37.「身体診察」
僕は、まず下着だけになってもらったリリーに、ベッドの上に横になってもらった。
この世界にはブラジャーはなく、下着とはシャツとカボチャパンツだ。
僕は、シャツを盛り上げる二つのポッチを気にしないようにしながら、シャツをめくり、リリーのおなかを出した。
横では、興味津々といった表情で、ミューズとティアが覗き込んでいる。
正直、やりにくかった。
僕は、何かを誤魔化すかのように、説明をしながら診察をした。
「出血の原因を調べるために、身体診察は非常に重要だ。
まず、リリーの体形を見る。
どちらかというと痩せ形で、腹部は平坦で、張っている様子はない。
皮膚も黄色い様子はなく、むしろ白すぎるくらいだ」
ミューズとティアは、ふんふんと聞いている。
リリーすら、ふんふんと聞いている。
何なんだろう、この状況は?
構わず続けるしかないと考えた僕は、リリーの両目をアカンベさせる。
「眼球結膜、つまり、白目の部分が黄色くなっていない。
ここの部分が、一番、黄疸が早く分かる場所だ。
黄疸とは、胆汁が体中に溜まってしまった状態のことだ。
この胆汁が溜まった状態については、後で説明するよ。
そして、眼瞼結膜、つまり、この目の下の赤い所を見ると、普通の人よりも赤みが少ないと思われる。
これは、リリーが貧血の状態にあることを意味する。
さっき、血液をいっぱい吐いたから、状況に合うと思う。
ただ、脈は速くなく、血圧は保たれている。
意外と、出血量自体は少量なのかもしれない」
まとめると、眼球結膜に黄疸なし、眼瞼結膜に貧血あり、頻脈なしということだ。
「胆汁って、肝臓が悪いと身体に溜まってしまうんだ。
その他、肝臓が悪いと、腹水が溜まっておなかが張ってきたり、皮膚の血管が拡張してメデューサの頭と呼ばれるような様子を示したり、体中がむくんできたりする。
そして、肝臓が悪いと出血の原因となる。
肝臓は、とても血管が多く血流が豊富な臓器なんだけど、肝臓が悪くなると硬くなって、肝臓に行くべき血液が、全身の他の場所に溜まってしまうことになる。
例えば、脾臓に血流が多くなると脾腫になり、皮膚の血管に溜まるとメデューサの頭のようになり、肛門に溜まると痔になったりする。
そして、その血液が溜まる代表的な場所が食道だ。
食道というのは口と胃をつなぐ場所のことだけど、ここに血液がたまると、血管が瘤のようにゴリゴリと拡張することになる。
これを、食道静脈瘤と呼ぶ。
肝臓が悪い人は、この食道静脈瘤が破裂して、大出血することがあるんだ。
でも、リリーは幸い黄疸もないし、おなかの張りが少なく腹水が溜まっているような様子もないし、むくみもない。
食道静脈瘤の破裂は否定的だと思う」
肝臓が悪くなる、すなわち、肝硬変になると、脾腫、腹水、食道静脈瘤をきたすが、リリーは否定的ということだ。
肝臓が悪くなる原因は、アルコールの多飲、高度の肥満、肝炎ウイルス、自己免疫性疾患、先天性疾患などだ。
このうち、先天性疾患以外は、発症するのが中年以降だと考えられるため、そこからも否定的だ。
ウィルソン病に代表される先天性疾患は、リリーぐらいの年齢では頻度は極めて少ないが考えられるため、出血の原因としては考慮するべきだ。
ただ、この世界では、もっと頻度が高い原因がある。
それは、飢餓だ。
餓鬼と呼ばれる妖怪をご存じだろうか?
