第十話
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1914年2月11日
この日の帝都・東京の空気は真冬の寒さが残る中、熱く煮え滾っていた。山本権兵衛が内閣を組閣して以来、庶民は薩摩出身の山本権兵衛を疑いの目で見つめながら、ようやく話が分かる首相が誕生したと一応は歓迎していた。山本権兵衛は軍部・大蔵省・庶民達の要求を吟味しながら慎重に政権運営を行っていた。しかし、鹵獲したロシア戦艦群の売却によって雀の涙ほどには減らすことが出来た国債に加え、陸海軍の軍備拡張(装備更新)と満州独立戦争による出費は大蔵省に詰める官僚達の頭を悩ますモノであり、緊縮財政が大蔵省から内閣に提案されるなど、大日本帝国は財政が苦しい状態であった。
山本権兵衛はそのような状況下で、軍備拡張は海軍増強を優先する方針を固めると、それに反発する陸軍と対立を深めていた。この情勢の中、山本権兵衛と一緒に軍のコントロールを必死に試みていた木越安綱陸軍大臣が山縣閥の陸軍軍人達から強烈な圧力を受け辞任させられる寸前までに追い込まれるが、そこに待ったを掛けた人物がいた。
大正天皇である。
国政を担う内閣総理大臣が短期間でコロコロ変わることに不安を憶えた大正天皇は、山本権兵衛を宮中に呼び出すと、陸軍大臣が辞任した場合、宮中の侍従武官から天皇が信頼できる者を次期陸軍大臣に推薦すると伝えた。
これにひどく驚いた山本権兵衛ではあるが、西園寺公望内閣が軍部現役武官制度を悪用され陸軍によって倒閣されたのを目の当たりにしていた為、この提案に対し遠回しではあるが宮中と内閣の不干渉を理由にやんわりと断りの言葉を述べた。大正天皇はある程度の事は予想していたのか「そうか」と言った。ただ、何かしら不足の事態が起こった際には若干ではあるが手助けすると述べられた。
それ以来、山本権兵衛は宮中に何度も訪れては大正天皇に政情や国防について報告し、大正天皇は疑問に思った事に対して質問し山本権兵衛が答える質疑問答が繰り返された。
この質疑問答の最中、山本権兵衛が何回か答えられない事案があると、大正天皇は各地方で名高い大学の教授達を招集した。教授達が大正天皇にあれこれ説明する横でそれを聞く形になっている山本権兵衛は、自然に各教授達に自らが疑問に思った事を質問するようになった。そして押し問答により身に付いた知識は内閣運営に役立てていた。
多少の混乱期があれど安定期に入りつつあった、山本内閣を足元から掬う事件が発生した。
シーメンス事件の発覚である。
山本権兵衛の実家とも呼べる帝国海軍で発生した汚職事件だが最初は小さな火種であった。それに盛大に点火したのがドイツ帝国・ベルリン発のロイター外電で、一連の汚職事件に関わったとされている二人の日本海軍将校の実名を掲載した。これが1月21日の出来事ではあるが、1月23日の第31議会就業予算委員会で立憲同志会はこの件を厳しく追求。本来なら弁明するべき山本内閣はあろう事か海軍増強案と増税案を提出。議会・民衆から激しい反発を受けた。
世論が沸騰する中、関係者と思われる人物の喚問や家宅捜索が実施され証拠品等が押収されると、2月7日には件の海軍将校、藤井光五郎海軍少将と沢崎寛猛大佐は海軍軍法会議に掛けられた。2月10日には野党である立憲同志会、立憲国民党、中正会が連名で衆議院に内閣弾劾決議案を提出し、同じ日に日比谷線で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、衆議院で決議案否決の報せを受け怒り狂い国会議事堂を包囲し突入しようしたが、警察と衝突。国会議事堂内部に入る事を防がれた民衆は翌日の11日になっても怒りは収まらず未だ集結していた。
通路で新聞売りをする少年に代金を払い、今日一番の朝刊を受け取る。ぎこちない笑顔で微笑む少年にお菓子一つ買えるだけチップを渡して新聞を広げる。紙の向こう側で少年が頭を下げトタトタと去っていく。
