番外編・真琴クッキーを作る
ご要望をたくさん頂いたので、カクヨムに投稿していた、真琴のサイドをアップすることにしました。
楽しんで頂けると、嬉しいです。
「一馬が好きなのもの? ……筋肉かしら」
「胸肉?」
「プロテイン?」
一馬は今お風呂だ。
その間に、僕、市ノ瀬真琴は、高東家のみんなに一馬の好物を聞いていた。
しかし答えは全て筋肉関係……それが好きなのは僕も知っている。
「10日が誕生日だと伺ったので」
「え? 一馬にプレゼント準備してくれるの? 喜ぶわー、あの子」
一馬のお母さんはエプロンで手を拭きながら椅子に座った。
僕のお母さんは、かなり……キテいる人で、一馬のお母さんみたいに【普通】ではない。
だから、食器を洗い終えたあとに黄色のエプロンで手を拭きながらお茶を入れるお母さんを僕は珍しく感じる。
同時に僕が描いていた、理想でもある。
「お兄ちゃんが好きなのものー? 鉄棒?」
妹の梨々花ちゃん。
最初は警戒したけど、悪い子じゃなさそうだ。
僕は素直な女の子は大好きだ。
「ギターだ、ギターだな。ああーはてしなく続く道おおおお~」
一馬のお父さん。
僕のお父さんは、かなり……博愛主義者なので、愛が多すぎて、誰を本当に愛しているのか、正直よく分からない。
人類全てを愛しているようにも見えるし、同じように誰も愛していないようにも見える。
でも一馬のお父さんは分かりやすい。
だから僕は、高東家をとても気に入った。
僕の病気のことも、一瞬で受け入れて、普通に接してくれる。
龍蘭の男子校で暮らす僕に、これ以上に楽なことはない。
「甘い物も、好きそうですが」
「そうかなー、いつも水飲んでるよ、お兄ちゃん。水道水。ガバガバ飲んでる」
梨々花ちゃんが小馬鹿にしたような言い方をする。
本当に好きだから、それが当たり前だから出来る言葉使いに、僕は憧れさえある。
だから僕は一馬には、必要以上に甘えてしまう。
一馬がそれを許してくれるから。
「僕の知り合いから、たまにクッキーが届くのですが、甘さ控えめで、美味しそうに食べているので」
「ああ、確かに。抹茶味のクッキーとか好きよね?」
お母さんは人数分のお茶を入れて机に置く。
「じゃあ梨々花と作りません?」
梨々花ちゃんが僕の前に来て言う。
「……作る? お菓子は、作ったことないけど……」
「簡単ですよ! 梨々花、小学校の時から彼氏にプレゼントしてますから」
「あんなの彼氏じゃねえ! 彼氏なんてみとめねえ! 何言ってんだ小学生!」
お父さんが叫ぶ。
「もう中学生だし。どこまで何したか、聞きたい?」
「おうおうおうおう俺の娘が嫁ぐ先はあああああ~~~」
お父さんは歌いながら部屋に消えて行った。
不憫で、幸せだ、きっと。
「やっと静かになった。……で、簡単だから、一緒に作りましょうよ。お母さんもお菓子上手だし」
「良いわよ? 学校終わってからにする?」
トントン拍子で話が進み、僕は一馬の誕生日、夕方から高東家にお邪魔して、クッキーを作ることになった。
「見て見て、真琴くん、これ完璧でしょ?」
学校の教室で、同じクラスの杏奈さんがスマホ画面を僕に見せてくれた。
画面には【魂のゾンビ祭り】と書かれたTシャツがある。
「これ今年の誕生日プレゼントなの。すごく上がる。ヤバい楽しみ」
杏奈さんは一馬の幼馴染みで、毎年変なTシャツをプレゼントしているらしい。
「ゾンビに魂はあるのか……そして祭りをするのか、気になりますね」
「ちょっと、真琴くん、真面目すぎーー!」
杏奈さんはケラケラ笑った。
僕は人生が入り組んでいるので、人間は単純なほうが好きだ。
杏奈さんも、僕が男の子のままだったら、きっと好きになっていた。
でも、心の奥底が「違うだろ」って言うんだ。
素直に言える、僕は杏奈さんより、一馬と居るほうが好きだ。
それはきっと甘えられるからだと思う。
僕は僕が思っているより、正確がひねくれていて、面倒に甘えん坊だ。
幼少期に問題があるのは気が付いてるけど、そんなの今更どうしようもない。
「真琴くんも何かあげるの?」
僕の席に美波さんが来た。
美波さんは、龍蘭のアイドル枠で、本当に綺麗な子だ。
