第2話 誰でもない演奏者(delicato)
昨日、田島タカシは放課後の音楽準備室で楽器の手入れをしていた。日も完全に沈み、皆が大方帰った後のこと。音楽準備室で一人、月明かりを頼りに今日の反省会をしながらチューバの水抜き管をチェックし、スワブという管の中を通す掃除布を出し入れするのが彼の日課であった。
普段は秩序だった音の行進が鳴り響く空間も今や田島タカシが愛器を扱う音色だけ。様々な楽器に囲まれながら静謐に身をゆだねる。田島部長の隠れた楽しみであった。だが……
「うん……?この曲は……」
微かに聞こえてきた旋律。これはショパンの夜想曲第9番Op.9-2……?こんな時間にいったい誰が……?
田島タカシはチューバをそっとケースの中に収めて、音楽準備室から顔を出した。第二音楽室に明かりがついている。誰かが残って練習しているのか。もう遅いから帰るように言わないと。そう思い、廊下に出ようとしたその瞬間だった。
田島部長はその場から動けなかった。ため息のように儚く繊細な旋律。まるで貴婦人が集まるサロンで蝋燭の光に照らされたピアノを弾く情景が思い浮かぶような……夢見るようなタッチだ。扉の隙間から流れ出る音の波が命を持ったように体中を駆け巡る。そして、泡立つような情熱と官能的な刺激となって、田島部長を貫いた。
この演奏の邪魔をしてはいけない。田島部長は心が膝を折ったように、その場に釘づけになっていた。
しばらくすると、最期の一音が永遠に続くかのような余韻と共に鳴らされた。万感のスタンディングオベーション。なんて美しいノクターンだ……!いったい誰がこれほどの演奏を?
田島部長は足に力を入れなおして、第二音楽室の扉の前で深呼吸。ノックした。
「し、失礼します!今の演奏をしたのは誰ですかっ!?」
「っ!」
中にいたのは驚愕の表情をした二人の女生徒。明星高校随一のピアノの名手、黒部サオリと祭原フウカであった。二人の傍では、まっさらな楽譜とグランドピアノ。磨き込まれた黒い艶が音楽室の蛍光灯を淡く反射していた――
◇◇◇
「――で、どっちが弾いたか聞いても、どちらも否定すると……」
「はい……そうなんです」
放課後の明星高校ミステリー研究会の部室。中央のデスクを囲うように芹澤ミヤコと田島タカシは座っていた。古い紙とブラックコーヒーの香りが辺りを満たしていたが、田島部長はお客様用のカップに一口もつけていない。
「あのぉ、それよりもあの子はいったい……?」
「探偵です。納得しましょう!」
「は、はぁ」
あの子、こと信田リカは書斎机の椅子に座り、指を絡めて肘を机につけている。
そして、頭には茶色い紙袋をすっぽりと被っていた。口元にはパイプ煙草を咥えているような絵が描かれている。そのまま微動だにしない。
人のよさそうな田島部長は再びカップに視線を戻して、続きを話し出した。驚異のスルー力だ。
「ボクとしては、次のコンクールで是非ともピアノパートを任せたいと思っていてぇ、でもどっちも違うって言うもんだから、もうどうしたらいいんだって……」
田島部長は再び、うむぅ……と、ふさぎ込んでしまった。昨日の演奏の余韻がまだ残っているのか、心ここにあらずといった様子だ。さらにコンクールのことも考えなければならず、合奏練習どころではないのだろう。
芹澤ミヤコはその雰囲気をかき消すようにパンッと柏手を打った。
「さて!ともかく、黒部サオリさんと祭原フウカさんに話を聞かないことには始まりませんね。第二音楽室も見てよろしいですか?」
ハッとした田島部長は丸まっていた背筋を伸ばし、良く響く声でハキハキと言った。
「え、えぇ。そうですね!第二音楽室もそのままにするように言ってますので、大丈夫です」
「わかりました!ありがとうございます!じゃあ、早速行きましょう!リカ、行ってくるね」
芹澤ミヤコは立ち上がり、リカに手を振る。信田リカは右腕を突き出し、親指を立てた。
ロッカーに逃げ込もうとしたリカを説得してみたけど、まさかこんな方法を思いつくなんて!これはとても大きな進展だ。見た目はちょっとあれだけど……今度は話すところまで頑張らせてみようかな。
「それじゃ、田島部長。行きましょうか」
「はい。お願いします」
田島部長はカップを大きく傾けてブラックコーヒーを飲み干し、立ちあがった。そして、律儀にリカに頭を下げて、つられてリカもペコペコと頭を下げていた。そのほほえましい光景にくすっと笑いながら、ミヤコは田島部長と出口へ向かっていった。
つづく




