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第九章•導き㊂

ジェラが最後の一口を飲み込み、とっくに食べ終えていたビクが、眠そうに腕を伸ばして、大きなあくびをみせたときーー突然、二人の動きが、ピタリと止まった……。

互いの顔をさっと見やると、二人の視線は同じ先へーー部屋の扉へと、向けられる。

扉の外からーー微かな音が、聞こえてきたのだ。

束の間の和やかな雰囲気は、一瞬にして消え去りーー部屋中が、張り詰めた緊張に……襲われる……。

この場所を知っている者は、ごく限られているはずだった。

だとすればーーミゲか……駒の兵士か……それとも、〈キューア〉のメンバーの誰かか……。

はたまた、人ではなくーー森にいる、生き物だったのかもしれない……。

二人は、音もなく立ち上がると、再び同時にーー背後にある、巨大な鉄檻を見た。

〈ムー〉は相変わらず、警戒した様子も見せずに、床にその身を下ろしていた。

すぐに行動にでたのは、ビクだった。

二つの木の腰かけを手に持つと、音を立てず静かに、すばやい動きで、部屋の隅へよけるのだった。

そして、板で塞がれた窓辺へ行くと、大きなランプののる台にある、黒い鞘の短剣を、手に取った。

ジェラの心臓がーー冷たく打つ……

柄に、細かな彫り模様と、美しい青の宝石があしらわれた短剣は、つい最近ビクが、もしものときのためにと、護身用に、手に入れていたものだった。

ビクが黒い鞘から、研ぎ澄まされた刃を抜きとるーー銀色の光が、冷ややかに放たれた。

その場に、凍りついたように立ち尽くしているジェラへ、ビクが強い眼を向け、小さな身振りで、指示をだすーー

(もっと……下がれ……)

ジェラは、激しく打つ鼓動が全身に響くなか、受け取った指示に、なんとか頷き、動き出した……。

足も手も……ひどく震えていた……。

音を立てないよう、慎重に下がっていきーー背中へ、鉄格子の硬くヒヤリとした感覚が触れるところまで、下がっていくのだった。

(……大丈夫……大丈夫……)

心のなかで、何度も繰り返す……

ビクは、相棒が下がるのを見届けると、鋭い短剣を手に、扉から少し距離をとって、その正面へと身構えたーー

その間にも、扉の外から聞こえてくる音は、さらにはっきりとしーーもはや、何者かの人間がやってこようとしていることは、疑いようがなくなった。

一瞬……音が途絶えたーーと、息を殺したしじまにーー二人の視線の先にある鉄扉へと、手をかける、不気味な音が響き渡った………


ビクの後ろすがたに、ぐっと力が入る……


(……くるっ……!)


ゴクンっ……と、飲み下した生唾の先ーー両開きの扉の片側が、ゆっくりと……開かれていく………

外の新鮮な空気がーー流れ込んでくるのだった。

ジェラの瞳にーー変化がうまれる……

(この匂い……)

鼻腔へ届いた、強烈な匂いに、瞬間ジェラの脳裏へーー一つの顔が、浮かぶのだった……

刹那ーーまさに同じすがたが、視線の先へ、現れる……


頭のてっぺんできっちりと結ばれた、濃い赤茶の髪ーー体格のよい、幅広い肩に纏われた、立派な〈銀灰色の毛皮〉ーー


ここまでーーわずかな時のあいだに、ジェラはそれまでの恐れが、すーっと潮を引くように、消えていくのだった。

二人の先へ現れた男は、いつでも抜き取れるように、腰に携えた剣の柄へ、右手をあてていた。

だが、目の前に立ち構えた、ありありと敵意をむき出しにした、青年のすがたを捉えると、柄をさっと握り、力が込められた……が、剣を抜き放つ直前ーー男の視線が、目の前にいる青年から、部屋の奥ーーもう一人の少女へと移るーー

男とジェラの瞳がーー二度目に、真っすぐ結ばれた………

男の長靴が、前へ出るーーそのとき、荒々しい声が打ち破った!