この子も一馬が好きで……だから、正直僕も好きだ、というか理解ができる。
一馬は俺はモテないと言ってたけど、俺はずっと一馬は良いやつなのに、と思っていた。
だから一馬の魅力を理解する女の子は、全方位で認めたい。
……少し良い格好をしすぎたかな。
あまり一馬に近づかれると、どうにもイラッとするんだけど。
「美波ちゃんはねー、ケーキあげるんだよねー」
「あ、こら!」
美波さんが杏奈さんの頭を軽く叩く。
よく見ると指先にバンドエイドを多数している。
「……一馬くん、結構甘い物好きでしょ? でも甘さ控えめが好きみたいで……練習してるけど、難しいね」
「喜ぶよ、きっと」
僕は微笑んだ。
でも同時に思った。
僕のスケジュールは最近パンパンで、一馬の誕生日の前に休みがない。
だから、一馬にプレゼントを渡すのは、どうしても当日の夜になる。
ということは、美波さんがケーキを渡した後に、僕のクッキーを渡すのか。
……なんだろう、悔しいな。
一馬の誕生日の前日。
奇跡的にスケジュールが空いた。
「え? 今日はもう終わりですか?」
まだ5時だ。
「急遽LINKSに撮影が入ったんだ」
スタッフに言われて、僕は心の中で小躍りした。
ひょっとしてタイミングが合えば、今日クッキーが作れるかも知れない。
高東家に電話してみる。
「もしもし、真琴ですが」
「こんばんわー。お母さんにかわりますか?」
梨々花ちゃんが電話に出た。
「うん、かわってください、お願いします」
おかあさーんと声がして、はーいという声と歩く音。
なんか、こういうの、忘れてたな。
最近ずっとスマホにかけて、直接本人が出るのが当たり前だから。
なんだか新鮮で口元が緩む。
「はい、お電話変りました」
「あの、突然ですいませんが、今日クッキー作ることは可能ですか?」
「え? 大丈夫だけど、仕事は?」
「急遽、空いたんですけど……突然なので、お伺いしてから、と思って」
「良いよー、うちはいつでもいいよ。材料ももう買ってあるし」
「助かります」
「ひとりで来られる?」
「分かります」
一馬の家の団地まで、電車で30分、それほど遠くない。
僕は大急ぎでスタジオを飛び出した。
電車で30分、徒歩10分、一馬の家に着いた。
古い団地だけど、川沿いの道を歩いて、緩やかな坂を登るこの場所を、僕は気に入っていた。
小さな一馬がここで暮らしていた事を想像する。
杏奈さんみたいに、一馬と幼馴染みだったら、どうやって遊んだかな。
僕は静かにそんなことを想像する。
家に前に置かれた古い砂場道具とか、小さな自転車の残骸とか。
そんなことに過去を感じるなんて、僕ももう大人一歩手前だ。
「いらっしゃい」
「わーい、いらっしゃーい!」
ドアを開くと、中にお母さんが居て、その後ろに梨々花ちゃんがエプロン姿で立っていた。
「急にすいません」
「良いのよー、じゃあ手を洗ってー」
「はい」
促されて、僕は洗面所に向かう。
僕はずっとちいさな平屋に済んで居た。
それは僕が望んで、だ。
僕は色んな女の人がいる本家に住むのは、好きじゃなかった。
半分だけ血が繋がった兄姉弟妹は沢山いたけど、落ち着かなかった。
自分の価値観が、自分の遺伝子が、沢山有ることが、落ち着かなかった。
毎日お父さんがいろんな女の人と眠り、遺伝子が増えていくことも、落ち着かなかった。
だから平屋に、ほぼ一人で住んでいた。
それが一番落ち着いた。
あの平屋は結局取り壊しになり、もう消えたけど、この古い団地は、あの平屋を思い出させてくれる。
軋む床に、古い洗面所。
冷たい水に、薄くてザラザラしたタオル。
ひとりだけど落ち着いた場所。
でも、今は誰かがいて、落ち着く場所。
「ミキサーがあったほうがいいわね。量が多いもの」
「梨々花、伊藤さんに借りてくる」
梨々花ちゃんが部屋を出て行く。
「バニラエッセンス! 加藤さんに貸したままだわ。あー、梨々花行っちゃった、じゃあちょっと行ってくる。バター、レンジで温めて混ぜといて?」
一馬のお母さんはダイニングの机にバターを置いて、部屋を出て行った。
バターを温める……?
