同級iii ②
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9月に入ってから、風のある日の夕方はと随分涼しくなったように感じる。陽が沈むのもだんだん早くなっていく。6時過ぎにはもうすっかり暗い。
なんだかんだ着いてきてもらってよかった。
2人並んで海沿いの道を歩いていた。
急ぐでもなく、名残惜しむわけでもなく、漫然と。
「榛原君って自転車通学じゃなかった?」
「体育祭終わるまでは徒歩で通学することにしたんだ。特に……理由はないけれど」
……理由はないと言うが、どう考えてもリレーのためだろう。どうにも彼は自分の感情を語るとき、ぼかすところがあるようだ。
「……色塗り、2人でやってよかったよね。1人だったら終わってなかった」
「そうだね。碧海さんが来てくれて助かった。ありがとう」
彼は微妙な笑みを浮かべた。別に今日、急いで完成させる必要もなかったのだろうか。彼なら明日の日曜も平気で学校に来て、1人で完成させていたかもしれない。……それで多分、誰にも自分がやったとは言わないのだろうな。
なんとなく眠っている間に妖精が靴を作ってくれるという話を思い出した。
「そういえば、碧海さんは何しに学校に来てたの?」
「課題をやりに来てただけ。……一応、人がいたら看板手伝おうとは思ってたけど」
少し間があった。それから思いついた冗談でも言うように
「僕、いない方がよかったかな」そう言った。
……どうしてそういう事を言うのだろうか。
私が露骨に顔をしかめると、彼は慌てて、自虐とかじゃなくて……単純に課題の邪魔だったかなって……そう取り繕った。怒るようなことじゃない。少し……言い方がよくなかったというだけの話だ。息を吐いて、話題を変えた。
「数学の課題って、もうやった?」
「やりました。いや、やったよ」彼は成績がいい方だったような記憶がある。……相当前の記憶だが。
「最後の問題も判った?」うん、と当然のように答える。
「よかったら、教えてくれない? それだけ考えても判らなくて困ってて……」
もちろん、と彼は頷いた。
近くの公園で教えてもらうことにした。
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外灯の近くのベンチに腰掛けると、可愛い鳴き声と共に小動物が榛原君の膝に飛び乗ってきた。猫だった。茶色いトラ猫。あまりの勢いの良さに少し驚いたが、彼の方は慣れているようだった。
「トラ、ちょっと待ってて。ちょっと宿題やるから」
トラ猫は話を聞いているのかいないのか、彼の膝の上で丸く収まりゴロゴロと喉を鳴らし始めた。……なんかすごいな。
「問題集と……あと、何か書くもの貸してもらっていい?」
言われたとおりに問題集とノートとシャープペンシルを渡すと、彼は膝に乗せて書こうとしたが、その場所は猫に占領されていたので、仕方なく掌と腕で支えるようにしてノートを支えて式を書き始めた。そして書き終わってから、ノートを返して解説をしてくれた。
「すごいね。これ、自分で考えたの? 頭いいね」
感心して見せたが、よく理解できていなかった。帰ってから確認しよう。多分、落ち着いて考えれば判る、はずだ。
「いや、頭はよくないよ。ただ解き方を知ってたってだけだから」
彼の話によると、これはどこかの大学入試の過去問だったようで、図書室に置いてあった参考書で読んだことがあったのだそうだ。
「へー、勉強熱心だね」「他にすることがなかっただけ、帰宅部だし」
そんな彼が高校をやめてしまうのか。私よりもよほど頑張っているだろうに。
「高校やめちゃうんだよね……。もったいないと思うけど……」
私が言っても仕方がないとは思ったけれど、つい口に出してしまった。高校は出ておいた方がいいと思うけれど、と受け売りの言葉が頭に浮かんだが、それは言わなかった。彼がそのくらい、考えていないわけがないだろうから。
「まあ、仕方ないよ。結構悩んだけど……僕は特別勉強したいこともないし……」
あれこれとどこかで聞いたような常識的な意見が頭に浮かんでは消える。何を言えばいいんだろうか、言葉が見つからない。なんとなく、彼の膝の上で寝息を立てている猫の頭を撫でた。すると猫はムニャムニャと口を動かした。
「そういえば……碧海さんは心理学に詳しい?」