ジェラが驚いて見ると、背を向けたビクが、光る短剣を宙へ振り上げ、目の前にいる男へ、一直線に向かっていくーー!

ジェラの全身にーー戦慄が駆け抜けた!

(〈毛皮〉!……この人が、〈ムー〉を狙いにきたと思ってる……!)

不意をつかれた男は、それでも、咄嗟に腰にある剣の柄を握り直すと、見事な動きで抜き放つーー

冷ややかな音と共に、長く美しい刃が閃いた。

それは、向かってくる短剣とは、比べ物にならない、まさしく、本物の剣だった。

ジェラは、必死に声を出そうとするが、恐怖に喉が固まって、声が出ない。

今まで……味わったことのない恐ろしさが、ジェラの身を襲った……

そして……ついに二つの刃が、火花を散らそうとしたとき……!


ウロォォーーーーーーンン••••••


ぎゅっと閉じられた、ジェラの瞼が……恐る恐る……開かれる……

怯えた瞳に映ったのはーー二人の男が、互いの刃が触れる寸前ーーそのまま時が止まったように、固まったすがただった……

部屋にいる誰もが……呆然としていた……

そのままどれくらい、時が経ったのかーー最初に動いたのは、やってきた男だった。

目の前にいる青年を、震えた手で押しのけると、血の気の消え失せた、蒼白な顔でーー一歩ずつ……足を進める……

そのすがたはまるで……亡霊を目の当たりにしたように……驚きと恐れとが、異様なまでに張りついていた……


「こ……これっ……これはっ……!」


戦慄く声が、静寂に響き渡るーー

下ろされた手に、握られていた剣がーーするりと滑り落ち、床を鳴らす。

ビクとジェラの視線もーー巨大な鉄格子のなかへと、向けられるのだった……

〈ムー〉は、白銀に輝く、美しいからだをーーすっくと立ち上げていた。

そのすがたはまさしく、ビクとジェラがこの部屋で、初めて〈神獣〉のすがたを見たときと同じーー息をのむ……光景だった……

二本の純白の角の下ーーエメラルドグリーンに光る目を、じっと目の前の相手へ向けている。

「……こいつの声を、初めて聞いたな」

ビクが、つぶやいた。

男の顔が、ぱっと背後へ向けられる。

しかし、ビクはそれに構わず、おもむろに窓際へ歩いていくと、台に置いてあった黒い鞘をとり、短剣を納めるのだった。

そして、強い眼光にーー男の顔を見据える。

「あんたが、本当に俺たちの敵じゃないなら、その証明に、剣をよこしな」

ビクの視線が、男の足下に落ちている、長く美しい剣を示した。

男は、相手の視線をそらすことなく、真っすぐに見返していた。ーーゆっくりとした動きに、床にある剣をひろう。

ジェラの激しい鼓動の先ーー手を切らぬよう慎重に、鋭い刃をもつと、青年の方へ、独特な模様が彫られた柄を、差し出すのだった。

万が一ーー相手が、握った剣の柄を前へ出せば、その瞬間男の身に、鋭い切っ先が突き抜ける。

だがーーあえてこうしたかたちをつくることで、男は敵意がないという証明を、自身の身をもって、示してみせたのだ。

ビクは、ゆっくり男に近づいていくと、差し出された柄をとる。再び台へ行き、短剣と並べて、置くのだった。

「どうやらあんたは、〈ムー〉を狙いにきたわけじゃないんだな」

ビクの低い声が響く。男は真剣な眼差しに、相手を見据えた。

「ああ……」

顔色はまだ青ざめ、額にはびっしりと汗が浮いていたが、いくらか、落ち着きを取りもどしたようだった。

ジェラが、口を開こうとしたときーー再び、ビクの声が通るーー

「最初に言っとくが、ここへきて、これを見た以上、あんたの身の安全は保障できない。 まぁ、ずいぶんと立派な剣を持ってるところからすると、余計なお世話かもしれねぇけどな。 それでも、もう一度言っておく。 あんたはやべぇやつを敵にまわしたと、そう思っておいたほうがいい」

