン〉に、納めているんだ……」
「弟のやつも、あんたに同情してるんだな」
ビクが、遠慮のない声で言う。
「あんたには悪いが、今の話を聞いてはっきりわかった。やっぱり、北に飛ばされたあんたが、一番の不幸者だ。だってよ、南と北だーーどう考えたって、北のほうが断然不利だろ」
青年の放った、あまりに露骨な言葉に、王の顔がはじめて、苦笑に緩むのだった。
「兄上は昔から、どちらかといえば私より、弟のナダのほうを好かれていた。 けれど私は、たしかに多くの苦労はあろうが、北に行ったことを、後悔したことはない。 それに……ナダがそうする理由も、きみの言った同情とは、また少し違うように思えるんだ」
ダダ王は、短い間をあけて、言葉を継ぐーー
「なんというか……私たちは、生まれた瞬間から、一緒だった。それは、母上のお腹のなかにいるときからだ。顔が似ているのも、もちろんあるが……たとえ身体に二つにわかれても、同じことを思う……感じとる、心をもっている。……相手も、まるで自分の一部のように、思えるんだ。 こればかりは、言葉で説明するのが難しいな」
ダダ王は、眉間に皺を寄せている青年を見て、横広い額を、手で擦るのだった。
「全然わからねぇ」
「うまく伝えることができず、申し訳ない」
「私は……」
二人の視線が、ジェラへ向くーー
「わかるような気がします……」
澄んだ瞳が、少女を見つめ、やわらかな光を帯びた。
「ありがとう」
ジェラは、はっと我に返ると、急に恥ずかしくなり、慌てて顔を俯けた。
深閑とした部屋のなかーー静かな、王の声が響く。
「国は離れ違えど、ナダの存在が、私の心をいつも支えてくれている」
「おっかねぇ兄貴とは、えらい違いようだな」
棘を含んだ、ビクの声が消えるとーー長い沈黙が、流れるのだった……
「私は時折……怖くなる……父上と母上、どちらの血が、そうであったのだろうと……そして……自分の身にも、兄上と同じ血が流れていると思うと……どうしようもなく……恐ろしくなるんだ……」
王はまるで……心の奥深くにある声を、曝け出すように、つぶやくのだった……
その手が、広い両肩に纏われた、立派な〈銀灰色の毛皮〉に触れるーー
「この〈毛皮〉は、私にとって、とても重く……大切なものなんだ……」
ジェラは、〈城〉ではじめて、ダダ王のすがたを見たときから、鼻にーー目にーー強く印象に刻まれた、光沢のある美しい〈毛皮〉を、改めて見つめるのだった……。
「そいつは、狼の毛皮か?」
ビクの声に、王が頷くーー
「〈ガンダ国〉にかつていた、〈ルロン狼の毛皮〉だ」
王は言うと、視線を檻のなかへ向ける。〈神獣〉と王の瞳が、見交わすのだった。
「〈ムー〉は、私ではなく、この〈毛皮〉に、反応してるのだろう……。 上古の世、〈ムー〉に仕えたものたちは、この〈ルロン狼〉の祖先たちであったと、〈月の民〉が言っていた……」
「かつてって、今はもういないのか」
王は、なにも答えなかった。
エメラルドグリーンの瞳を見つめたまま、しばらく、無言の時が流れるのだった……
「私には今、心から信頼する、一人の側近がいる」
静寂のなかーー王の声が響いた。
「ゾンという名の男で、生まれた場所こそ違うが、同じ齢である私たちは、表にある身分を越えて、艱難辛苦を共にしてきた、腹心の友でもある。
だが……かつてはもう一人……私が、このゾンと同じく、心から信頼をしていた側近がいた……」
それから語られた話はーー二人に、さらなる衝撃を、もたらすのだった………
ダダ王にはかつて、今も側近を務めるゾンの他に、ザッカという、もう一人の側近がいた。
二人は、〈ガンダ国〉ーー〈リグターン〉ーー〈ラッタ国〉の東に茫洋と広がる、〈ミレー海〉を越えて、さらに東の地へいった、〈アクリア〉という国の出であった。
またこのザッカとゾンは、互いの父親が兄弟である、いとこ同士でもあった。
ザッカは、ダダ王とゾンよりも、齢が八つ上で、王にとって、実務のみならず、精神的にもまた、とても頼りになる側近でありーー同時に、実の兄がいながらも、もはや埋められぬ深い溝を抱えたダダ王にとっては、不思議と優しい兄のような……あこがれの気持ちをもった、そんな存在でも、あったのだった。