大見出しで書かれている国会議事堂前の乱闘は写真付きなので様子が良く分かる。文章には山本内閣を激しく批判する言葉の連鎖が印刷されていた。
「成彦はん。もう少し穏便には出来まへんか」
向かい側の席に座り、厚い冬着のコートを着ながら弁当箱の握り飯を頬張る大友さんが、不安を漏らした。
「もう遅いですよ」
「けど...」
「西園寺公や高橋大臣だけではなく、御上からも勅命を承ったのです。後戻りするには時期が過ぎました」
暗い顔して頭を抱えたまま下を向く大友さんの弁当箱の中から卵焼きをお一つ拝借する。上等な卵を使っているみたいでまろやかな甘味だ。
新聞には内閣批判以外にも海軍の不正に言及した記事も書かれており、その中に珠洲ノ宮成彦。私本人の名前を出していた。ここまで強気の記事を書ける事に関して本来、感嘆の念を持つべきなのだろう。大正の時代はまだまだ言論統制が厳しい。ただ、その勇気が後ろから押されたモノでなければの話だが。
「その記事を発行している新聞社に多大な献金が陸軍機密費から提供されている他、人の出入りも確認されています」
それまで目を閉じ隣で静かに佇んでいた風魔廉太郎がそう告げた。
「子飼いの連中?」
「恐らく」
「あ、そう」
あちらさんは色々と小細工をするのに苦労しているみたいだ。桂太郎に自らの権力を奪われまいと意地固になり、わざわざ欧州視察していた桂さんを呼び戻し内大臣へ押しやり、西園寺公が反抗すれば引っ張り出して、最後には世論の批判から逃れるためにトカゲの尻尾切り。
「標的に動きはある?」
「東京の邸宅からは何も」
動きはなし。私が派手に動いているのは分かっている筈なのに動いていないのは、工作に忙しいのかそれとも、自分に手出し出来ないと思っているのか。もし、後者の場合なら都合が良い。打って出る事も無くなる。
「相変わらず、まだまだだな。東京も」
窓の外を見れば木で出来た和式住宅が密集する市街地。町の中を野菜や魚を持って行き来する女達や、客引きをする魚屋、八百屋が軒を連ねる下町の商店街。あの眩しすぎる程、煌びやかで何件もの超高層ビルが建ち並ぶあの東京ではなかった。
「どうしたんですか?成彦はん」
「なに。ちょっと昔を思い出してね」
肩を竦めて答えをはぐらかすと、大友さんは同じように外を見て納得したのか何度も頷いた。
「今の東京は未開発の所が多いですし、高層ビルは夢のまた夢ですわ」
そう呟く大友さんの言葉を聞き流した。嘆いても何も始まらないし、何もしないのが嫌だったから、こうして動こうとしている。どうしても今の日本を見ていると昔の...前世の日本と比べてしまう。そして思ってしまう。日本とはここまで遅れた国だっただろうか。あの世界に称賛されたあの日本はどこに行ってしまったのだ、と。
「大日本帝国は自分達が行くべき未来像が見えていない」
「未来像かいな」
「これまで、日本は列強に追い付け追い越せと国民の犠牲を強いながら富国強兵を進めてきた。これは是清閣下の時にも語ったが、現在の帝国上層部は戦争で勝ったことで満足して思考する事を止めてしまっている。これから日本をどうやって発展させていくのか。その未来像が見えなくなっている」
「それが今まさにこの国で起きている停滞と虚無感やな」
「その通り。史実では第一次世界大戦の勃発で急激な経済成長を遂げたが、終戦後直ぐに衰えたのも、それが無かったのが根本的な原因でしょう」
私は前世では歴史を専門に学んできた、いっぱしの学生時代に大正・昭和の日本の状況をそう結論した。戦後の日本が敗戦にも関わらず奇跡の復活を遂げ再び世界に飛び出す事が出来たのは、負けた事で上がある事を知ったからだと思う。百聞は一見に如かず。実際に戦いその強大さを知り得る事ができたから上を目指す事が出来たのだ。
「戦後日本は敗戦した事により図らずも、富の大幅な再分配を戦災もしくはGHQ(連合軍最高総司令部)の占領政策により強いられました。そして連合国ひいては欧米諸国の隔絶した豊かさを改めて再認識しました。そこで日本国民はようやく統一された未来像を定め、残された財産を全て掻き集め国民全員が、血が滲み出る努力の末に、あの平成日本があったのです」