言葉を切った、ビクの視線がーー檻のなかにいる、〈神獣〉へ向けられる。

「あんたが、どこのどいつかは知んねぇが、〈ムー〉のやつは、珍しく興味があるらしい」

ビクの声が消えるとーー部屋のなかに、深い沈黙が訪れる……


「君たちは……一体、何者なんだ……。 なぜ……〈ムー〉のことを知っている……。 なぜ……この場所に、〈ムー〉と共にいるんだ……」


緊迫した声が、響くのだった。

ビクとジェラの視線がーー合わさるーー

黒々とした瞳が、男へ向けられた。

「あんたもやっぱり、〈ムー〉のことを知ってんだな」

一旦は静まった、警戒の色が、低い声のはしばしに滲む。

すると、相手は、澄んだ茶の瞳に、ドキリとするような光を映して、青年のすがたを、捉えるのだった。


「知ってるもなにも……〈ムー〉は、私の国にいたんだ……」


重苦に駆られた、絞り出すような声ーー部屋の空気が、固まった……

開かれた二人の目がーー襲った驚愕をありありと、表していた……。


「……ちょ……ちょっと待てよ……それ、どういう意味だ……」


沈黙をーービクの上擦った声が、破るのだった。

視線の先にある男の顔は、苦痛に、噛みしめられていた。


「〈ムー〉は、私の国に古くからいる、〈月の民〉と呼ばれる、〈シシン族〉のあいだで受け継ぎ、彼らの〈神〉として、崇め奉られてきた〈神獣〉だった」


ビクとジェラの瞳が、はっと見開かれる……


たった今繋がった、一つの真実はーー口にするのもおぞましい、不穏な言葉だった……


「奪われたんだな……」


強張り、息を詰めた二人の先ーー男の顔が、頷かれる……。

刹那、ジェラの脳裏へーー〈城〉での光景が、よみがえるのだった……

(だからあのとき……)

ミゲは、すべてを知っていてーージェラと男が出会うのを、阻止したかったのだ……。

冷たく血の気が引いていく、ジェラの耳にーービクの声が通る。

「あんたの話だと、その〈月の民〉ってやつらのあいだで、〈ムー〉がまるで何百年と受け継がれてきたような感じだったが、するとこいつは、そんなにも長い間、このすがたで生き続けてるってことか……」

男が答えるまでに、長い間が、あくのだった……

血色が失われた唇が、静かに解かれる。


「彼らの聖域で、私が見たとき……〈神獣〉は、仰ぎ見る岩にはまる、巨大な〈氷塊〉のなかに、眠っていた……」


息をのむ音のほかーー一切の音が、部屋から消え失せた……

(……〈氷〉……)

ジェラは、初めてこの部屋へきた日ーー心の内へ浮かんだ、そのイメージを、鮮烈に思い出すのだった……

呆然と……声を失っている二人に、男はさらに続けたーー

「私たちが国をあけ、〈月の民〉が二年に一度の、民族集会へ発った間に、彼らの聖域から、〈ムー〉は奪われた……」

「用意周到に、してやられたんだな」

ビクの掠れた声が消えるとーー重苦しい沈黙が、流れる……


「氷のなかにいたはずの〈ムー〉が、今こうして……俺たちの目の前に、生きてる……」


ビクがつぶやいた言葉に、部屋にいる三人の視線がーー巨大な鉄格子を挟んで、向かい合う、気高い〈神獣〉のすがたを見つめる……

「〈ムー〉を奪い取った帝国は、こいつを、大儲けの目玉商品にしようとしてる」

男とジェラの目が、青年を見るのだった。

ビクは表情のない顔で、〈ムー〉を見据えていた。

「あんたの話が本当なら、それも不可能なことじゃねぇのかもな」

男の下ろされた手に、きつく拳が握られる……。

「絶対に……そうはさせない……」

激しい怒りに戦慄いた……声だった。

張り詰めた沈黙にーービクが口を開く。


「ところで、あんたは誰なんだ」


男の顔から、はっと影が消えていった。


「名乗るのが遅れてしまい、申し訳ない。 私は、〈リグターン〉の隣ーー北に広がる、〈ガンダ国〉を治める、ダダというものだ」


ビクの黒い瞳ーージェラの褐色の瞳がーー共に、大きく見開かれた。

(王様……)