レンジで?
僕はとりあえず、バターを耐熱容器に入れて、電子レンジに入れた。
他の家の電子レンジの使い方はイマイチよく分からない。
それに、どれくらい温めればいいのかな?
ボタンを押すと、レンジが自動的に動き出す。
最近レンジは温度センサーが優れてるし、これに任せればいいのかな……?
チーンと軽い音が鳴り、同時にお母さんが帰ってきた。
「お待たせ。バニラエッセンスって、一年に三回くらいしか使わないのに、瓶が大きすぎるのよねー」
「温めました」
僕はレンジからバターを出す。
それはどろどろの液体になってきた。
「おおーーーーっと!」
それをみたお母さんが叫ぶ。
「え?」
僕は理解できない。
「あああ、ごめんなさい、もっとちゃんと言えば良かった。梨々花に言うように言ったわ、私。説明不足だった」
「これは、やりすぎってことですか?」
「そう、クッキーはね、バターを溶かしちゃダメなの。クリーム状態にする必要があるの」
「これは……」
僕とお母さんは完全に溶けたバターを見る。
「液体、ですね」
「バターの海ね。もう一度冷蔵庫に入れれば戻るけど……そんな時間は無いわね」
「ただいまーって、バターが海になってる!」
梨々花ちゃんが叫ぶ。
「ごめんなさい、失敗しました」
僕は素直に謝る。
「オッケー大丈夫、また買いに行こう!って、これもしかして……」
梨々花ちゃんが包み紙を見る。
「もしかしての、カルピスバターよ……」
「NO……」
「NO……」
なぜか二人は交互にNONO言いながら固まった。
どうやら僕は、してはいけないことをしたらしい。
「森永バターにする?」
お母さんは冷蔵庫を開ける。
「ダメ、クッキーはカルピスバターなの!!」
梨々花ちゃんが叫ぶ。
「そうよね、絶対美味しいものね」
お母さんが言う。
梨々花ちゃんはキッと時計を見て
「まだ7時5分前……間に合うか、行ってみる!!」
そう叫んで、家を飛び出して行った。
同時に階段を駆け下りる音が響く。
「すいません……僕……」
詳しく聞かずに手を出すべきでは無かった。
「私が悪いわ。説明不足。カルピスバターはね、普通のバターと全然違うの。風味があって美味しくなるのよ。だから専門店でしか売って無くて……」
「定休日だったーーー!!」
さっき出て行った梨々花ちゃんが、もう戻ってきた。
「ダメか……ミッション1、発動ね……」
お母さんがアゴを指で持ってニヤリと笑う。
前から思ってたけど、一馬のお母さんは本当に面白い。
普通のお母さんって、みんなこうなのかな?
「緊急連絡網お菓子用を出しなさい」
「はい、お母様」
梨々花ちゃんが棚の引き出しから紙を出す。
そこには沢山の電話番号が書かれている。
お母さんと梨々花ちゃんは電話を取りだして、上から電話をかけている。
「斉藤さん、おひさしぶり~。どう最近? 今度お披露目会あるから来て? あ、今日はその話じゃなくてね~、カルピスバター無いかしら? ほら斉藤さん、娘さんがお菓子つくるでしょう?」
「上田さん、おせわになってますー、梨々花ですー。私ちょっと困っちゃってて~。カルピスバターって無いですかあ?」
この調子で二人はどんどん電話をかけていく。
僕は椅子に座って待つ。
机の上には沢山のクッキーレシピがプリントアウトして置いてある。
ピンクの付箋紙が貼ってあったり、可愛い絵も書いてある。
きっと梨々花ちゃんだ。
カルピスバターには二重線が引いてある。
そんなに大事なモノを僕は溶かしてしまったのか。
「あります? 本当ですか? 梨々花伺います!!」
梨々花ちゃんが電話を首に挟んだまま、親指を立ててウインクする。
どうやら団地内で見つかったようだ。
「中島さん、あるって! 行ってくる!」
「ほいこれ、まるやのどらやき持って行って!」
お母さんがどらやきを投げて、それを梨々花ちゃんが掴んで部屋から出て行く。
そのフォーメーションたるや、ラグビーのようだ。
梨々花ちゃんは手にバターを持ってすぐに戻ってきた。
