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第九章•導き㊁

ジェラの目の前にーーもう見慣れたすがたの、扉があった。

まだあたりが闇に包まれていたうちから、この扉を抜け、動き出していたジェラにとって、高く昇った陽の光が満たす、今日という一日が、ひどく長いものに感じられるのだった。

心も身体もーー疲れ果てていた。

(ビクさんは……いるのかな……)

空いているほうの手を伸ばし、残る力を込めて、重い鉄扉を開けていくーー

するとーーそれはすぐに、扉がするりと軽くなり、開かれた隙間に、鮮やかな金色の髪が、見えるのだった。

「すみません……ありがとうございます」

ジェラはなかに入ると、扉を閉めるビクに言う。

「おう」

ビクは素っ気なく返し、部屋の隅へ歩いていった。

小さな木の腰かけを一つ、手に持ってくると、すでに部屋の真ん中へ置かれていた、自身のいすの前へ、ガタンっと置く。

「ずいぶん早かったな」

どかっと腰を下ろして言った。

ジェラは、〈神獣〉のいる檻のほうは見ないように、小さく頭を下げてから、置かれた腰かけへ、座るのだった。


「ーーで、どうだった。 あいつに会えたのか?」


黒い瞳が見据える。


「はい……」


ジェラは、力のない声で答えた。

次の瞬間ーージェラと共に、檻のなかにいる〈ムー〉までもが、同時にビクリっと、顔を上げた。

ビクが突然、両手で勢いよく腿を打ったのだ!

「おまえっ! すごいなっ! あのばかでかい〈城〉に入れたのかっ! どうやって潜り込んだんだ?」

呆気にとられーー言葉通り、ぽかんと固まっているジェラに対し、ビクは黒い瞳を輝かせ、見るからに興奮しているようだった。

ジェラははじめ、その言葉の意味や、状況がよくわからなかったが、だんだんと……頭の中へ繋がってきたことに、思わず眉をひそめた。

「もしかして……一か八かで……私を行かせたんですか……」

視線の先に映る、相手の顔に、いかにもわかりやすく、苦笑が浮かぶのだった。

「……わりい。けどおまえなら!できると思ってた!」

ジェラは呆れ、疲れがどっと増したように、大きなため息をついた。

けれど、不思議なことに、あれほど暗く沈んでいた気持ちが、少しだけ、軽くなったような気がした。

「おい!それより!はやく〈城〉へ潜り込んだ方法を教えろよ!俺だって行ってみたいんだ!」

今やビクは、そもそもジェラが〈城〉へ行った理由ーーその肝心要なことを差し置いて、興味津々に、身を乗り出していた。

ジェラはもう一度ため息をつくと、しぶしぶ、口を開くのだった。

「……べつに、潜り込んだわけではないです……」

それからジェラは、〈城〉でのことをーー最後に、ミゲから言われた言葉までーービクに語って聞かせるのだった。

相棒が話し終えると、「チキショウ……」と、舌打ちが響いた。

さすがに、先ほどまでの高揚は消え失せ、ビクは険しい表情をしていた。

再び長い沈黙が、部屋に流れるのだった……

「豆粒ほどの期待も、木っ端微塵に砕け散ったが、収穫がなかったわけでもない」

しばらくして、ビクの声が沈黙を破る。

「ジェラが〈城〉に行ったおかげで、いろいろわかったこともある。たとえば、俺たちが、そのしせつ……なんたらっていう、変な名前で、ミゲの客として通ってることだったり、あとは、ジ……ジ……」

「〈ジーガ〉……」

ジェラが助け舟を出すと、ビクがそれだ、というように、人差し指をジェラへ向けた。

「ふざけ腐った、〈帝国法〉ってやつな」

ジェラは、〈城〉へ向かう途中、ボンゴから聞いた〈帝国法〉のことも、ビクに合わせて話していた。

「そいつを聞いたおかげで、この〈リグターン〉ってとこが、だいぶわかってきたような気がする」

低い声に言うと、黒い瞳に不敵な光が孕む。

「俺たちのことを、上級兵士のやつが知らねぇで、下級兵士のやつが知ってたってとこも、なかなかおもしれぇ。やっぱり、ミゲの野郎には、〈城〉のなかでも、油断できねぇ敵が多いってわけだ。周りの人間をふるいにかけて、慎重に選び出すーー階級なんてもんは関係ねぇ、要は忠誠心だ。そいつらを、またふるいにかけて、残ったほんのちょっとのやつだけが、俺たち〈キューア〉のことや、〈ムー〉のことを知るんだろう。ーーこの建物の前にいた、俺がミゲの駒だと言った、あの二人の中級兵士が、まさにそれだ」

ジェラは、初めてここへきた日、夜陰のなかで見た、中級兵士たちのすがたを思い出しーー〈城〉の廊下に、自分を見つけたときの、ミゲの刺し貫くような眼へとーー脳裏の映像が、移っていくのだった……。

