第8話 淑女教育──対面前の一時
コンコンコン
「フレイアです。お呼びと聞き参りました」
洗礼式の翌日。お母様からの呼び出しをメイドから伝えられたのは一刻ほど前のこと。
「御入りなさい」
お母様の執務室のはずだが、お祖母様の声がして戸惑う。
もしかしたら国政のことで何か話していたのかもしれない。
そう思うと部屋に入るのは憚られる。しかし入室を許可された以上は去るわけにもいかない。
「……失礼します」
扉を開けるとお祖母様とお母様は「待ってました」とでも言いたげな表情で私を見ていた。お母様も一仕事終わった後のような晴れやかな顔をしている。その様子に嫌な予感がする。
「フレイア。貴女には今日から淑女教育を受けて貰います」
お祖母様の口から発されたその言葉は私を絶望の谷底に突き落とすには十分なほどの殺傷能力を持っていた。その言葉は異様にスローモーションに聞こえる。
ですよねぇ〜
昨日の洗礼式はあくまでも非公式の外出。私の姿を見た国民は極僅か。更に時間も一瞬だけで印象に残っていると言えば髪色と背丈くらいだろう。つまり王族としての常識やマナー、教養などが身に付いているかどうかは判断できていない。今後の言動から判断するのだ。
多くの平民は王族としての常識やマナー、教養などは知らない。では彼らの判断基準は何か。それは立ち振る舞いだ。立ち振る舞いには人間の行動理念や人間性が表れる。私が彼らに求められる理想の王族だと認められれば、彼らは私を先導者として信頼し、私が新たな政策を始める時には力になってくれるはずだ。
そしてこれは貴族たちにも同じことが言える。多くの貴族が自分、あるいは自分の領地にとっての利益を重要視する。私が新たな政策を進めて貴族たちにも利益が出れば、正当な方法で利益を得る貴族たちは私を歓迎するだろうし、悪徳な方法で利益を得ている貴族に損害が出ても彼らは私に容易に手出し出来ない。
もちろんお母様が私に淑女教育を受けさせようとしたのは私を先導者にしようと考えたのではなく、ただ良い婚姻相手を探すためだろう。王女とは言え淑女教育を受けていない者を他国に嫁がせるわけには行かない。侯爵家や辺境伯家に嫁がせて国内に留めることも出来るが、私は王家で唯一の王女。私の婚姻は外交の際に最も重要な手札になる。
「畏まりました」
私は嫌だと言いたくなる気持ちを抑えて答えた。
そもそも私の本来の理想の生活は家族とほのぼのとした暮らしを送ることだ。しかしこれは女神との賭けがあるので早々に諦めた。しかし、世界統一を終えた後のセカンドライフはのんびり暮らしたい。だから、家庭教師が付くであろう五歳までは前世の記憶から世界統一に必要な知識を引き出して纏めておきたいと思っていた。
私は嫌だという気持ちを態度に出さないように気をつけながら部屋を退出した。外に出ると控えていたルーシーの口元が心なしか緩んでいる。
……聞いてたな。
ただでさえ私生児の平民だと噂されているルーシーを人前で揶揄って私にまで虐められているという噂を立てられるわけにもいかず、私は仕方なく足早に部屋に戻った。
ドスンッ
部屋に入るなり私は長椅子に勢い良く座った。
「痛ぁっっ!」
この世界の長椅子は木製なの忘れてた。確かクッションとかは開発されてないんだっけ……
木に打った骨がジンジンと痛む。ヒビでも入っているのではないかと思うほどの激痛に視界が潤む。
「何してるの?!」
驚いた様子で側に駆け寄るルーシー。心配そうな表情を浮かべるルーシーを見ていると、さっきの態度に怒っていたはずなのに怒りがどこかへ飛んでいっていまう。
「ご、ごめん。クッションがないの忘れてて……」
「くしょん?」
「あ、こっちの話。でもこの程度の怪我ならそれほど痛みもないし大丈夫よ」
「大丈夫なわけないでしょう! 王族は擦り傷一つで使用人の首を飛ばせるのよっ!」
確かにそれは大問題だ。今のところルーシーは私の信用できる数少ない侍女で唯一の友人だ。この程度の怪我が原因で殺されては堪らない。ルーシーも私の不注意で起きた事故のようなことで首を落とされては堪らないだろう。
「大丈夫。私が言えばルーシーの首は飛ばないから」
「そういう意味じゃない! それだけ大切にしなきゃいけない身体なの! いつ何処で暗殺されるかわからないのが王族なんだから!」
てっきり死にたくない気持ちからの言葉だと思っていたが、どうやら心配してくれていたようだ。
つまりは擦り傷一つで不特定多数の生命を左右する身分に居るのだから身体は大切にしろと言うことか。確かに擦り傷から毒でも盛られたら知らぬ間に死んでしまいそうだ。
「確かに擦り傷なら毒を盛られるかもしれないけど、今回は打撲だよ」
「万が一刺客に襲われたら痛みで逃げ切れないかもしれないでしょう!」
確かにっ!