そして、ザッカには、〈ガンダ国〉で出会い、のちに結ばれた妻ディディネと、その妻との間に、まだ幼い一人娘のエネアがいた。
すべてのはじまりは、その愛する妻が、深刻な病に罹ったことだったと……王の苦しい声は、告げるのだった……。
当時の〈ガンダ国〉では、もはや手のほどこしようがなく、やってくる死を、ただ待つしかないという、家族にとっては、あまりに酷く、辛い現実だった。
そして……そんなとき………
絶望の淵に立たされた男のもとへ、おぞましい〈魔物〉は、擦り寄り現れた………
ーー『国にいる、〈ルロン狼〉の密輸に協力すれば、死の床にあるおまえの妻を、新たなる医術で治してやろう』ーー
〈魔物〉はーーザッカに、こう囁いたのだ……
ザッカは、ただ愛する妻のため……まだ幼い、娘のため……誰にも打ち明けられず……それは、想像を絶する思いに、己の魂を売った。
それからのザッカは、決して人目に触れぬよう、最後まで、完璧に隠し通しながら、国にいる〈ルロン狼〉たちを、片っ端から捕らえていき、〈魔物〉に差し出していった。
ザッカの狩りの腕前は、彼の天賦の才に、他に誰も真似できぬほど、それは抜きんでて、見事なものだった。
ダダ王自身も、たくさんのことを彼から教わり、初めて、自身の手で仕留めた獲物が、最初で最後となるーー今纏う、〈毛皮〉だった……。
そしてーー半年が経ちーー北の大地に、古くからいた、美しい毛並みの〈ルロン狼〉たちは、一匹残らず……すがたを消した……。
ザッカと、その家族の、陰惨な屍が見つかったのは、それからすぐ……まもなくのことであったと……ダダ王は、震えた声に、締めくくった……。
部屋のなかが、薄暗くなるーー雲が陽を遮り、天窓から差す光が消えた。
ジェラは、身体中が冷くなり……両手で腕を掴む……。
息苦しい沈黙にーー低い声が通る。
「どうしてあんたが、そのことを知ってんだ。 そのザッカって男は、王であるあんたまでも裏切って、そのあげく、用済みになったあと、口封じのために、家族もろとも殺されたわけだろ」
〈神獣〉のいる檻に背を向け、俯かれていた王の顔が、ゆっくりと上がる……
「ーー犬だ」
「犬……?」
「狩りをするザッカの横には、いつも相棒であるガーモスがいた。 ザッカは、ガーモスを、家族のように大切に、愛情をかけていた。……〈魔物〉たちのしくじりは、ザッカが育て上げた、この賢い猟犬を、見くびっていたことだろう……」
王の歯が、強く食いしばられる……
「ザッカは、〈魔物〉の要求を果たし終えたあと、その真のもくろみを、悟った……。しかし……すでに時がないことも、わかっていた……。そこでザッカは、この賢い相棒に、すべてを記した手紙を、託したのだ……」
「その犬が、あんたのところへきて、闇に葬られるはずだった真実を、伝えたってわけか……」
低く放たれたビクの声に、王の苦悶の顔が、頷かれる……。
「……手紙は、ガーモスの首輪につけられていた……。 ガーモスは、主人の最後の命を果たしたのち、私たちを……ザッカのもとへ……家族の……埋められた場所へ……導いてくれた……」
今もーーこの先もーー決して消えることのないーー生々しい記憶に……王の瞼が、震えながら閉じられる……しずくが頬を伝い……髪色と同じ髭のなかへ消えていく……
「王という立場にありながら……私は……なにひとつ……できなかった……大切なものを……守ることができなかった……すべてが終わったあと、真実を知り……それなのに今も……仇を討つどころか……同じ過ちを繰り返している……」
目を開けた王は、静かに深く息を吸い……指で頬を拭う。
「ガーモスは今も、城でザッカの帰りを待っている。……もう、かなりの老齢で、今年の冬を越すのは、厳しいだろう。動くことも、ほとんどできなくなったが、ザッカがいつも使っていた、狩り用のマントの上から離れず、待ち続けているんだ……」
鼓膜を圧迫するような沈黙にーー心の叫びが、放たれる……
「決して許されぬこととわかっていて……それでも私は……私は……兄上を……この手で殺してやりたいと思った……!」
••••••••••••
ジェラの鼻がーーぴくっと動く……
ビクも、同じものを感じたのか、二人の視線が同時にーー一点を、捉えるのだった。
「血が……」
ジェラの声に、俯かれていた王の顔が、はっとその先を見るーー