「しかし、今は大正日本やで。言うちゃ悪いけど過去の人達がそんな事を予想出来る筈ないやろう」
「そこです」
大友さんのその言葉を待っていた。指を差しながら未来の我々と過去の彼らについて話をする。
「明治・大正・昭和の日本人は勝つことしか知らない。正確には負けたことがない。これは平成日本の戦争に対する考え方が根本的に違う」
「それはそうやわ。大蔵省で働いているから軍人さんと話す機会が多々あるし、会う度に聞くんやけど怒鳴り返されるわ」
怒鳴られた時の事を思い出しているのか、苦々しい表情でそう語る。
「こいつは自分の意見やけど、あの顔を黙らせるのに未来の日本を教えた方が良いんちゃうか、て何回も考えたんけど止めてたで」
彼にとってそれが出来ればどんなに楽か。だが一回でもその事を漏らせば、良くて変人扱い、最悪の場合は激昂した軍人によってその場で切り殺される可能性がある。
「良く我慢出来ましたね」
「そんな大した事あらへんよ。やっこさんの痛い脇腹をチクリと刺したかいな。あっさり引き下がったわ」
「因みに痛い脇腹と言うのは?」
「アホ。言う訳ないやろ」
それはごもっとも。自分から情報源を故意に漏らすのは、既にそれ自体に価値が無いに等しいか、間抜けが口車に乗せられて口を滑らすかのいすれかだ。
「ところで未来の記憶を持つ我々が過去を支配しようとする事について傲慢だと思いますか?」
その質問を聞くと腕を組んだ大友さんはこう言い始めた。
「難しい話やけど...傲慢やと考えるなぁ」
「それは何故」
「いやだって、儂らがやろうとしてる事っていわゆる歴史改竄やろ。ほら、そう言うのはやっていけない事やってテレビで放送してたやろ。あの猫型ロボットの話でさ」
「ふーん......廉太郎はどう考える」
矛先を変えて過去の人間である風魔にぶつけてみた。口を固く一文字で結び会話の邪魔にならない様にしており、今では珠洲ノ宮家直属諜報機関として日本の裏社会にその名を再び響かせつつある風魔の棟梁、風魔廉太郎は重々しい自らの考えを喋り出す。
「私には殿下が考える遥か未来の事など想像する事が出来ません。ですが、御身が為されようとする蛮行は東の都に住まう全ての者が殿下に畏怖の眼差しで見る切っ掛けになるでしょう。殿下はそれを承知で決行される。我ら風魔衆は歴史の奥深くに埋もれ消え逝く所を拾われた身。この御恩を返すまで御供させて頂く所存」
その考え方に気づかれないようにそっと溜め息をする。私が聞こうと思っていた事はまるで違う言葉が返ってきた。これまで何回か感じて来た事ではあったが帝国時代の日本人は忠義に厚過ぎる。勿論、それは美徳だが行き過ぎれば毒にもなる。
「うん、良く分かった。これからも期待しているよ」
「御意」
廉太郎に労いの言葉をかけ、話題を変える為に手荷物からあるモノを取り出し大友さんをこう誘った。
「新しい軍用御握りを考案したのですが、お一つどうですか」
「さっき妻の弁当を食べたばかりですが...頂きましょう」
そう言う大友さんに木製の弁当箱からラップ代わりに で包んだ御握りを渡し、隣の廉太郎にも一つ渡した。
「これは...白米と...玄米?」
新しい御握りを見て最初の一言は疑念に満ちたモノだった。白米特有の白さに玄米の黒さが混じった御握りで、大友さんだけではなく同じように包みを開けた廉太郎も少しばかり困惑していた。
「その御握りは白米と玄米の比率を3対1の割合で作らせたモノです」
私はそう説明すると二人は怪訝な顔をした。
「玄米には知っての通り各種ビタミンが豊富です。本当なら100パーセント玄米にしようと色々と試行錯誤したんですが、兵士達の士気を考慮した結果。玄米の味を白米の甘さで美味くする事になり、この分量になりました。......どうぞ試食を」