走った鋭利な痛みから、ジェラは逃れるように、視線をーー横にある鉄檻へ向ける……

檻のなかにいる〈ムー〉は、いつものように、美しい白銀の身を、床へ下ろしていた。

ジェラの心にーー抑えがたく悲しみが、押し寄せてくるのだった……。

だかーーその波が、すべてをのみ込む前に、耳へ響いたビクの声が、堤防となって、塞き止めた。

「その紙袋はなんだ?」

褐色の瞳がはっと、手のなかにある、薄茶色の袋へとまる。

座ってからも、ずっと掴んでいながら、言われるまで、すっかり忘れていたのだった。

「これは……」

「食いもんだろ。前に嗅いだことのある匂いだ」

ジェラが驚きながらも頷くと、目の前に伸びてきた手へ、渡すのだった。

ビクが紙袋を開きーーその顔に笑みが浮かぶ。

「やっぱり〈チャタ〉だ」

「〈チャタ〉……」

ジェラは、自分で持ってきたものの、まだ名前を、知らなかったのだ。

ちょうど食べたかったのか、嬉しそうなビクの目が、紙袋から相棒を見る。

「でも、よくこれをゲットしたな。街のなかでも、だいぶ外れたほうの、ディープな場所で、屋台みたく売ってただろ?」

ジェラは、頷いた……。

「俺は前にも一度、〈チャタ〉を食ったことがあるんだ」

ビクは言い、なにかを思い出したのか、得意な意地悪い笑みが浮かぶ。

「パンが、通じなかっただろ?」

「……?……」

狙った言葉が、明らかに相手へ命中しなかったことがわかると、黒く太い眉が、苛立たしく寄るのだった。

「パンだよ、パン! 店のやつから〈チャタ〉をもらうとき、『そのパンくれ』って、言っただろ」

ジェラは困惑しながらも、小さく首を振るのだった……。

「じゃあどうやってゲットしたんだよ!」

「……名前が、わからなかったので……その……〈チャタ〉を指さして……『二つ欲しいです』って、伝えました……。そしたら、お店の人が、紙袋に入れて……渡してくれました……」

ジェラの細い声が言い終えると、大きな舌打ちが、部屋に響くのだった。

「なんだよ……めちゃくちゃ簡単なことじゃねぇか……」

はぁーっと、荒く息が吐き出され、先ほどの嬉々とした顔から一変、険しく不機嫌な表情に、口を開いた。

「俺は〈チャタ〉をもらうとき、一悶着あったんだ。この世界じゃ通じねぇ、パンって言葉を、ばかみてぇに何回も言ったことが、原因だろうな。店のやつら、意味もわからねぇ、知らねぇ言葉を言われるもんだから、だんだん怯えた顔してきて、俺は俺で、なんで通じねぇんだって、腹も減ってて、だんだんイライラしてきて。……まぁ最後は、運よく通りがかった、下級兵士のやつが見つけてくれて、そいつに助けられた。そのときには、ちょっとした騒ぎになっててな。今思えば、あの慌てぶりできたところを見ると、たぶんそいつは、俺たちのことを知ってたんだろう。つまり、ミゲの駒だったってことだ」

「そう……だったんですね……」

一悶着になった原因は、おそらく、通じなかった言葉だけではなく、相手の圧というものもあったのだろうと、ジェラは思ったが、ただ努めて静かに、返すにとどめた。

「そいつに聞いた話だと、この〈チャタ〉ってやつは、どうやらこの国の主食らしい。ーーって言っても、食うのは、ほとんど身分の低いやつらだけだ。お偉いがたには、もっと上等な、クフ……チっ……変な名前ばっかで覚えられねぇ……たしか、〈クフト〉とかいう、とにかくまた別の主食があるんだと」

「主食……」

そういえば……なぜ、街の中心や表側では見かけず、商売をするに不向きな、外れた裏側で目立たずひっそりと売られているのか、ジェラは不思議に思っていた……。

口にするものまでーー力の差で、線引きをするとは……

みぞおちが冷たく強張り、ムカムカとしたものが、込み上げてくる……

静まり返った部屋に、ガサガサと音が響きーービクが紙袋から、〈チャタ〉を取り出す。

人の顔が隠れるほどの、大きな〈チャタ〉は、二つの生地が、きれいにねじり合わさって輪をつくりーーこんがりとよく焼けた表面に、粒ほどのごく小さな実が、一面にまぶしてあった。