そしてバターを1cm角に小さく切って、それを耐熱容器に並べて500wで20秒ほど加熱する。
「ほら、触ってみて?」
バターはクリームのように柔らかくなった。
「なるほど」
「これが大事なのー。はい、クリームになるまで混ぜる!」
「はい」
僕は渡された泡立て器でかき混ぜる。
梨々花ちゃんやお母さんが配る分も入っているのだろう、かなりの量のバターなので、固い。
「結構力が要りますね」
「パティシエとか男の人のが多いのは、やっぱり力が必要だからだと思います」
梨々花ちゃんは、計量計で砂糖を測っている。
僕はその量の少し驚く。
小高い山のようだ。
「こんなに」
「これでも少なめです。甘さ控えめ」
「そうなんだ」
僕がたまに食べているお菓子には、こんなに砂糖が入っているのか。
一馬があまりお菓子を食べない理由が、少し分かった。
家にお菓子を作る人間がいると、中に何が入っているのか、よく分かるからだろう。
僕は初めて知った。
「バター良い状態ですね、砂糖入れていきます」
「はい」
僕たちは順調にクッキーを作り始めた。
生地を冷蔵庫に入れて一休み。
スマホを確認すると、蒔田先輩からメールが入ってるのに気が付いた。
「……あ、鞄忘れてきた」
それ自体、全く気が付いて無かった。
それほど急いでいた。
「えーー、それってあり得なくないですか?」
梨々花ちゃんが笑う。
「ここに来ることしか、考えてませんでした」
「寮の門限に間に合うの?」
一馬のお母さんが笑う。
「連絡しておきます」
僕はメールを打った。
「はいこれ」
一馬のお母さんが簡単な夕ご飯を出してくれた。
「食べてないんでしょう? 残り物だけど」
「ありがとうございます!」
残り物と言っても、僕からしたら完璧な夕ご飯だ。
味噌汁にお浸し、れんこんの挟み焼き。
「頂いちゃって大丈夫なんですか……? お父さんの分とかではなくて……?」
僕は聞く。
「それが丁度良かったのよ、今日飲み会だって。どうして男の人は突然ご飯要らないとか言うのかしらね。もう作ってあるのに!」
「そんなこと言って~。結局残ったらお母さんが酒のつまみにするだけじゃない」
梨々花ちゃんが笑う。
「だから安心して食べて。そんなこと気にしないの」
「ありがとうございます」
僕はれんこんの挟み焼きを食べた。
塩味で美味しい。
「で、なんで突然今日にしたの? 鞄も忘れるほど急いで」
一馬のお母さんはお茶を入れながら聞いた。
僕はこりこりとレンコンを食べながら、少し黙った。
言うのが少し恥ずかしい。
クラスメイトの女の子より、少し早く誕生日プレゼントを渡したいなんて。
「でもやっぱりー、プレゼントは12時になった瞬間に欲しいよね」
梨々花ちゃんが指を組んでキラキラとした目で言う。
「夜の12時ってこと? あんたそんな時間まで起きてるの?」
お母さんが睨む。
「誕生日は特別じゃない? 梨々花のところにもライン来るよ?」
「あの子小学生でラインしてるの? お母さん感心しないなあ……」
「小学生……? 梨々花ちゃんは中学生ですよね」
たしか今年中学生になったはずだ。
「あ、梨々花の彼氏、小学校六年生なの。梨々花年下が好きで~、このクッキーもあげるの」
僕と一馬のお母さんは目を合わせて、ほぼ同時に首を振った。
時代についていけない……。
「さて、オーブンを予熱しましょう」
生地を寝かして30分、食事も終えて皿も洗い、丁度いい時間になった。
お母さんがオーブンをいじってセットして数分後……何か視界が曇っている。
僕の目が疲れているのだろうか。
「あの、何か、曇っていませんか」
「なんだろ、臭いね」
梨々花ちゃんが鼻をくんくんさせる。
「ガスつけっぱなしだった?」
お母さんがガス台に向かう。
「なんか部屋が煙ってるよ?」
梨々花ちゃんが天井を見上げる。
僕も上を見ると、やっぱり曇ってる。
「え? なにこれどこから?」
お母さんは部屋の真ん中で叫ぶ。