勧められるままに口に玄米入り御握りを口に運び食べる。しばらく無言のままだったが、口に残った分を飲み込んで感想を言い始めた。
「味については悪くはないで」
「やはり玄米特有の問題はありますが、軍用食として考えれば問題ありません」
二人の感触は悪いモノではなかった。これで正式に採用しても問題ない。大友さんは大蔵省の重鎮だし、風魔衆棟梁として活動する廉太郎から反対がなければ戦飯として十分使えると言う事だ。
「大友さん。私の計画が成功した場合、約束して貰った事、ちゃんと守って下さいよ」
「言われんでも分かっているがな」
その返事に笑顔を浮かべて頷く。大友さんはちょっと苦い顔をしているが、約束は約束。しっかり履行してもらう必要がある。
約束と言えば、満州独立の一件が無事に収まり日本に帰ってきた時、富さんに北海道まで呼び出され重い拳骨を貰った。その時、ふざけてしまい、ある定番ネタをやったのだが、富さんの怒りは収まらず更なる大噴火を招き、又吉さんを恐怖のどん底に陥れた。
それは置いておこう。富さんからの説教は長かった。足が痺れて悲鳴を上げようが情けは一切無かった。途中から松永さんや龍造寺さんも参加して寄って集って(たかって)来たが、富さんから『何であんたら二人は事前に止められなかったんだい!!』と三人仲良く正座させられた。
三人で必死に中国勢力からの満州完全独立化による日本が得られるメリットを説明し、何回か拳骨を貰ったがなんとか許してはもらえた。
富さんは孫ほど年の離れた私の事を可愛がってくれた。満州独立戦争の際には危険を承知で部隊の先頭に立って戦う私を心配した上での行動らしい。
「ツァーリ」
私をロシア語で皇帝と呼ぶ酔狂な連中は日本では一つしかいない。本当に何でツァーリ、ツァーリと呼ぶのだろうか。
体ごとそちらに向けると直立不動の態勢で立つロシャーナ連隊長のゲルビルがおり、敬礼してきた。
「間もなく到着すると車掌から連絡がございました。準備を」
「分かった。大飯喰らい共は」
問題児共について聞いてみると顔を顰め、溜め息をしながらこう言った。
「後ろの車両で爆睡しています」
「あいつら・・・、叩き起こせ!!仕事だと伝えろ!」
「ハッ!」
私が大声で命令すると、ゲルビルは駆け足で後部の客車に続く扉に向かうとその向こう側に消えていった。暫くするとゲルビルの怒鳴り声と一緒にラッパが鳴り響く。バタバタとしながら戦闘準備を開始した野郎共の怒声が聞こえる中、私は打鉄を鞘から抜き簡単な手直しを始める。手直しと言っても綿棒で汚れを落とし和紙で拭き取るくらいしか出来ないが。
横に座っている廉太郎が綿棒を差し出し、それを受け取った私が抜刀した打鉄をポンポンと優しく埃や見つけた小さな汚れを落としていると、大友さんが不安材料を口にした。
「ところで陸軍が抵抗したらどないすんねん。成彦はんの兵隊さんは2千人いかないやろ。やっこさんは小さく見積もっても第一と近衛を動員出来るやろ。そうなると2万以上いるで最低」
発足以来、唯一、帝都守護を任とする近衛師団と関東防衛を任された東京第一師団の師団長は派閥関係から、どちらも長州閥の人間が務めていた。1500人を少し超えるだけのロシャーナ連隊では、押し潰されるのは目に見えている。
「大友さん、例え話ですが、近衛、第一両師団の師団長が急に指揮が執れなくなったら、どうなりますかね」
「はぁ?そんな都合が良い話ないない。片方ならまだしも両方を動かす事が出来んのは陸軍の偉い人ぐらいやろ。それに近衛師団は形式的に陛下直属やで。それを動かせるのはそれこそ陛下ご自身じゃな・・・いと」
例え話の意味が分かったようで錆び付いた歯車のように動きながら顔を引き攣らせた大友さんに、悪戯が成功したと笑顔を浮かべる成彦。
「今頃、宮中でご機嫌な陛下に色々されているでしょうな」
首を小刻みに頷かせる成彦。それに対して大友だけではなく廉太郎も極太の冷や汗を掻き必死にそれを拭っている。必要であれば親でも使えの格言があるが、まさか国家元首たる天皇自身を利用するとは思いもしなかった。
