第5話 静かな成果
変化は、噂にならないほど小さかった。
王都外縁の市場に、以前より人が集まるようになった。
空き店舗だった建物に、簡素な看板が掛けられた。
夜間の見回りに出る騎士の回数が減り、報告書の「事件発生」の欄に、空白が増えた。
どれも、王宮の回廊では話題にならない。
けれど私は、机に積まれた帳簿をめくるたび、その「空白」が持つ意味を噛み締めていた。
「……数字が、落ち着いてきています」
ハロルドが、眼鏡の奥で目を細める。
彼の声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
「ええ。急激な改善ではありませんが、崩れなくなりました」
私は、指で線をなぞる。
増えも減りもしない、平坦な数字。それは、混乱が止まった証拠だ。
「正直に申し上げますと」
ハロルドは、言葉を選ぶように続けた。
「中央からの視察が入らないことが、これほど助けになるとは思いませんでした」
私は、苦笑する。
注目されないこと。それが、今の私たちの最大の武器だった。
そのとき、控えめなノックが響いた。
「失礼する」
レオンハルト殿下が入室する。
今日は珍しく、外套を着たままだった。王宮から戻ったばかりなのだろう。
「報告を受けました。……数字が、静かですね」
「はい。派手さはありませんが、持ち直しています」
殿下は、帳簿に目を落とし、しばらく黙っていた。
私は、その沈黙が嫌いではなかった。考え、判断するための間だと分かっているから。
「中央は、まだ気づいていません」
殿下が言う。
「それでいいと思います。今は」
私は、即座に頷いた。
「成果を誇る段階ではありません。土台が固まるまでは、静かに」
殿下は、小さく息を吐き、微笑んだ。
「あなたは、本当に“見せない成果”を選びますね」
その言葉に、私は一瞬だけ胸が痛んだ。
かつて、それを理由に切り捨てられたことを、思い出したから。
「……派手に見せるのは、得意ではありません」
「それでいい」
殿下は、はっきりと言った。
「国は、常に拍手を浴びる決断だけで動いているわけではない」
その視線は、まっすぐだった。
夜会の光の下で向けられたどんな視線よりも、重く、温かい。
数日後。
小さな異変が起きた。
中央財務局から、一通の照会文が届いたのだ。
文面は形式的で、冷たい。
『王都外縁区画における税収推移について、説明を求める』
私は、紙を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……来ましたね」
ハロルドが、険しい顔で言う。
「嗅ぎつけるのが、早い」
「ええ。でも、想定内です」
私は、机に向かい、新しい紙を広げた。
感情ではなく、数字で答える。最初から、そう決めていた。
「ごまかしません。誇張もしません。事実だけを」
そうして書いた報告書は、驚くほど短かった。
成果を語らず、過程を淡々と記す。誰が見ても、地味だ。
提出から数日後。
今度は、王宮から使者が来た。
「……第一王子殿下が、この区画の状況に興味を示されているそうです」
使者の言葉に、室内の空気が一瞬、張りつめた。
私は、ペンを置く。
胸の奥で、冷たいものが動くのを感じた。
「そう、ですか」
それだけ答えた私を、レオンハルト殿下が静かに見ていた。
「恐れる必要はありません」
殿下は、低く言う。
「あなたがやったことは、すべて正しい」
私は、深く頷いた。
けれど同時に、理解していた。
――正しさは、必ずしも守ってくれる盾ではない。
派手ではない成果は、派手な人間の目には、奪いやすく映る。
私たちの仕事は、誰かの功績として塗り替えられるかもしれない。
それでも。
「……逃げません」
私は、殿下を見る。
「ここで引いたら、この区画は、また元に戻ります」
殿下は、しばらく私を見つめてから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。では――次の段階に進みましょう」
次の段階。
その言葉に、胸が少しだけ高鳴る。
静かに積み上げてきたものは、もう“隠しきれない”ところまで来ている。
拍手は、まだいらない。
けれど、覚悟は必要だ。
私は、もう一度帳簿に視線を落とした。
そこに並ぶ数字は、相変わらず地味で、控えめで。
――それでも、確かに、この国の一部を支え始めていた。