思えばーー上級兵士が確かに、『隣国からの賓客様』だと、言っていたがーー纏う飾りけのない身形からも、まさか、一国の王様であろうとは、思いもしなかった……。

「おいおい……それってつまり……あんたが王様……っていうことか……」

ビクがまだ、信じられないといった様子で、まじまじと、相手のすがたを見つめる。

〈ガンダ国〉の王は、頷いてみせた。

「で、でもよ……あんたがほんとに王様なら、ふつうは、そばに身を守るやつらが大勢いるはずだろ。……それこそ、さっきみたいな、危ない場面で、家来がばーっと飛び出してくるとか」

ビクの狼狽えた声に、王は表情を引き締めた。

「ここへは、私の強い希望で、一人でやってきたのだ」

澄んだ瞳がーー鳶色の髪の、少女を見つめる。

「〈城〉で、君のすがたを見たとき……」

王の声がーー遮られるのだったーー

「ちょっと待て、ジェラはこい……この王様と、〈城〉で会ってたのか?」

向けられた、鋭い声と目に、ジェラは心臓が大きく打つ……

「……会っていたというか……先に……いらっしゃって……」

「ジェラの前に、ミゲが会ってた客のことか?」

「そうだ」

答えたのは、ダダ王だった。

「私は、〈ムー〉のことで、〈城〉を訪れていた。

そして、偶然にーー彼女のすがたを見かけたんだ」

「最初から王様だってことも、知ってたのか?」

ジェラは慌てて、首を振った。

ビクの舌打ちが、部屋に響く。

「それでも、顔を知ってたんなら、さっさと言えばよかっただろ!もしあのとき、どっちかが相手をぶっ刺してたら、どうするつもりだったんだ!」

「……すみません……」

ジェラは俯き、消え入るような声で言う。

暗く落ち込んだ少女のすがたに、ダダ王が口を開く。

「私の言い方が悪く、きみに誤解を与えてしまった。それに、彼女が言い出せなかったことも、無理もない話だ。私がここへやってきてから、怒濤の事が起こったんだ」

王の言葉に、ビクはなにも言い返さなかった。

ダダ王は、ひとつ息を吸うと、改めて言った。

「彼女は本当に、なにも知らなかった。 〈城〉でのことも、ほんのわずかな瞬間、互いの顔を見ただけで、言葉を交わすことさえなかった。 先ほども言ったように、私は偶然、〈城〉で彼女のすがたを目にしーーなぜだか、心の奥深くに、強く訴えてくるものを感じた……。そして、彼女の行く先に、その答えがあるのだと……。 立ち去ったはずのミゲが、密かに、私を見張らせるための兵士をつけたことも、己の直感を、確かなものへと変えた。 私は共に来た側近や、仲間たちに協力してもらい、見張りのつく〈城〉を抜け、彼女のあとを追ってきた。 もちろん、彼女は、そのことを知る由もなかっただろう」

「つけられてること、本当にわからなかったのか?」

ビクの怪訝そうな声に、ジェラは戸惑いながらも、頷いた……。

「この帝国にいればなおさら、私は君たちが思う王のすがたとは、違っているだろうな。 きらびやかに飾られた城で、豪奢な玉座に座っている王たちが、決して知らないーーやらないようなことまで、深く心得ている。 〈ガンダ国〉の、雄大な自然のなかで生きるうち、私の目は鍛えられた。 そのおかげで、帝都の街のなかでも、遠く離れたところにいる君のすがたを、見失わずにすんだ」