愛刀を念入りに拭き隅々まで綺麗になったのを確認すると、窓から差し込む太陽の光に当てる。すると、打鉄の刀身が薄く赤くなって輝く。魔性と評すべき輝きを放つ打鉄の状態に満足した成彦は鞘に納刀する。
「ゲルビル!」
己が信頼を寄せる忠実たる部下を呼ぶ。母なる祖国を捨て遥か彼方の極東の島国に住む小さな皇帝を主君と仰ぐロシア人は直ぐに飛んで来た。
そして成彦は通達した。
「全連隊将兵は予定の行動を開始せよ。交通機関を押さえる事で帝都全域を確保する。そして反逆分子を一気に纏めて捕える。簡単な事だろう?」
「問題ありません。ツァーリの御前に不届き者達を引きずり出してきます」
ゲルビルの言葉に満足すると、成彦は窓際から外を見る。煙突から石炭を盛大に消費し排出される黒々とした煙は空高く舞い上がる。この日の為に特別に用意された機関車が大量の客車を馬力にモノを言わせて引っ張っていた。機関車のその先には終点が見えている。
「ご、ご乗車のお客様に申し上げます!」
顔を真っ青にしながらそれでも職分を果たそうする車掌がわざわざ成彦の前まで来た。ゲルビルや廉太郎から鋭い眼差しを受けながら終点駅に到着する事を成彦に伝えた。
「も、もう間もなくこの列車は帝都、東京駅に到着致します!お、おぉぉぉ荷物のお忘れがないよう、ごごご注意くださいませ!」
「ご苦労。下がって良し」
車掌はその言葉に思わず安堵しながら、やたら背がデカい外国人と明らかに普通じゃない雰囲気の男から逃げるように下がって行った。
それを見た大友が思わず吹き出したが顔を上げれば引き締まった表情で成彦を見つめていた。
「成彦はん。また今度」
「大友さん。おおきに」
短い言葉の遣り取りだったが二人にはそれで充分だ。自分達が起こそうしているのは、幕末・明治から延々と大日本帝国の骨組みを築き上げた偉人の一角に盛大なる反逆を売る事になる。仕込みは贅沢過ぎるほど済ませた。もし万が一失敗したら、それは歴史の改変を許さない修正力によるモノだろう。
席から立ち上がった成彦は客車の出入り口まで歩き、そこで足を止めた。体で体感出来るくらいに速度を落とし始めた列車。
そして列車はゆっくりと車輪のブレーキ音を東京駅のホームに響かせながら止まった。右足を上げ、その状態のまま成彦は気軽な口調で言った。
「さよなら日本。初めまして日本!」
過去と決別した宣言した勢いそのまま扉を蹴飛ばした。
「班長!班ちょーう!」
幾本もの線路が複雑に交差しているのは、関東全域を走る機関車が疲れ切った体を癒し故障した部品を交換・修理する東京・車両基地。順番待ちしている機関車の合間を通り抜けながら新人の機関修理士は自分の上司を探している。目当ての人物は線路脇沿いの事務所の入り口前に置かれた喫煙所で煙草を吸いながら列車を眺めていた。
「班長!」
「いちいち大声で言わんでも聞こえているわ。で、どうした」
吸っていた煙草を灰皿に押し付け新しいモノを口に咥えてマッチで火をつけてから、ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返す新人に用件を聞いた。
「それが、さっきから妙な貨物列車が進入していまして」
「妙な列車だぁ?」
車両基地のドンである総監督が居ない今、ここを仕切っているのは班長であった。今日の車両整備予定には貨物列車は含まれてないはず。それは、こことは離れた場所にある別の基地でする筈。来ても修理のしようがなかった。
「それで、追い返したんだろうな」
ホウレンソウがキチンと出来ていない見習い機関士が間違って来たんだろう。そう思った班長は新人にそう聞いた。
「それが・・・機関士が見当たらないです」
「・・・ハァ?」
思わず強い口調で聞いてしまう。新人は班長の雷に怯えながら二人居る事が義務付けられるのに機関車には誰一人見つからなかったと言う。
「貨物の中は確認したか」
「いえ、していません」
「このアホォ!最後まで確認しとけや!間抜けが!!」
