2 『星辰の魔女』夜明
私が暮らしている都市は学園を中心に回っている。住民の多くは学園の卒業生で、都市の市庁舎も学園の敷地内に設置されている。魔力を持つ人が入学し、魔法を学んで魔導士となり、魔力の減衰をもって卒業する。魔導士のための学校。名前はそのまま魔導学園。
外装は石レンガでできたヨーロッパのお城のような見た目をしているくせに、中身は白を基調とした近代的なインテリアが広がっている。さまざまな魔導技術が用いられて建築され、いざと言うときはシェルターとしての機能もある学園はまさしく魔導士の本拠地と言えるだろう。
りんと二人で廊下を歩きながらガラス張りの教室を流し見る。初等部だろう10歳ほどの子供たちが座席に並んで座っている。真面目に教師の話を聞いている子の中に眠りこけている子や廊下の私たちに向かって手を振る子がいて愛らしい。軽く手を振り返すときゃあきゃあと叫び教師に叱られていた。
「さすがお姉さまです。ファンサービスも欠かしませんね」
「別にファンじゃないと思うよ……」
中等部と高等部の生徒が授業中に並んで廊下を歩いているのが珍しいのだろう。教師に捕まらないうちにそそくさと目的の人物がいる場所まで移動する。
階段を何度か上がった先の教室にて、彼女は子供たち相手に教鞭を振るっていた。普段見ることのない彼女の一面に少し惹かれて、りんに「少し聞いていよう」と告げる。
「君たちはすでに魔術式に魔力を流した経験はあるだろう?」
彼女がそう問うと何人かの生徒が頷く。
「では、どういう原理で術式が実世界に働きかけるのかについて詳しい子はいるかい?」
今度は誰も頷かない。初等部だし当然だ。初等部の魔導の時間はまず魔力と術式の扱いに慣れてもらう実技がメインなんだから。
誰も反応しないことを確認すると、彼女はおもむろに右腕を前に突き出し、手のひらの上に赤い光と共に缶ジュースほどの大きさの透明な氷を生み出した。クラスに軽いどよめきが響く。
単純な物質生成術式。だけど魔導具なしであそこまで美しく術式を励起できる魔導士はそうそういない。それを初等部といえどもわかっているのだろう。小さく「すげー」「きれー」という声が聞こえた。
「この魔法によって生み出された氷は、水道水を凝固させたものとは違い不純物の混ざらない純粋なH2Oでできている。純氷という奴だな。ではそのH2Oはどこからきたのか。わかる人は?」
手は上がらない。彼女は再び魔術式を使い今度は氷を昇華させる。
「水分子を構成する水素と酸素は原子と呼ばれる。原子は原子核を作る陽子・中性子と核を包む電子に分けられ、陽子と中性子はクォークに分けられる。ではクォークをさらに細かくするとどうなるのか」
教室のホワイトボードに自然と図と文字が浮かび上がる。今までの説明が簡単に表され、クォークから引かれた矢印の先にはもやもやとした雲のような図が描かれる。
「正解はその存在がとても不確かであやふやなものになるのさ。あるようなないような、だけど広い目で見れば確かにあるもの。それを『揺らぎの領域』と言う。揺らぎの領域はものの大小という考え方では測れないほどとても小さいものだが、私たちが手に取って触れる物、そして宇宙を構成するほぼ全てに至るまでこの揺らぎの領域によって決定づけられている。魔術式はこの揺らぎの領域に作用してものの在り方の可能性を引き出していると考えられている」
彼女の手のひらにあった氷は全て水蒸気となり空気に溶けていった。少しだけ濡れた手を拭くために彼女はハンカチを取り出し、ようやく私たちの存在に気がついたようだ。子供たちに「しっかり板書をとっておくように」と言い残して教室の外に出てきた。
「いいの? 夜明、あの子たちたぶんついていけてないと思うよ」
「中等部になって初めて魔導学に触れるよりかは早いうちから馴染ませた方がいいだろう」
先ほどまで教室で授業をしていたワインレッドのカットソーにウルフカットのこの女は夜明という。魔導学園の非常勤講師であり現役の魔導士なので生徒でもある。
魔導士の全盛期は10代前半から20代前半まで。それ以降は緩やかに魔力を失い魔導士はただの人になる。そして、通常の全盛期を超えても魔力を失わずに魔導士であり続ける稀有な人々、夜明のような存在を魔女と呼ぶ。
「それでメルル、どうしたんだい?」
「待ち合わせ場所にねるちゃが来ないの。夜明の方で連絡取れない?」
「ねるちゃが? 約束を破るような子ではないのだが」
『ねるちゃ』は人名だ。夜目と同じ魔女だけど人間性は似ても似つかないクソ魔女だ。舌足らずな喋り方で人を煽る癖がある。
私とりんは夜明経由でそのねるちゃに朝早くから呼び出されていた。「あのねるちゃが頭を下げて頼んできたんだ。私からもお願いするよ」と夜明から懇願されてなければ今頃は待ちぼうけを体験することなくベッドの中で微睡に包まれていたことだろう。
夜明はしばらく顎に指を当てて何かを思案していたが、突然教室に戻ると「今日の私の授業は自習にする。各自勉学に励むように」と言い残し教室を出た。
「嫌な予感がする。とりあえずねるちゃの現在位置を探ろうか」
「授業途中だったじゃん」