「あ! オーブン、オーブンだよ!!」
梨々花ちゃんがオーブンを指さして叫ぶ。
よく見ると、オーブンの後ろから黒い煙がもうもうと、漫画のように吹き出していた。
「炎上やーーーー!」
お母さんが叫ぶ。
「コンセントを引っこ抜けーーー!」
その声に合わせて、梨々花ちゃんがコンセントに向かう。
「ちょっとまって!」
僕は大声で止めた。
「熱くなってるかも知れない」
前に家で一人で居たとき、トースターで同じ事があった。
僕は置いてあったタオルで手をガードしてコンセントを抜いた。
コンセントはバチッと高い音を立てて、そこから抜けた。
「……やっぱり、熱かったみたい」
「危なかった……」
僕と梨々花ちゃんはその場に座り込む。
「……火事になる、火事、炎上やーーーー!」
お母さんは叫びながら家中の窓を開ける。
火事じゃなくて、中毒……が正解かな? と思いつつ、窓を開けるのは間違っていないので、僕も手伝う。
部屋の中の煙はすべて外に出たが、時は1月。
一気に冷たい風が部屋を包む。
「……梨々花、ミッション2……発動よ」
「お母様……了解しました……」
二人とも床にダンゴムシのように丸まりながら言う。
「く……あはははは!」
僕は正直その姿が面白くて、吹き出して、笑ってしまった。
「ついに壊れた……20年前から使ってたオーブンなのに」
お母さんは膝を抱えたまま、床にアゴをついてブツブツと話し出す。
「それはもう寿命ですね」
僕は笑いが止まらない。
「すごく寒い……もうこのまま寝たい……もう疲れた……」
梨々花ちゃんが丸まったまま動かない。
「梨々花-、戦えーーー! ミッション2よーー!」
お母さんが床にアゴをつけたまま叫ぶ。
「寒い……梨々花寒いのよ……」
スマホを確認すると、もう22時を過ぎている。
中学一年生には深い時間だ。
僕は梨々花ちゃんに毛布を掛けて、お母さんに聞いた。
「ミッション2……オーブンを借りるんですね? どこの家なら借りられますか?」
「時間が深いから子供がいる家はダメね……子供が居なくて良いオーブンも持ってる家……広瀬さんね!」
お母さんが電話は電話をした。
オッケーが出たので雪花屋のせんべいえをもって伺うことにした。
一階に住んでいる広瀬さんは、餅つきの時にも会った方で、僕たちの突然の訪問を快く向かえてくれた。
ただ荷物が溢れた台所は極端に狭く、僕は焼き上がったクッキーを1階の広瀬さん宅から、何度も5階の一馬の家まで運んだ。
こうなると、ちょっとしたトレーニングだ。
クッキーを落とさないように走る運動会の競技のようでもある。
深夜にクッキーを持って走る自分が面白くて、僕は何度も笑った。
全て焼き終えて、メッセージを書いた時には、もう深夜23時だった。
「ありがとうございました、お礼はまた今度改めて」
僕は一馬のお母さんにお礼を言った。
梨々花ちゃんは結局毛布にくるまったまま眠ってしまった。
そんな所は、まだ子供で可愛い。
「いいのよ、一馬によろしく」
一馬のお母さんは玄関で微笑んだ。
一馬によろしく。
そんな風に微笑んでもらえる一馬を、僕はほんの少し羨ましく感じた。
なんとか終電を捕まえて、僕は寮に戻った。
膝の上にふわふわと甘い匂いを漂わせて。
レッスンとはまた違った疲れを感じたけど、むしろそれは気持ち良くて。
僕はお土産に渡された自分で作ったクッキーを食べた。
甘くて、抹茶の味がふわりと溶ける。
深夜の電車。都内に向かう車内に人は少ない。
あそこには僕が暮らしたことがない時間と空間がある。
そこに育てられた一馬だから、僕は尚、惹かれているのも知れない。
何にも頼らずに、一人で生きていくために、アーバンに入った。
でも僕は、ここで一人で生きていく淋しさを知った。
寮で一人になると淋しいんだ。
ずっと一人で暮らしてきたから、そんなこと知らなかった。
でも今僕はひとりじゃない。
紙袋を持って、寮に入った。
まだ一馬、起きてるかな?




