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僕に回復魔法をください。  作者: シロツメヒトリ
サイドベルの章
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39.「消化性潰瘍」

「ティア、リリーに《ヘーレム》を掛けてくれ。

 この辺りに、なるべく絞って」


 僕は、先程ミューズに指示した心窩部と同様の範囲を指し示した。


「《ヘーレム》を使うってことは、感染症じゃないのか?

 感染症は全身の病気じゃなかったのか?」


 ティアの返答に、僕はドキリとした。

 まさか、前にちょっと言ったことを覚えているとは思わなかったからだ。


「確かに、感染症は全身の病気である可能性が高い。

 だけど、リリーは、ごく一部の感染だけをしている状態なんじゃないかと思う。

 リックは発熱をしていたり、脈が速かったりしたけど、リリーにはそれがない。

 腸を広範囲に《ヘーレム》に含めると、リックみたいに下痢に悩まされるかもしれないからね」


 リリーの病態では、状況によっては腸を《ヘーレム》に含めてもいいと考えていた。

 感染性胃腸炎が原因であった場合だ。

 恐らく、嘔吐や下痢が止まらなかったという状況から、原因は不明だが感染性胃腸炎の状態にはなっていたのだと思う。

 しかし、今は嘔吐や下痢の症状はなさそうだ。

 少なくとも、今、感染性胃腸炎は治癒していると考えられ、不必要に《ヘーレム》を腸に掛ける必要はない。


 では、今回、リリーに何が起きたのだろう?

 嘔吐の原因が見つからない以上、上部消化管そのものに原因があると考えた方が良さそうだ。

 上部消化管出血の原因として最も多いのは、胃潰瘍や十二指腸潰瘍などの消化性潰瘍もしくはびらんだ。

 その他、急性胃粘膜病変なども挙げられる。

 どちらかは判断が付かない。

 しかし、恐らく、どちらであっても、《ヘーレム》で治癒可能だ。


 そもそも、ある程度は、もう既に《ヒール》で治癒していると考えられる。

 潰瘍もびらんも胃粘膜病変も、粘膜が損傷された状態に過ぎない。

 少し痕は残すかもしれないが、《ヒール》で治ってしまうだろう。

 では、《ヘーレム》は、何のために使用するのか?


 消化性潰瘍の原因をご存じだろうか?

 その昔、消化性潰瘍の原因はストレスとされ、消化性潰瘍はストレスを抱えやすい日本人の国民病とされた。

 有名どころで言えば、夏目漱石の死因も胃潰瘍だ。

 夏目漱石は、ひどい神経症や鬱病持ちだったと言われる。

 ここには、胃潰瘍による出血で出てくる黒胆汁と、メランコリーの関連性が見られて興味深い。


 しかし、1983年に発見された細菌が、その説を根底から覆すことになる。

 それまで、無菌であると信じられていた胃内に、生息できる菌が存在することが判明したのである。

 その名も、ヘリコバクター・ピロリ。

 発見者にはノーベル賞も授与されたし、ピロリ菌の名前は、どこかで聞いたことがあるのではないかと思う。

 この菌が、消化性潰瘍のほとんどの原因となっていることが、その後の研究で徐々に明らかにされていった。

 残りの原因は薬剤によるものであったりホルモン異常によるものであるから、この世界で吐血を見て、肝臓に問題がなかったら、ほとんどピロリ菌が原因と言って過言ではない。

 この菌は、小児期に感染するとアンモニアを産生することで胃酸の刺激から免れて胃の中に定着し、そのアンモニアなどにより十二指腸や胃の粘膜を傷害し、十二指腸潰瘍や胃潰瘍を起こす。

 また、初感染では急性胃粘膜病変の原因となる。

 これは、初めに病原性を証明したマーシャルが、自らの身をもって示したことだ。

 むしろ、僕はリリーは初感染なのではないかと疑っている。

 エルフの里で、あまり外来の病原物質に接してこなかったリリーが、里の外に連れて来られてピロリ菌に感染してしまった、というのは、ありうる話だ。

 リリーに《ヘーレム》を掛けたのは、このピロリ菌を除菌するためだった。


 また、リリーに《ヘーレム》を掛けておくことには、もう一つのメリットがある。

 腹部触診では、現在リリーに圧痛を認めないために否定的ではあるが、《ヒール》前に微小な消化管穿孔をきたしていた可能性は否定できない。

 この場合、放置しておくと腹膜炎の原因となりうる。

 エルフの免疫状態に関しては、まだまだ分かっていないことが多いが、少なくとも普通よりは低い可能性が考えられるため、少し予防しすぎるくらいの方がちょうどいいのではないかと思う。


 ただ、ひとつだけ、出血の原因として、それ以外に考えておかなければならないものがある。

 それは、胃癌だ。

 胃癌だけでなく、本当は他の上部消化管悪性腫瘍も考えなくてはいけないのだが、この場合は無視できる。

 食道癌は、ほとんどが喫煙者の高齢男性に起こるし、十二指腸癌は、見ること自体が稀だからだ。

 しかし、胃癌は、比較的若年者でも起こることがある。

 この世界に来るきっかけとなった金沢さんも、30代と若かったのに胃癌の多発肝転移だった。

 胃癌には、ざっくり分けると2種類ある。

 ピロリ菌が原因となった慢性胃炎を背景として発生する分化型胃癌と、若年女性に好発するスキルス胃癌だ。

 前者は高齢者に起こることが多く、いくら免疫能が低いからとはいえ、リリーに起こることは、ほぼないと考えてよいだろう。

 しかし、スキルス胃癌は……。


 癌に《ヒール》を掛ける。

 一体、どんなことが起こるだろう?

 実際には、見てみないことには何とも言えないが、増殖速度を速める働きをするのではないだろうか?

 つまり、《ヒール》を掛けると、癌は育ってしまうのではないだろうか?


 僕は、その想像に身震いした。

 少なくとも、《ヒール》と《ヘーレム》を掛けられたリリーに、今のところ変調の兆しはない。

 出血が止まるということは、結果的には、リリーが癌でなかったことを間接的に裏付ける結果となった。

 僕は、止血を急ぐあまりに《ヒール》を急いだが、もしかすると取り返しのつかないことをしてしまっていたかもしれなかったのだ。

 きょとんとしてこちらを見るリリーの顔を見て、僕は無性に悲しくなった。

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