王の瞳が、真っすぐに、少女を見つめるのだった。

部屋を包んだ静寂にーービクの声が通る。

「……ジェラ、さっきは悪かった」

ジェラの驚いた顔が、左右に振られる……。

「……私のほうこそ、すみませんでした……」

金色の髪の青年と、鳶色の髪の少女の顔に、和らいだ表情が浮かぶのを見ると、ダダ王がふと、口を開いた。

「そういえば、君のほうはなぜ、〈城〉へ来ていたんだ」

澄んだ瞳に映る少女の顔にーー途端暗い影が、広がるのだった。

「それは……」

「俺が、〈ムー〉のことを聞いてこいって、言ったんだ」

王の凛々しい眉が、ぐっと寄る……。

「〈ムー〉のことを?」

「でも結局、ミゲのやつも俺たちと同じで、なにも知らなかったけどな」

吐き捨てるように言った、ビクの瞳がーーはっと、光を湛える……

「そうだ……あんたがいるじゃねぇか!」

ビクの言葉に、ジェラの瞳も同じく、王へ向けられた。

「こいつがもといた国の王様なら、きっとわかるだろ!」

期待と、興奮の眼差しを向けた二人に対し、まだその意味をのみ込めていないダダ王は、怪訝な顔に、口を開いた。

「君たちは、なにを知りたいんだ」

静かな王の声に、ビクが答える。

「〈ムー〉のやつがなんで、エサも水も、まったく口にしないのかってことだ」

ビクは言うと、これまでの経緯を語った。

話を一通り聞き終えると、不思議なことに、強張っていた王の表情が、心なしか、明るく和らぐのだった。

「そのことであれば、私が役に立てるかもしれない」

「原因がわかるのか?」

急き込む声に、王が頷くーー

「昔、〈シシン族〉の首長の息子に、話を聞いたことがある」

ダダ王は言うと、短い間をあけ、言葉を継ぐーー


「〈ムー〉は、月をつかさどる〈神獣〉であるため、口にするものも、すべて月の存在が深く関わってくるそうだ」


「月の存在?」


「ああ。 食事のとき以外で、口にするのは、神聖な水のみーーそれも、ただの水ではなく、夜ーー高く昇った月のすがたを、その水面に映し、皓々と輝く月の光を、溶け込ませたものだけだそうだ」


大きな舌打ちが、部屋に響いた。

「なんてめんどくせぇやろうなんだ! 飲む水ひとつで、月のすがたを映せ? 光を溶け込ませろ? 冗談じゃねぇ! それじゃあはじめから、獣のくせして肉なんてもんは、穢れて食わなかったわけか!」

「いや、そうではない」

青年の腹立ちを、王の冷静な声が静めるのだった。

「〈神獣〉である〈ムー〉とて、他の命ある生き物たちと同じように、食事をしーー肉を食べる。 ただ、そのタイミングが、決まっているというだけだ」

「またそれも月か」

うんざりとした声に、王が頷くーー

「〈ムー〉が食事をするのは、月のうちで三度だけーー満月の夜と、その前後の夜の、合わせて三日間だけだそうだ。 きみも言ったように、やはり肉は、穢れを含んでいるため、〈ムー〉にとって、一番力の満ち渡る、そのタイミングで食事をし、穢れを浄化しながら、己の命ーー魂へーー繋げていくと、言っていた」

ダダ王は一度、言葉を切ると、息を継いで、再び口を開く。

「さらに言えば、〈ムー〉は陽があるうちに命を絶えた生き物は、決して口にしないのだと、私は聞いた」

この言葉に、すかさず声が飛ぶ。

「それはおかしいだろ。夜に死んだやつしか食わないなら、こいつ自身は、どうやって暗闇に獲物を捕るっていうんだ」

「夜行性……」

ジェラがつぶやき、王が頷くーー

「真実は、誰にもわからない。ーーただ、私が思うのは、〈ムー〉は月をつかさどる〈神獣〉であるため、たとえ他の生き物が、暗闇に目がきかぬとして、〈ムー〉の美しい瞳は、鮮やかに夜目がきくとしても、特段驚くことではない、ということだ。 おそらくは嗅覚も、鋭いのだろう」

