プロローグ
「お願い! やめて!」
母親は少年を庇うように立ちはだかり、悲鳴を上げた。彼女の背後には、十歳か十一歳ほどの少年が立っていた。大きく見開かれた瞳には恐怖が浮かび、今にも涙があふれそうになっている。
「黙れ、この薄汚い売女が!」
大きなナイフを握った男が怒鳴った。その視線の先には、恐怖で震え上がる二人の獲物がいる。少年は母親の背中に身を寄せ、今にも消えてしまいたいかのように身体を縮こませていた。まるで、すべてが悪夢であってほしいと願うように。
男はナイフを強く握りしめたまま数歩前へ進み、二人の逃げ道を塞いだ。
「どうしてあのクソ野郎と俺を裏切った!? どうしてだ!?」
女は恐怖に満ちた目で男を見上げた。もう逃げ場がないことを理解していた。軽率な過ちを犯した。その代償を払わされるのは、自分だけではない。
何の罪もない、自分の子供まで。
「お願い、許して……! 私……私が悪かったの! で、でも……だからって、こんなことをする理由にはならないでしょう!? あなた、お願い――」
唇が震え、呼吸は限界まで乱れる。
「その汚い口を閉じろ! どうするか決めるのは俺だ!」
「ママ……怖いよ……!」
少年は泣き声を漏らし、母親の背中にしがみついた。
その時、男の堪忍袋の緒が切れた。
彼は女へと歩み寄り、その髪を掴んで無理やり立たせる。そして逃がさぬよう身体を押さえつけたまま、ナイフを腹や胸へ何度も突き立てた。
一撃ごとに、女の口から漏れる悲鳴は弱々しく、かすれていく。
そのおぞましい音は少年の耳に焼き付き、彼の身体をさらに震えさせた。
耳を塞ぎたい。
聞きたくない。
見たくない。
だが現実は止まらない。
やがて女は力なく崩れ落ちた。
男はなおも髪を掴んだまま、その亡骸を床へ投げ捨てる。
少年は震えながら母親を見た。
その身体の下から、深紅の血が広がっていく。
恐怖で身体が動かなかった。
男は荒い息を吐きながらナイフを床へ放り投げると、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした少年へ目を向けた。
そして、その顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
「ほらな。パパに嘘をつくとこうなるんだ」
男は少年の前にしゃがみ込んだ。
「お前、知ってたんだろ?」
少年は母親の遺体から目を離し、ゆっくりと父親を見上げた。
瞼も唇も震えている。
言葉が出てこない。
「お前の母親が知らない男を家に連れ込んでたことだよ。知ってたんだろ?」
「ぼ、ぼくは……し、知ら……」
しかし男は最後まで聞かなかった。
彼は突然、少年の首を掴み、力任せに締め上げる。
「知らないなんて言うなよ。まあ……何を言おうが関係ないけどな」
男は笑った。
「売女で嘘つきの女の子供なんて、俺には必要ない」
締め付けはさらに強くなる。
少年は苦しそうに喘ぎながら、必死に父親を叩こうとした。
だがそれは反撃と呼べるものではなかった。
小さな拳は力なく肩に当たるだけ。
やがて腕から力が抜ける。
握られていた拳は開き、肩の上に手のひらが落ちた。
苦しげな声も消える。
鼓動も止まった。
男が手を離すと、小さな身体は糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちた。
男は顔を手で覆い、大きく息を吐く。
数秒そうしていた後、ゆっくりと手を下ろし、自らが作り出した惨状を見渡した。
「俺たちは誓っただろう……! 絶対に裏切らないって! 誓ったはずだ! なのに……なのに、こんなことになった!」
男は怒鳴りながら妻の遺体を蹴りつける。
何度も。
何度も。
やがて疲れ果て、荒い息を吐きながらその場に立ち尽くした。
彼は気づかなかった。
玄関のドアノブが静かに回り、扉が開いたことに。
復讐心に支配されていた彼は、帰宅した時に鍵をかけ忘れていたのだ。
男は今度は少年の遺体へ視線を向ける。
そして口を開こうとした、その瞬間――
背中に冷たい感触が走った。
信じられないほど鋭い何かが身体を貫き、腹から突き出している。
激痛が全身を焼いた。
男は視線を落とす。
目が大きく見開かれた。
呼吸が乱れる。
腹から突き出した刃先が見えた。
その刃はゆっくりと捻られる。
体内を抉るように。
男は叫ぼうとした。
だが口から漏れたのは掠れた呻きだけだった。
血が口から噴き出し、足元の死体を赤く染めていく。
視界が霞む。
最後に彼が見たのは――
腹を裂きながら横へ滑る刃。
冷たい床へ零れ落ちる内臓。
そして辺り一面に飛び散る鮮血だった。
ご一読いただきありがとうございました!
面白いと思っていただけたら, 評価やブックマークをよろしくお願いします。




