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はじまりと脱出

和睦したとはいえ敗戦国の王女。

贄のように差し出され、平和のためのという名目で利用されるしか価値のない女。


「処刑を免れただけでも良しとしましょう、……ね」


ハーレムの奥、まるで光が差し込まないうらぶれた離宮。王の妻は何人もいるが、離宮の豪華さで愛が測れるのは、イスミンですら知っていた。


祖国では白薔薇と称された美貌も、月のようだと褒められた白金色の髪も、ここではなんの価値もない。

王の好みは滑らかなレンガ色の肌と黒曜石の髪も、豊満で女性らしい体つきだとウワサで聞いた。


朽ち始めたような窓辺に腰掛けたイスミンは、己の腕をついと上げて眺め、ほそくため息をついて腕を降ろした。


「結婚を破棄なさるなら、早々に処刑していただきたかった」


敗戦国からの貢物としてやってきたイスミンは、一週間前に「王はそなたを娶らぬ」と通知を受けた。ハーレムにきて三日後のことである。近衛兵でもない鎧の兵士から告げられるとは、無価値の烙印をおされたと理解しなくてはならない。


イスミンは白魚のような指を組み、口元まであげて瞼を閉じた。長い睫毛が美しい曲線を描き、清廉な表情はまるで敬虔な神の信者そのもの。


「どうか……」

「どうか、王が不幸になりますように」


囁くほどの声だったが、しっかりと意思を持って願う。絵画のように完成された横顔はどこまでも静かだ。

そうしてイスミンは顔をおこした。


「こんなにも人を処したいと思ったのは初めてですわ……」


うつむいたせいで流れた髪を耳にかける。

ふうと再びため息をつき、窓の外の景色をなんとはなしに視界にいれる。こうして日が傾き、夜になるまで待つのがイスミンの一日だった。


「イスミン様、イスミン様」


夕刻になり、イスミンの離宮の扉が叩かれた。まだ少女という年齢のコマ使いが来たのだ。


「ああ、ニーネ。今日も来てくださったの」

「は、はい。イスミン様。本日のお食事でございます」

「カキリク様には感謝を申し上げなくてはいけませんね」


イスミンが微笑むとニーネは頭を下げた。カキリクはハーレムで二番目に力を持つ王の妻だ。


イスミンに自国から呼ぶのも許可されず、かといって使用人も侍女もコマ使いも用意されなかった。結婚を取り下げられてからは食事を持ってくる召使いさえ来なくなり、この一週間はカキリクからニーネを通して食事が用意された。食事が届かないということは死せよということだが、イスミンはカキリクのおかげで生きていたのだ。


「わたくしに慈悲をおかけくださるカキリク様に、どうか必ず、感謝をお伝えしてくださいね」

「は……はい。あの」

「なぁに?」


食事の乗った銀盆を受け取ったイスミンに、ニーネはおずおずと声をかける。


「こ、これは、独り言でございます」

「ええ」

「本日は西門の警備がいなくなります。芍薬の道を通って、孔雀像の背後の垣根を通れば使用人通路へ出られます。あとは明かりのない小路を辿れば、そ、外へ出られることでしょう」

「……まあ」


イスミンが目を見開き、声も出せずにいるうちにニーネは「失礼します……っ」と走っていってしまった。

銀盆を黒大理石のうえにそっと起き、イスミンは考える。すべらかな頬に手を当て、ほんの少し首を傾げた。


「……罠かしら」


カキリクとはハーレムに入るときに一度挨拶をしたただけだ。たおやかな雰囲気の胸の大きな女性だったが性格まではわからない。食事を手配してくれたときは毒を警戒したが、今日まで何事もなく過ごせた。


「たしかに丁度いい頃合いですものね」


イスミンがカキリクを信じだす期間ではある。だが年端もいかないコマ使いに言伝け、しかもカキリクからだとは一言も告げられなかった文言。


イスミンはならでできた椅子にゆったりと座り、銀盆から食事をはじめた。


「……やることも、ありませんしね」


スプーンに掬われたスープには、微笑むイスミンが反射していた。



その夜。

西の庭園がら火の手が上がった。白白とした煙と、ハーレムを警備する者たちの怒号。


「合図ですわ」


地味な布を頭からかぶったイスミンは扉をそっと開き、足音もたてずに離宮を歩き、そのままハーレムを抜けだしたのだった。




砂漠の城下町。

水場があるのはこの国だけで、砂漠の交通の要の街でもある。

夜であるにも関わらずそこここにランプが灯り、異国の者たちが行き交っていた


「よぅ、嬢ちゃん、オレたちと飲もうぜ」

「………」


なるほど、とイスミンは納得した。

街に出て犯され、失意と絶望に打ちひしがれて死ぬ。王女の身ではもっとも過酷な最期だろう。


「無視してんなよアバズレが!」


酒臭い男どもが手を伸ばしてくるのを、イスミンは上空へ跳んで避けた。くるりと一回転し、片手はヒジャーブを抑えているので、着地は左の手のひらで。

ざッ、と足をつくと、男たちはあ然としていた。その間にイスミンは周りを確認する。


屋台のテント、馬車、幌、外壁。自分の胸元には宝石のついたネックレス。


「お隙に失礼いたしますわ」


イスミンは優雅に礼をすると、まずは屋台の木箱を踏み台にテントへ跳ね、沈み込む寸前で馬車の幌へ移る。そこから近くの木に手をかけて、反動をつけて外壁の上に立った。


「まあ、高い」


飛び降りては骨折しそうと判断したイスミンは、拳二つ分の幅の外壁を走り出す。

しばらく走ると外側に細い木があった。足がかりにして砂漠へ降り立つ。

壁の向こうからは、外壁を走る人間へのざわめく声が聞こえてきた。


「短い間でしたが、お世話になりましたわ」


イスミンは優雅に頭を下げた。


「数々の無礼は、食事とわたくしの幸運と、そして町民の施しをもって差し引き無しにいたしますわね」


袂には水の入った革袋が三つ。

はじめの屋台からネックレスをお代にいただいてきた。


イスミンは街へ背を向けると、空を見上げた。


「あれが北の王星、あちらが東の姫星……ならばこちらですわね。夜が開ける前にたどり着くと良いのですけれど」


砂地をもとろもせず歩き出す。


砂漠のどこかには伝説の魔女がいる浮島があるという。何千年もの間を生き、すべての生き物を支配できる魔女、キルケー。

キルケーが最後に人と関わったのは今から五十年ほど前の青嵐戦争のとき。だから実在はしているはず。


「弟子をおとりになる主義であれば良いのですけれど」


ハーレムから非合法に脱したイスミンには、もはや帰る場所はなかった。祖国にも近く罰が下る可能性もある。

イスミンは立ち止まり、ヒジャーブを被り直すと深呼吸をした。


「欲望の強さが、意思の強さが、魔女へ導く」


目を閉じて唱える。

キルケーに会うための言葉。魔女はすべてを理解し、会うべきものの前に姿を現すらしい。


イスミンを星を閉じ込めたように輝く瞳で砂漠を見た。

夜が明ければ灼熱の砂漠。あっという間にひからびて死ぬ運命。


「棘だらけの白薔薇と、運命の、一騎打ちですわ」


祖国の渾名を胸に抱き、イスミンはもう立ち止まらなかった。

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