故障の原因は草の根掻き分けてでも見つけ出せ、と日頃から叩き込まれているにも関わらず確認を怠った新人に特大の雷を落とした。班長は灰皿に煙草を乱暴に押し付けると、着ている作業着を軽く掃って立ち上がった。新人を連れて件の貨物列車の所まで行くと、班長の体がムズムズしてきた。日露戦争に徴兵され鉄道工兵として参加した班長は、貨物列車が不自然に静かである事を感じ取った。
「ヤバイ事が起こりそうだ・・・」
そう呟きながら一度だけ貨物列車の周りを一周するが、物音が全くしなかった。
「おい!誰かいるか!」
呼びかけてみたが一切返事がなくシーンとしていた。それに怯えたのか新人が近寄って来た。
「班長。もしかして幽霊列車だったりしませんよね・・・」
「幽霊なんかいるもんかい!こちとら灰に塗れて10年以上だぞ。シャンとしやがれてんだ」
そう言いながら内心、不安を憶えながら目に付いた一両の貨物車の扉の前まで歩み寄る。貨物車にはこれといった傷や汚れがついてはいないが、年季が入っており木製の壁は程よく色あせている。
意を決して横開きの扉の手摺に手を掛ける班長を見た新人は慌てて反対側の手摺を掴んだ。二人は息を合わせて「せーのっ!」で開けようとした瞬間、その扉は二人が引いて開ける前にスパン!と音を立てながら勢い良く開いた。
力を込め開けようとした二人は予想外の事態に力の慣性が働くままに転がった。軍隊上がりの班長は体に叩き込まれた経験で、直ぐに起き上がろうとしたが、上半身を何者かに押さえつけられ地面に組み伏せられた。
「Это(素晴) здорово(らしい)、さすが我らがツァーリの祖国だ。第一線を引いた者ですら何と素晴らしきことか。これがツァーリが生まれし新たな母国!我々が求めた成長著しい宿り木。これこそ我らが至らんとする姿。神よ!!古き母なる大地を捨て今や世界に覇を唱えんとする新たなこの国に祝福おおおぉぉぉぉぉぉお!!!!」
目の前を見れば大声で空に向かって何かを言いながら祈るヤツが居た。その服装はキリスト教の司祭が着る一般的な儀礼服であったが、肩には何故か階級章が縫い付けてあり軍帽を被っていた。
そして、その肌は日本人に比べて白く目は青かった。
「ロシア...人!?」
この日本で一番多い白人の人種はただ一つ。珠洲ノ宮成彦隷下の外人部隊、ロシャーナ独立機動連隊。満州独立戦争の戦功により改名され、正式に珠洲ノ宮家の私兵部隊として認可された。当初1,500人前後で編成されていたが、補充兵や新たに徴兵された分も含め2,000人まで増強されている。
「信号弾を撃て、我らが家族に狼煙を知らせろ!各分隊ごとに建物を制圧しろ。特に通信所は確実に!」
意味不明な奇声を上げているロシア人の隣でテキパキと指示を下すのは別のロシア人で、周りのロシア人兵士達もそれに従っていた。信号弾が空高く光り輝くと、班長と新人の二人は拘束されたまま事務所の前まで連れていかれた。
建物の中から同じ様に捕まえられた同僚達が続々と出て来た。銃剣を突き付けられ恐怖に染まった表情で二人の近くに座ると、二人も座らされた。
「な、何が起きてんだ」
「俺達、どうなるだべ」
「儂らは誓って悪い事はしてないぞ!」
口々に不安の声や無実を訴える整備員達。それに対してロシア人兵士達は極めて冷たく淡々と対応した。
Pan!!
「黙れ!抵抗しなければ一切の危害を加えてならぬと、我らがツァーリから言われている。殺されたくなければ静かにしていろ!」
拳銃を一発、空に向けて撃った副官と思われるロシア人指揮官と、眼前でこれ見よがしに小銃に弾丸を装填するロシア人兵士達に、恐怖を憶えた整備員達は両手を上げ抵抗する意志が無い事を必死にアピールした。
そんな緊張状態の中、汽笛を鳴らして次々と車両基地に進入してくる複数の貨物列車を車両基地を制圧したロシア人達が誘導し、停車位置で止まると士官クラスのロシア人将校が口に警笛と手には拡声器を持って駆け寄った。
ピー!!ピー!!ピー!!