身体はやせ細っているのに、おなかだけが出っ張った子供の妖怪である。
実は、これは、飢餓状態にある子供の特徴を、そのまま表している。
医学的には、クワシオルコルと呼ばれる。
低蛋白質の食生活が長期間続くことにより、肝臓ではアルブミンに代表される血漿蛋白を作れなくなり、血液は水分を保持できなくなって、血管外に水分が漏出し、腹水の原因となる。
加えて、蛋白質を作れない肝臓は、肝臓で作られる脂肪を肝外に運搬するリポ蛋白質を作れなくなり、肝臓に脂肪が蓄積し、脂肪肝となる。
意外と思われるかもしれないが、飢餓状態では脂肪肝になるのである。
この脂肪肝の状態が長く続けば、いずれ肝臓は肝硬変となり、それ自体が腹水の原因となる。
このため、飢餓状態の人間は、身体がやせ細っているのにおなかだけは大きいという状態になる。
そして、肝硬変になれば、食道静脈瘤もできるため、吐血をすることもあるだろう。
そういえば、この世界にメデューサは存在するのだろうか?
メデューサとは、ギリシア神話に登場する、髪の毛が毒蛇の怪物だ。
おなかに広がる血管が、このメデューサの頭髪に似ているんじゃないかとの想像からの名称だ。
正確には、臍周囲の臍傍静脈と呼ばれる血管で、臍を中心に蛇行しながら放射状に腹部に広がる。
一度見れば忘れない。
「おなかは、痛かった?」
僕が次の質問をすると、リリーは頷いた。
「今は?」
「うーん、少し、かな」
痛みは、かなり引けてきたようだ。
「ちょっと、脚を曲げてもらっていいかな?
おなか、触るよ?
押すと痛い?」
僕は、リリーのおなかを、まず打診した。
鼓音は聞かれず、ガスの貯留は少ないと考えられた。
そして、リリーの痛いという心窩部以外の場所から圧迫を開始し、その都度、痛いかどうか聞く。
心窩部、つまり、みぞおちを押すと、ちょっと痛いようであったが、それ以外の場所は痛くないとのことであった。
そして、おなかは軟らかかった。
吐血の原因に、胃潰瘍や十二指腸潰瘍といった、消化性潰瘍がある。
恐らく、頻度としては一番これらが多い。
これらは、自分の胃や十二指腸の粘膜が、胃酸などにより消化されてしまって起こる。
血管が破れれば出血する。
ひどい場合、胃や十二指腸に穴が開く場合もある。
消化管穿孔という病態だが、これが起こると非常にマズイ。
なぜマズイか?
胃や腸の中が、身体の外にあると言ったら、どう思うだろうか?
そんなことはないと思うだろうか?
しかし、口の中が身体の外とつながっているのは、誰もが納得されることだと思うし、その口の中は、胃や腸の中とつながっているのだ。
つまり、胃や腸の中は、身体の外なのである。
そして、身体の外側には、様々な微生物が存在する。
胃や腸も例外でない。
胃は胃酸が多いという、微生物にとっては過酷な環境であるため、限られた種類の微生物しか存在しないが、十二指腸は比較的多くの腸内細菌が生息している。
だが、いずれも細菌は存在する。
消化管穿孔とは、胃や十二指腸などに穴が開き、身体の外側と内側が繋がってしまうことだ。
つまり、無菌である体の中に、胃や十二指腸にいる微生物が、身体に入ってきてしまうということなのである。
これは重症だ。
現代日本では、手術を必要とする病態である。
穴を塞がないと、身体の中と外が繋がっていて、いつまで経っても外から微生物が入ってくるからである。
手術を行って、早急に穴を塞いでしまう必要がある。
微生物が身体の中に入ると、なぜいけないか?
それは、その微生物による感染症を引き起こすからだ。
消化管穿孔を起こして体内に菌が侵入すると、そこにある腹膜と呼ばれる膜に感染するために起こる、腹膜炎と呼ばれる病態になる。
この場合、腹部は板状硬と呼ばれる様に、板みたいに硬くなる。
その他、反跳痛などのような、腹膜刺激症状を起こすのだが、そういった症状もなさそうであった。
実は、《ヒール》を使えば、消化管穿孔をきたしていても、穴は塞がってしまうのではないかと思われる。
だが、穴は塞がっても、塞がる前に起きた腹膜炎は良くならない。
腹部を触診することで腹膜炎がないかどうかを判断し、起きていたら、しかるべき対応をしなければならない。
放置しておいたら、その人は恐らく死ぬことになるだろう。
幸い、リリーには腹膜炎を疑う症状はない。
つまり、消化管穿孔は起こっていなかった可能性が高い。
僕は、少し安堵して、診察を続けた。