教室の中は子供たちの歓声が響いて外にまで溢れていた。夜明が生徒から嫌われていないか少し不安に思う。
「今はこっちの方が先決だ。私の工房に戻るよ」
夜明は3人を囲うようにサークルを作ると、転移の術式を励起させた。
正式な魔女になると魔導協会から個別に工房という自由に使ってもいい居住地が与えられる。すでにある場所を工房に指定するにしても、新たに建てるにしても、少なくない額の補助金が出る。その代わり魔女は必ず自分の工房に住所を置かなければならない。
工房には魔女の個性が現れる。ビルのように大きな建物を建てて大量の研究員を雇い自分の研究所として動かしている魔女もいれば、ダンスすれば手が壁にぶつかるほどの小さな空間を工房にして一人机と向き合っている魔女もいる。夜明の場合は天文台としての機能も持った小さな研究所を工房としていた。
転移先の座標はロビーだった。アンティークな壁紙にやたらと主張の強い多種多様なインテリアグリーンが絡みつく。レトロな雑貨、額縁、カラーポスターと古くなって少し劣化したプリントが掲示されたボード、3Dプリンターで作ったすばる望遠鏡の模型。誰もいない受付の奥、オリヅルランでちょっと隠れたディスプレイには現在時刻が秒数まで表示されている。見慣れた光景、嗅ぎ慣れた匂いは不思議と安心感をもたらした。
私たちは早足で歩く夜明の後を追って空いている研究室に入り、パソコンを起動しながら夜明と軽い情報交換を行う。
「ねるちゃが頭を下げたと言うことは余程の事情があったのだろう。だが私じゃなくてメルルをわざわざ指定したと言うことは命に関わるような重大なことがあったわけではないと考えていた」
「私もそう思うよ。あんなでもねるちゃは魔女なんだし、何かあったとしても取れる手段はそこまで限られていない」
「もしかしたら何か想定外のことが起きて連絡が取れない状況なのかもしれない。悪いことはあまり考えたくないが……」
「あの、そこまで焦ることなのでしょうか。錬金術のねるちゃ、さんってその、悪いことを言うつもりはありませんが悪い噂もありますし、ただ寝坊しているだけとかでは?」
りんが夜明に質問する。私が誰かと話している時は一歩下がって従者のように振る舞う傾向のあるりんにしては珍しい。そういうことができるならいつもそうしてくれればいいのに。
そしてりんの質問はねるちゃをよく知らない人にとってはもっともな質問だった。ねるちゃは変わり者の多い魔女の中でも特にぶっ飛んだ人間で、よくSNSで炎上している。実のところ私もりんと同じように楽観的に考えていた。
けど夜明が心配しているから、心配するだけのことなのだと思う。私よりも夜明は彼女について詳しいはずだから。
「そう考えるとのも当然だね。あの子はいつまで経っても問題児だから」
夜明はりんの瞳の奥を上目遣いで覗く。夜明の星空のような瞳は言葉すら飲み込み、どこまでも落ちていくような錯覚を覚えさせる。
「でもあの子は嘘をついたりしないし、何より自分で決めた約束は破らないんだ。そういう性質だから」
「そうですか」
りんは納得してかしてないかは知らないけど、それ以来黙っていた。
「反応がロストしてる?」
りんの質問から夜明がその言葉を発するまで5分もかかっていなかった。
「ロストって?」
「私の作った魔導具にはGNSS受信モジュールが組み込まれている。それで位置情報を測定してみたのだが」
「ちょっと待ってください。それって私やお姉さまのものにも、位置情報を勝手に教えるものが入っているってことですか」
夜目の言葉を遮ってりんが詰め寄る。
「必要な時以外は見ないさ」
「信用できません。勝手に覗き見できる装置を作っておいて」
私は二人の間に腕を差し込みりんのお腹を撫でる。
「りん、今は、ねるちゃのことに集中しよ。私も後で聞くから。夜明もね」
「……わかりました」
りんは素直に夜明から離れる。夜明は少しだけりんを見つめていたが、すぐにモニターに向き直った。
「それで測位した結果、北区バスステーション近くにある廃ビルを最後に反応が途絶えている。最後に位置情報が送られたのは5時間前、その時に魔導具が破壊されるほど激しい戦闘になったか、何らかの方法でジャミングされているか」
「待ち合わせ場所にも近いね」
「何があったにせよ、直接現場に行って調べる必要があるだろう」
私たちは念のため簡単な戦闘準備をしてから現地へ赴くことになった。準備をし終わった頃、りんが耳元でこっそり話しかけてくる。
「お姉さま……。お姉さまは夜明先生に甘すぎです。なんか自分勝手で嫌な感じの人だし、もしかしたらまだ私たちに言えないことだってあるかもしれません」
「夜明は信用できるよ。だって私のママだもん」
「そうは言っても…………えっ?」
「義理だけどね。これも後で話してあげるから」
私はりんの手を握る。ねるちゃがいなくなってからすでに5時間が経過している。私は人格的に問題のあるねるちゃのことが嫌いだ。それでも知り合いである以上、理由なく死んでいて欲しくはないと思う。
「いつでも出発できるよ」
りんを見ると、静かにコクリと頷く。私はりんを連れて歩き、夜明の作ったサークルに足を踏み入れた。
続く?