「降りろー!クソガキ共!!」
続々と貨物車からロシャーナ連隊第7中隊の将兵が完全武装で出て来たが、警笛を盛んに鳴らし罵声を吐く将校の前にある一台の車両には、周りのロシア人達より一回り若い兵士達が不安げ面持ちで外を見ていた。一向に降りようとしない姿に切れた将校が一人また一人と引きずりだしていく。
「ツァーリには困ったものだ。基本訓練を修了したばかりの新兵を、我々に押し付けるとは」
「ミザボア大尉。それ以上は」
「ええ、分かっていますよ。満洲では置いて行かれ帰って来たと思ったら、ヒヨッコの教育させられる。まったく私の第七中隊はどうも教育隊としての性格が強いですね」
新兵たちが一人ずつ降ろされていく光景を見てミザボア大尉はそっと呟くが、それを聞いた将校の一人が窘める。
モアランカ・ミザボア大尉率いるロシャーナ連隊第七中隊は中隊長であるミザボア大尉を見れば分かるように、その指揮官クラスは旧ロシア帝国従軍司祭でその多くが構成されて宗教色が以上に濃い部隊だ。何故、このような部隊が作られたかと言うと、一番の目的が慰安だからだ。ロシア人たちが信仰している東方正教に奉仕している司祭に軍役を課すことで、いまや1万人を超えた在日ロシア人たちに間接的な影響力を及ぼすこと。更に文字数字を教えることに関して長けた司祭たちを集中させることで、半永久的に教育を一気に握ることであった。
この成彦の目論見をロシャーナ連隊各中隊長は把握していたが、これを是としていた。孝明天皇の未子である珠洲ノ宮御井彦を父。叔父に明治大帝。甥は嘉仁(大正)天皇。甥っ子に裕仁親王(皇太子時代の昭和天皇の称号)を持っている成彦は、ロシア人たちにとって圧倒的な権力で自分たちを保護してくれる存在だ。今更、生まれ故郷であるロシアに戻っても白い目で見られる。ならば恵まれた環境を提供してくれた成彦に賭けるしかなかった。今回の凶事に加担するのも成彦の政治的権力を盤石たるものにする為である。
そして、珠洲ノ宮家第二代。珠洲ノ宮成彦は先の満州独立戦争で被った損害の補充と、最新鋭の三八式小銃への装備改変を終えたロシャーナ連隊に帝都全域の制圧を命じた。各中隊ごとに目標が設定され、特に最重要人物たる山縣有朋を捕える任を受けた部隊は、アメリカ製のある武器を支給されていた。
空を見上げたミザボア大尉は高らかに謳い出した。
......如何に自分が仕える小さき可愛らしい皇帝が、紅蓮の執念を宿し立ち塞がる全て者を憎んでいるか。
......如何に不退転の決意を持って、国を愛して憎悪し憐れんでいるか。
......如何に自らの運命を天に捧げ、天命を変えようとしているのか。
「汝の道は茨に道!されど辿り着く先は、なんぴとたりとも理解されず孤独の地獄なり!されど汝は歩みを止めぬ。止められぬ!」
「ならばせめて!せめて拾われたこの身!貴方に捧げよう」
「我らは望んでいる。ただ一つの人形になることを」
『我らはロシャーナ!!小さき我がツァーリの戦争人形なり!!!!』
『我らは死を恐れず、恐れるのは衰退なり!!』
『座して腐る道は死と同義!されば時を変えよ!流れを変えよ!未来を変えよ!!』
「『大河を越え我らは超える!その身は山と化し!水となりて川に集う!流れ、我らはやがて大洋へ姿を変えよう!!』」
大合唱をするロシャーナ兵士達に、日本人の整備員達は畏怖と恐怖の目で見つめる。空に届け届けと謳い上げるロシア人。
これは将来の、成彦の未来の姿かも知れない。同類からは異形の存在として見られ、僅かな可能性を頼りに歩む、ただ一人の末路かも知れない。
だからこそ歌う。絶望の淵から拾い上げてくれたお人好しの一人の日本人の為。孤独な背中をせめて一押し出来るように。どれだけ血に塗られようと、その道を辿れる存在になりたいから。
我らの絶対なる忠を。我らの命を。我らの死を。
貴方に捧げます。
『汝が信ずる神々に見せよう!!我らが生き様を!我らが死に様を!我らが歓喜をツァーリに!!!ypppaaaaaaaaaaaaaa!!!』
狂気の声に震え上がる天に、誰にも聞こえない鈍くひび割れる音がした。それを八対の目を持つ大蛇が、喜びを感じながら捉えていた。