何も毒殺だけが暗殺の手段ではない。刺客の目的は私を行動不能にするか殺すかだ。それが叶えば手段など選びはしないだろう。それに思い至ると王族に生まれた以上は付き纏う危険への警戒はしなければならないと再確認させられる。
「わかった。気をつける」
「よしっ!」
勝ち誇った表情で言うルーシーは歳相応で可愛らしい。
「フレイア。紅茶い──」
「いる」
ルーシーが言い切る前に食い気味に答えるとルーシーはクスクスと笑った。
「フレイアは本当に紅茶が好きだね」
「ルーシーが淹れる紅茶だからだよ」
前世の私はわりと凝り性で、よく美味しい紅茶の淹れ方などを練習していた。これは紅茶に限らず、コーヒーや緑茶などでも同様だったが、中でも紅茶は少しの違いで面白いほどに味の変化があって興味を惹かれた。だから自分好みの味にするために茶葉の組み合わせや配合、水分と茶葉の比率、蒸らす時間などを細かく分けて実験したりもしていた。それでもルーシーの淹れる紅茶には遠く及ばない。
洗礼式から帰ってきて最初に飲んだときに茶葉が違うのかと思い確認してみたが、よくある茶葉だった。前世で言う春摘みダージリンだ。ルーシーと寸分違わず同時に淹れたりもしたが、やはり私の紅茶には何かが足りない。ルーシーが不思議そうにしていたのが印象的だ。
「ルーシー、やっぱり何か特別なことしてるでしょ」
「またその話? 何もしてないよ。はい紅茶」
手渡された紅茶からは芳しい香りがする。ルーシーはカップを持って私の向かい側に座った。これもルーシーだから許されることだ。本来なら許可もなく侍女が主人と同じ席に着くことは許されないが、ルーシーは私の友人なので常に許可しているのだ。
「なんでルーシーの紅茶の方が美味しんだろう……?」
ルーシーが特別なことはしていないのは確認済みだが、それでもルーシーが淹れる紅茶のほうが美味しいのだから世の中不思議なことがあるものだ。
「お褒めに預かり光栄です」
不思議そうにしている私を見てルーシーは満面の笑みで言った。その様子を見ていると悔しさが込み上げてくる。
「……いいもん。自分で淹れないでルーシーに淹れて貰えば良いだけだもん……」
わかりやすく拗ねてみせると、ルーシーは柔らかい笑みを浮かべた。部屋が幸せな雰囲気に包まれる。私の口も自然と弧を描いた。
「ルーシー。教師っていつ来るかわかる?」
「……ん……二刻後にくらいに到着する予定だって」
ルーシーは口に詰めたクッキーを紅茶で流し込んで言った。
「二刻か。あまりゆっくりは出来ないね」
「そうだね。紅茶二、三杯なら淹れられそうだけど」
「そんなに飲んだら途中でお花摘みに行きたくなっちゃう」
「花? なんで?」
「あ、いや、何でもない。言い間違えた。トイレ」
「あぁ、飲みすぎるとね……」
上品に振る舞おうとするあまり、この世界では使わない表現を使ってしまった。この世界では前世のお嬢様言葉は通じない場合が多い。もちろん他の国の常識など知らないので、この国だけかもしれないが。
「早めに行く?」
「そうだね。初対面で遅刻は印象が良くないしね」
「……まぁ、第一印象は大事だもんね」
ルーシーは遠い目をして言った。
「ルーシーが最初から敬語を使っていたら今も敬語のままかもしれないね」
心底嬉しそうな表情をしていたであろう私を見て、ルーシーは悔しいのか嬉しいのかわからない表情を浮かべて顔を逸した。
「あのときの自分を殴ってやりたい」
時既に遅し……
私は前世の記憶が戻ったことで価値観が変わった。前世の常識が私の常識になったのだから周囲とのズレは大きい。それでも上手くやっていけるのは前世の記憶を取り戻す前の記憶を失ったわけではないからだ。特にルーシーとの初対面のような衝撃的な記憶は前世の記憶を取り戻した今でも鮮明に思い出せる。
それは私が言葉を話し始めた頃のこと。お母様の指示でルーシーは私の遊び相手兼侍女見習いとして登城した。初対面の相手なので警戒していたが、それと同時に興味もあり私はゆっくりと近づいていった。
するとルーシーが私の頬を思い切り叩いたのだ。乾いた音が室内に響き、メイドたちは顔を蒼白とさせて戦慄していた。幼いとはいえ王族を叩いたのだから当然だ。ちなみに本来なら極刑になるはずだが、そうならなかったのはお母様がルーシーを気に入ったからだ。曰く、王族を叩く度胸が気に入ったらしい。
私も一方的に叩かれたままで終わらせるような性格ではなく、軽い叩き合いの喧嘩に発展した。お互いに第一印象が最悪であるが故に、親しくなるのに時間は掛からなかった。その喧嘩のおかげで今では身分など関係なく気の許せる友人になれたとも言える。しかし、全ての人がそうとは限らない。幸い私とルーシーは相性が良かったが、相性が悪ければ初対面以降は疎遠になってしまう可能性すらある。