左手の拳から、一筋の赤い血が、ぽたっ……と、床へ滴り落ちた。
「おいっ……ケガしてるのか」
ビクの声が走る。
「これぐらい大丈夫だ。心配ない」
ダダ王は、落ち着いた声に言うと、左の袖をーー捲り上げるのだった。
切り裂かれた布と思われる、即席の包帯が現れーー肘のすぐ下の部分に、ぐるりと巻かれていた。白い布は、傷口から滲んだ血で、真っ赤に染まりーーその緩んだ隙間から、指先に向かって、細く血の流れが伸びていた。
「おいおい……すげぇ血じゃね……え……か……」
勢いよく放たれた、ビクの声がしぼんでいく……。黒い瞳が、驚きと共に、目の前に映る光景を見つめた。
ジェラがーーそれは、自分でも驚いたことに、考えるより先ーー王のもとへ、さっと駆け寄っていた。
一瞬、我に返ったジェラは、動きを止めたーーが、すぐに、目の前にある腕へ、そっと手を伸ばしたーー
だが、王が腕を引くのだった。
「血で汚れてしまう。私が自分で……」
「大丈夫です!」
再び、自分でも驚くほどの声に、ジェラは慌てて、頭を下げるのだった。
「すみません……。でも本当に、大丈夫です。……清潔な布もあるので、早く巻き直しましょう」
ジェラは、向けられた視線を気まずく感じながらも、腰にある大きなポケットから、白い薄地の、畳まれた布を取り出した。ーー街で、持っていればなにかと役立つだろうと、手に入れていたものだった。
「……わかった。 手間をとらせて、申し訳ない」
ダダ王は言い、頭を下げると、ケガをした左腕を、少女の前へ出すのだった。
ジェラは、冷たい指先まで緊張が伝わるなかーー血で汚れた布を、慎重に……外していく……。
その様子を、黙って見ていたビクが、口を開いた。
「その傷、ジェラをつけて、ここへ来るときにやったのか」
ダダ王が、頷いた。
「ずっと北の地にいるせいか、ここはどうも、私には少し暑く感じる。緊張もあっただろうが、いつもの癖で、つい無意識のうちに、腕を捲ってしまっていたみたいだ」
ダダ王は、反対の右手を、腰にある革袋へのばすと、中から刃物で裂かれた白いマントの残りを、取り出すのだった。
「〈城〉を抜けるあいだ、こっそり借りていた上級兵士のマントを、このすがたに、だめにしてしまった」
「そんなもん、あいつらにとっちゃ屁でもねぇ。 新しい包帯をつくるから、こっちへかせ」
不機嫌な顔に、冷ややかに言ってビクは、マントを手にすると、窓際へ行き、自分の短剣で裂け目を入れ、〈ムー〉を驚かせた大きな嫌な音に、引き裂くのだった。
ジェラが、そっと当て布をはがすと、傷口が現れた。ーー思っていたより、ひどいようではなかったが、まだ完全に血が止まっていないところを見ると、なるべく早く、ちゃんとした処置を受けたほうがよさそうだった。
ジェラは、自分の布を、畳んだ状態のままそっと傷の上に当て、ビクから受け取った、新しい包帯代わりのマントの布を、ぐるぐると巻くーー
そのときーーふと、ダダ王が口を開いた。
「そうだ……あのフェンス……」
ダダ王はつぶやくと、開かれた瞳に、強い光を浮かべて、傍に立つ、少女のすがたを見つめた……
「私はたしかに……君が、あの高いフェンスを飛び越えるところを、この目で見た……。私には……とても真似できなかった……。それで、少しでも脆くなったところを探して、蹴り破ってきたが……そこを通るとき、腕をケガしたんだ……」
王の視線が、固まっている少女を離れーー近くに立つ、青年へとまる……
「もしかしてきみも……あのフェンスを、飛び越えられるのか……」
ビクはなにも答えず、黙ったままーーじっと、相手の顔を見据えていた。
静まり返った部屋のなかーー突然、眩しいほどの陽光が、天窓から差し込むーー
ビクは見上げ、小さく鼻を鳴らした。
「弟のやつが言ってたことを、思い出した。 〈運命〉と〈宿命〉は違う。 〈宿命〉は、人間として生まれること、人間が殺し合うことーー絶対に変えられねぇ。 けど〈運命〉は、変えることができるんだと。 あんたがここへやってきたのも、それなのかもしれねぇな」
「〈運命〉……」
ダダ王が、つぶやく……
黒々とした眼差しが、王のすがたを、真っすぐに捉えるーー
「俺たちが一体何者かーー今度は、あんたに聞いてもらう」