第7話 視察官ドレイク
視察当日の朝は、異様なほど澄んでいた。
雲一つない空に、乾いた風。まるで、この区画で起きつつある変化を、誰にも悟らせまいとするかのような静けさだった。
「到着しました」
門番の声とともに、馬車が停まる。
重厚な造りの黒塗りの馬車。王都中心部でよく見かける、財務局専用のものだ。
私は、背筋を伸ばした。
隣には、レオンハルト殿下。派手な装いはせず、あくまで“担当王族”としての最低限の装束だ。
馬車の扉が開き、一人の男が降り立つ。
カシム・ドレイク卿。
痩身で、無駄な肉のない体つき。灰色がかった髪をきっちりと撫でつけ、冷たい眼鏡の奥から周囲を値踏みするように見回している。
「……なるほど。これが問題の区画ですか」
第一声から、皮肉が滲んでいた。
「歓迎いたします、ドレイク卿」
レオンハルト殿下が、穏やかに頭を下げる。
「本日は、お時間を割いていただき感謝します」
ドレイク卿は、殿下を一瞥し、形式的に礼を返した。
「職務ですので。成果が出ているという報告を受けましてね」
――成果。
その言葉に、私は一瞬だけ奥歯を噛み締めた。
「こちらが、当区画の補佐官、エリシア・フォン・ルーヴェルです」
殿下の紹介に、ドレイク卿の視線が私に移る。
一瞬、ほんの一瞬だが、その目が細まった。
「ああ……」
短い相槌。
それだけで、彼が私を“知っている”ことは明らかだった。
「噂は聞いていますよ。第一王子殿下の――」
「本日は、区画の現状をご確認いただくためにお越しいただいています」
殿下が、穏やかだがはっきりと遮る。
ドレイク卿は、肩をすくめた。
「失礼。では、早速案内を」
視察は、徹底的だった。
市場、倉庫、税務所、治安詰所。ドレイク卿は質問を浴びせ、数字を求め、細部を突く。
「この税の猶予措置、中央の承認は?」
「ありません。区画内裁量で行いました」
「……ほう」
ペンが止まる。
その一瞬の沈黙に、試されている感覚が走る。
「越権行為と取られかねませんが」
「承知しています」
私は、目を逸らさなかった。
「ですが、承認を待っていれば、この区画は持ちませんでした」
ドレイク卿は、面白そうに口角を上げる。
「結果論、というやつですな」
「ええ。結果で判断されるのが、財務の世界でしょう」
言葉は丁寧だが、刃は隠さない。
私は、あらかじめ用意していた資料を差し出す。
「こちらをご覧ください。猶予を行わなかった場合の試算です」
ドレイク卿は、眉を上げ、紙に目を落とす。
数字を追う速度が、明らかに変わった。
「……ふむ」
それ以上、言わない。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
視察の終盤。
居館の執務室で、最終確認が行われる。
「結論を申し上げましょう」
ドレイク卿が、眼鏡を押し上げる。
「確かに、この区画は持ち直しつつある。――だが、これは成功とは言えません」
予想どおりの言葉。
ハロルドが、わずかに身構える。
「中央の基準では、評価に値しない」
私は、静かに頷いた。
「はい。そのとおりです」
その返答に、ドレイク卿が怪訝な顔をする。
「……ほう?」
「この施策は、成果を誇るためのものではありません。崩壊を止めるためのものです」
私は、一歩前に出る。
「中央が評価できる形に整えるには、まだ時間が必要です。どうか、それまでは――」
「――このまま、第二王子殿下の管轄で続けると?」
ドレイク卿が、言葉を継いだ。
私は、迷わず答えた。
「はい。責任の所在を曖昧にせず、再現可能な形で」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、ドレイク卿は小さく息を吐いた。
「……面白い」
その一言に、空気がわずかに緩む。
「成果を横取りするには、あまりに地味だ。――第一王子殿下向きではない」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
評価されたわけではない。だが、奪われもしない。
「当面、この区画への直接介入は見送ります」
ドレイク卿は、淡々と告げた。
「ただし」
視線が、鋭く私に向けられる。
「次に数字が動いたときは、必ず中央に報告を。――そのときは、私が担当しましょう」
それは、監視宣言でもあり、保護宣言でもあった。
「承知しました」
私は、深く一礼する。
ドレイク卿が去ったあと、室内には重い沈黙が残った。
やがて、殿下が小さく息を吐く。
「……見事でした」
「いいえ」
私は首を振る。
「通っただけです。まだ、評価されてはいません」
殿下は、微笑んだ。
「それで十分です。――今は」
窓の外には、相変わらず地味な街並み。
けれど私は知っている。
派手ではない価値は、確かにここに根を下ろした。
そして同時に――
この仕事が、もう“誰にも気づかれないもの”ではなくなったことも。