「ねぇ、先生たちも早めに来るんじゃない?」
「あっ!」
確かにルーシーの言う通りだ。私達が遅刻しないようにと早めに集合場所へ行くのと同じように、教師も早めに来るかもしれない。焦って日時計を見ると、到着の時間まであと一刻を切っていた。
「そろそろ行かなきゃ」
「行ってらっしゃい。私は紅茶の片付けをするから」
ルーシーはいつも通り私を送り出そうとする。
「何行ってるの? ルーシーも一緒に行くんだよ」
「へ?」
私の言葉にルーシーは間の抜けた声を出した。
「王女の侍女は王女の許可があれば一緒に教育を受けることが出来るんだよ。だからメイドたちは公の場に出ていない私の侍女になろうと躍起になるんじゃない」
王女の侍女と言う立場には甘い蜜がある。他のメイドたちより上位に立てるだけではない。祝い事や外国からの使節が来れば公の場に出ている王女には贈り物がされる。その贈り物を最初に下賜されるのが侍女と側近なのだ。
しかし、私は公の場には出ていない。と言うより、王女は少女式までは公式の場に出られないのだ。つまりそれまでは贈り物をされることもない。それなのに多くのメイドが私の侍女になりたがるのは、王女が許可すれば侍女も一緒に教育を受けられるという制度があるからだ。
メイドとして登城する者は平民、下位貴族が多い。彼女らは滅多なことがなければ同じ家格の者に嫁ぐことになる。その例外が王女の侍女になることだ。王女の侍女とは即ち、王女の寵愛を得るメイドということだから。
更に一緒に教育を受けたとなれば、そこらの上位貴族よりも質の良い教育を受けているとも言える。一緒に教育を受けることが許される程度には王女に信頼されている証でもある。そんな最上の駒を上位貴族が放って置くわけもなく、侍女は仕事をするにしても結婚するにしても明るい将来を約束される。
「私は別に勉強に興味ないし…………」
その言葉はルーシーに打算がないことを示していると同時に、ルーシーに野心がないことも示していた。もちろんルーシーが私に対する打算を持っていないことは嬉しいが、野心のない者には向上心がない。それでは困るのだ。
「ルーシー。わたくしの侍女という身分の意味を理解しているの? わたくしはティルノーグ王国の第一王女ですのよ。わたくしの侍女が知識も教養もなく、話術の一つもできない未熟者だと嘲笑されることは私が嘲笑されることと同義ですのよ」
私は声を高めに作り、高飛車な我儘王女のような大仰な話し方で言った。
「ちょっ……! 何それ?」
私の話し方にクスッと笑うルーシー。ふざけていると思っているのかもしれない。だが私は話し方こそ冗談めかしているが、内容に関しては至って真剣だ。
「ちょっとふざけてみた。でも私は真剣だよ」
「…………」
ふざけた口調の後に真剣な口調を使うと、真剣さがより一層際立つ。ルーシーは沈黙するだけで何も返さない。
私は家族に溺愛されている。自身が王族でありながら他の王族からも寵愛を得ているのだ。故に王族全員の寵愛を受けやすい私の側近という立場は常に狙われている。私の側近になりたい者、自分の子を私の側近にしたい者は大勢居る。現時点ですら側近候補は高位貴族が多く、下位貴族が私の側近になるには幼いうちに侍女になる他ない。そんな誰もが狙う侍女の座に居るのがルーシーなのだ。
私は現時点ではルーシー以外の侍女を付けず、側近も迎えてない。なので貴族たちは私が側近を迎えたあともルーシーを重用するのではないか。それどころか、ルーシーを正式に側近筆頭に召し上げるのではないかと恐れている。だから貴族たちはルーシーに隙を見つければ徹底的に追求するだろうし、難癖をつけてくるだろう。そしてルーシーを侍女の座から追い落として自分に有利な働きをする者を侍女にするはずだ。
その隙になり得るのがルーシーの貴族としての知識の少なさだ。貴族の常識、教養、学術的知識。どれも平民のルーシーにとっては容易く学べないものばかりだ。
それに例えルーシーに侍女を続ける気持ちがなかったとしても、今後のためにも貴族の常識を学んでおいて損はない。文字が読めれば確実に商人にはなれるし、貴族の常識や教養があれば大商会から嵐のような勧誘を受けるであろうことは容易に想像できる。良い嫁ぎ先も見つかりやすい。
「…………わかった」
暫く見つめ合った後、ルーシーは私の意図を察したのか根負けしたのか首を縦に振った。そして片付けをメイドに任せて一緒に部屋を出た。