香ばしい〈チャタ〉の匂いが、部屋に漂うのだった。

「けどよ……」

〈チャタ〉を手にしたビクの顔が、ふと曇るーー

「さっきは二つもらったって言ってたが、袋には、一つしか入ってねぇぞ」

その言葉にーージェラの心臓が、ズンっ……と、打つ……

相手の視線を感じながらも、揺れた褐色の瞳を、逃げるように床へ向ける……

「……私は、先に食べました……」

たとえ今……うそをついたところで、目の前にいる相手はきっと……すぐにそれを見抜くだろう……

わかってはいたが……だからといって……本当のことを言えば………

「うそだな。 おまえなら一緒に食べる」

ジェラの顔が、はっと上がる……

黒々とした瞳が、強く見据えていた。

揺れる瞳のなかーーまだ迷いを残しつつ……それでも、ジェラは……ぎゅっと結ばれていた口を、静かに解いた……


「……はじめは……二つ……ありました……」


か細い声が消えーー重苦しい沈黙が満たす……


「下民の子に、あげたんだな」


冷ややかな声が、響いたーー

「〈チャタ〉の屋台があった近くには、客の落とした食べこぼしを拾おうと、髪を刈られた下民の子どもらがたくさんいた」

相棒が暗く俯いたまま、なにも言わないのを見ると、再び声が継ぐーー

「鳩に餌をやれて、満足か」

ジェラの顔がぱっと上がるーー

「私はっ……」

怒りに喉が詰まり、胸が苦しく上下する……

二色の眼がーー互いを睨み据えた。

「どんな世界だろうと、〈光〉にあたって生きていけるやつと、〈闇〉のなかを、必死に這って生きていくやつとが、必ずいる。ーーそれが、人間が住む世界、人間がつくりあげた世界の、宿命だ。

一つのコインに、必ず〈表〉と〈裏〉があるように、この二つは、絶対に消えることはない。一時の同情心で、下民の子に〈チャタ〉を一つ恵んだところで、おまえの気持ちは満足するだろうが、世界はなにも変わらない。空しいまでにな。そんな子どもらは、この〈リグターン〉中にどれだけいると思う。あのばかでかい〈城〉から離れていけばいくほど、どこにでもいる鳩のようにうじゃうじゃいるんだ」

相手の視線に耐えられなくなり……俯いたジェラの身が、震える……。

ビクが放った言葉はーー相変わらずどこまでも露骨で……思いやりなど微塵もない、残酷な言葉だ……それでも、ジェラの胸を抉り、これほどまで深く突き刺さったのは、ジェラ自身もどこかで……そのことを、わかっていたからだった……。

自分という……あまりにちっぽけで……誰からも必要とされない……なんの力もない……なんの役にも立たない存在が……逃げ出したくなるほど情けなく……胸が張り裂けるほどに苦しくて……絶望して……嘆いて……大嫌いだった……

溢れ出した涙が、頬を流れ落ち、ポタポタ……と、乾いた床へ落ちる。

「……その子は……〈チャタ〉を、受けとりませんでした……。ずっと……小さな頭を……地面につけたままで……私は……怖くなって……自分のために……その〈チャタ〉を、置いて帰ってきました……」

心の奥底へ封じていたものが、涙と共にーー震える声となってーー言葉となってーー流れ落ちていくーー

「自分より……辛く苦しい人はたくさんいる……私は……恵まれているんだって……それは……わかってた……わかってたけど……私だって……辛かった……どうしようもなく……苦しかった……すべてに……耐えられなくなった……終わりにしたかった……消えてしまいたかった……もう楽になりたかった……」

顔を俯けたまま、嗚咽し……溢れるままに、涙と声とを、流し続けた。

ようやく、すべて流れ出たところで、滲んだ視界にーーすっと、手が伸びてくる。

最後のしずくが、瞳から落ちて、ジェラが見つめるとーー引きちぎられた〈チャタ〉が半分、映るのだった。

涙に濡れた顔が上がる……

「……ほら、食え。 腹が減ってると、いいことなしだ」

ビクが顔をそらしたまま、素っ気なく言う。反対の手にある、もう半分の〈チャタ〉を、バグっと大口に入れるのだった。

「でも……」

受け取ろうとしないジェラの手に、ビクは無理やりに、〈チャタ〉を押しつけた。

「……言い過ぎた……なら……わる……かった……」

口いっぱいにほおばった〈チャタ〉を、もぐもぐ動かしながら、くぐもった声に言う。

ジェラは、小さく首を振り……手のなかにある〈チャタ〉を、じっと見つめた……と、ぐうっっと、お腹が鳴る。

ジェラが慌ててお腹を押さえるのと、ビクがぶっと吹き出すのとが、ほぼ同時だった。

顔がかーっと熱くなり、ジェラは手で、濡れた頬を拭う。

水分はとっていたが、今日は朝から、まだなにも食べていなかった。

生唾がわき、ジェラは手にもった〈チャタ〉を、ゆっくり口元へもっていくーー一口、かじる……

赤くなった目が、大きく見開かれるのだった。

「おいしい……」

「だろ、意外といけるよな」

ちらっと見ていたビクが、笑みを浮かべて言った。

ジェラはこくこくと頷くと、さらに一口ーーもう一口と、〈チャタ〉を夢中で食べ進めていった。

ジェラにとって、初めて食べる〈チャタ〉の味はーー噛めば噛むほど、やさしい小麦の甘さが広がる、どこかほっとするような、素朴で、懐かしく思える味だった。

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