第6話 見えない手
中央財務局からの視察が正式に決まったのは、その三日後だった。
書状は簡潔で、感情の入り込む余地のない文面だったが、行間に含まれる圧は明確だった。
『王都外縁区画の財政運営について、実地確認を行う』
私は紙を置き、ゆっくりと息を吐いた。
来るとは思っていた。思ってはいたが――想定より、早い。
「……視察官の名は?」
私の問いに、ハロルドが一拍置いて答える。
「カシム・ドレイク卿です」
その名を聞いた瞬間、空気が一段冷えた。
ドレイク卿。
第一王子アーヴィン殿下の側近として知られる財務官僚。数字に強く、容赦がなく、そして“成果を上のものとして報告する”ことで有名な男。
「中央の犬、ですね」
誰かが小さく呟いた。
否定できる者はいなかった。
私は、帳簿に視線を落とす。
ここにある数字は、嘘をついていない。誇張もしていない。だが――
「奪われる」
思わず、声に出ていた。
ハロルドが、ぎょっとして私を見る。
「エリシア嬢?」
「いえ……失礼しました」
私は首を振り、言葉を飲み込む。
これは、まだ“事実”ではない。ただの予感だ。けれど、その予感は、過去の記憶と強く結びついていた。
派手ではない成果。
静かに積み上げた仕事。
そして、それを“評価する権限”を持たない者。
――また、同じことが起きるのではないか。
「視察は、いつですか」
「五日後です」
短い猶予。
準備はできている。だが、“守る準備”までは、まだ足りない。
その日の夕方。
私は一人、執務室に残っていた。
机の上には、これまでの施策と結果をまとめた資料。
成功と言えるほどの成果ではない。だが、確実に崩壊を止めた数字だ。
これを、そのまま出せばいいのか。
それとも――。
「……考えすぎ、でしょうか」
呟いた声は、誰にも届かない。
第二王子殿下には、まだ伝えていなかった。伝えれば、殿下は必ず守ろうとする。
けれど、それが逆に標的になる可能性もある。
私は、ペンを持つ手を止めた。
――また、誰かの判断に委ねるのか。
それとも、自分で選ぶのか。
しばらくして、控えめなノックが響いた。
「入ってください」
扉の向こうに立っていたのは、レオンハルト殿下だった。
外套を脱ぎ、少し疲れた様子だ。
「まだ残っていましたか」
「はい。少し……考え事を」
殿下は、私の机の上に並ぶ資料を一目見て、察したように眉を寄せた。
「視察の件ですね」
私は、黙って頷いた。
「ドレイク卿は、第一王子殿下の意向を強く汲む人物です」
殿下の声は低く、冷静だった。
「彼が来る以上、ただの確認で終わるとは思えません」
私は、胸の内を正直に話す決心をした。
「……成果を、持っていかれる可能性があります」
殿下は、一瞬だけ目を伏せる。
否定しない。それが、答えだった。
「だから、迷っています。このまま数字を出すべきか、それとも……」
「守りたいのですね」
殿下の言葉は、静かだったが、核心を突いていた。
「この区画を。ここで暮らす人々を。――そして、あなた自身の仕事を」
私は、ゆっくりと頷いた。
「はい。けれど同時に、怖いんです。注目されることが」
婚約破棄の夜が、脳裏をよぎる。
注目された結果、切り捨てられた自分。
殿下は、しばらく考え込んでから、言った。
「では、こうしましょう」
机の上の資料を一つ取り、私の前に戻す。
「数字は出します。ただし、“成果”としてではなく、“過程”として」
「過程……」
「ええ。誰が何をしたかではなく、なぜ必要だったか。――再現できる形で」
私は、はっと息を呑んだ。
それは、奪いにくい。
誰かの功績として切り取るには、あまりに地味で、あまりに構造的だ。
「評価されにくい代わりに、横取りもされにくい」
殿下は、淡く笑った。
「派手ではないやり方ですが、あなた向きでしょう」
胸の奥で、何かが定まった。
迷いが、覚悟に変わる音がする。
「……はい」
私は、力強く頷いた。
「それで行きます。数字を、武器ではなく、地図として使います」
殿下は、満足そうに目を細めた。
「その選択を、私は支持します。――責任も、変わらず私が持ちます」
その言葉に、胸が熱くなる。
守られているのではない。共に立っているのだ。
五日後。
視察官ドレイク卿が、この区画に足を踏み入れる。
それは、最初の試金石。
派手ではない価値が、どこまで通用するかを問われる日。
私は、資料を閉じ、静かに立ち上がった。
――今度こそ、自分で選ぶ。
選ばれなかった私が、選び続けるために。
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