ビクは、なにも言い返さなかった。

深閑とした部屋ーージェラの瞳が、檻のなかにいる、〈神獣〉へとまる……。

〈ムー〉は、立ち上げていた身を、再びいつものように、冷たい床へと伏せていた。ーーだが、変わらず、エメラルドグリーンに光る瞳は、目の前にいる、王のすがたへ向けられていた。

「……俺とジェラは、とんでもなく厄介な仕事を、あの野郎に押しつけられたわけだ」

ビクは言って、大きく息を吸い、勢いよく吐き出す。

「でもまぁ、こいつがもっと弱ってく前に、あんたに聞けてよかった」

ダダ王は、複雑な表情を浮かべながらも、頷くのだった。

「今夜がちょうど満月だ。 今話したことを守っていけば、今度はきっと、うまくいくだろう」

王の声が消えるとーー深いしじまが満たす……


「あんたはこれから、どうするつもりだ」


「……わからない」


苦しい胸の内が、その声には滲んでいた。


「〈月の民〉の聖域から、〈ムー〉が奪われたことを知ったとき……私の内に、はっきりと一人の顔が、浮かんだ……。 私はすぐに、〈リグターン〉へ早馬を出した。……だが、もどってきた使いは、なにも答をもたなかった。 ならば私は、直接兄上にお会いしようと、次の日には国を発ち、帝国へやってきたのだ……」


(兄上……)


ジェラのなかに引っかかった言葉が、霞んでいた記憶を、呼び起こす……

そういえば……〈銀華の間〉から出てきた直後、ダダ王は、『兄上』という言葉を、放っていた……

それは……つまり……

刹那ーージェラの息がとまる……

どうして今まで……気づかなかったのか……

凍りついたジェラの耳に、ビクの強張った声が通る。

「兄上って……まさか、ミゲのことか……」

「ちがう……」

答えたのは、ジェラだった。

驚いた二人の目が、少女を見つめる。

褐色の瞳は真っすぐに、王を見ていた……。

「……〈リグターン〉の……〈神〉……」

ビクの黒い瞳が、ばっと見開かれるのだった。

「うそだろ……ほんとに、あのテーダなのか……」

ダダ王の沈んだ顔がーーゆっくりと、頷かれる……。

目の前にいる王のすがたとーー帝国の頂点に君臨する、〈生ける神〉と呼ばれし、非道極まる大君主のすがたとはーーどう考えてみても、両極端のように思えた……。

長い沈黙の後ーーダダ王が少女を見据え、口を開く。


「君の名は、ジェラ……というのか」


ジェラは戸惑いながらも、小さく頷いた……。

澄んだ瞳が、少女からーー青年へ移るーー


「きみの名も、教えてくれないか」


「ーービクだ」


ダダ王は、二人の名を知ると、少しの間黙考し、口を開く。

「君たちは、〈城〉の兵士じゃないということはわかるが、その髪のすがたからして、かなり高い身分にあるのだろう。 兄上に、お会いしたことは……」

「一度もない」

ビクが冷ややかに、答えるのだった。

「そうか……」

ダダ王はつぶやくと、口をつぐんだ。

やがてーー王がなにか決心したように、深く息を吸い込むと、固く結ばれていた唇を、解くのだった。


「〈ムー〉は〈ガンダ国〉にとって、絶対に外に漏れてはならない、国の守るべき秘密であった……」


「それがなんで、冷血な兄貴の手に渡ったんだ」


悲痛を映した、王の顔が、食いしばられる……


「すべては……この私のせいなのだ……」


激しい後悔に苛まれた、苦悶の声だった。


「どういう意味だ」


「兄上に、〈ムー〉のことを教えたのは、他ならぬ、王である私自身なのだ……」

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