「あ……まあ、それなりには……」
「さっき読んでた本でローゼンタール効果っていうのがあったんだけど……」
ローゼンタール? ……ああ。
「ピグマリオン効果のこと?」
「そう……それ。あれって本当なのかな? 期待されたら成績が上がるって……。その逆もあるんだよね。ゴーレム効果って……」
「まあ、実験でそういう結果が出たってことだから、本当なんじゃないの」
ピグマリオン効果というのは褒めて伸ばす、というのに近い。期待されれば、人はその期待に応えようとし……ゴーレム効果はその反対。ローゼンタールというのはこの効果を提唱した心理学者の名前だ。ローゼンタール効果とも呼ばれるけど、ピグマリオン効果の方がメジャーな呼び方な気がする。
「あの本に書いてあったわけじゃないけど、人間の性格って幼児期の環境に影響を受けるって聞いたことがあるんだけど……やっぱり、酷いことばかりされて育った子供って、ちょっとやっぱり……歪むっていうか、普通にはならないのかな」
彼は深刻そうに続けた。
「それは……多分、ね」あんまりいい加減なことを言うべきではない気がした。
「そういう人って普通に戻れるのかな」
そもそも普通だった時期が存在しないのか、とブツブツと小声で続けた。
誰の話をしているんだろうか。
「……ハルハラ君は自分が普通じゃないって思っているの」
「そういうわけではないけど、でも……僕って普通に見えるかな」
怖い質問のような気もしたが、多分他意はないのだろう。
「見える、けど」
「……でも、普通じゃなくても普通の人の振りをすることってできるよね。テストで数学の問題が判らなくても、カンニングすればいい点数を取ることはできる。でも、それで頭がいいってことにはならないよね」
ちょっと面倒になってきたな。実は社会には普通の振りをした危険人物が紛れているとかそんな話なのか。哲学ゾンビみたいな。
「普通の範疇って、曖昧なものだと思うけど。……自分のことを危険人物だと思ってるの? そんな風には見えないけれど」
そうだとしたら膝の上で寝息をたてている猫は、ちょっと危機感が足りないかもなと、また頭を撫でてあげた。
「そういうわけではなくて。そういう人って、あ……僕じゃないよ。でもいつかバレると思う。そしたらきっと変だって……思われて嫌われるんじゃないかな。そういう人ってどうやって生きていくんだ、ずっと……」
…………。
「まあ……ハルハラ君はふつうじゃないねえ」
息を大きく吸ってそれから、わざと芝居がかったように言ってみせた。彼は、え……と見るからに狼狽えた。
「皆がやりたがらない仕事をやって、猫に好かれて、数学も教えてくれて、普通に考えればいい人なんじゃない」
いい人……そうか。彼は呟いて、安堵したように笑い、また猫を撫でた
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猫は彼の膝から動く気配がなかったので、一人で帰ると言うと。彼はそう言うわけには行かないと寝ているトラ猫を持ち上げて「またね」とあいさつをした。猫は暫く抗議するように鳴いていた。
家のすぐ近くで別れる際、「さよなら」と彼は言った。
(猫には『またね』、私には『さよなら』か……)
「送ってくれてありがとう。今度その数学の参考書、教えてよ。……それじゃ、また」
「あ……僕も心理学のこと教えてくれてありがとう。碧海さんはきっといいカウンセラーになれると思います」
そう言って帰っていった。別に……カウンセラーになると言った覚えはないんだが。
自室でベッドに寝転がり、天井を見上げ考える。
(普通であることに固執していた彼にかけるのは、あの言葉でよかったのだろうか)
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月曜日、急にカラーになったサメを見つけて、クラス中がざわめいた。
当然誰がやったのかという話になったのだが、榛原君は別にどうでもいいとでも言わんばかりにまた心理学の本を開いていた。今度はノートにメモを取りながら。報酬系の異常、という文字が見えた。
(……本当に妖精の仕業にでもする気だろうか?)
皆には私から、榛原君と私で色を塗ったと伝えると、感謝され、茶化され、そして数分後には何事もなかったかのように静まった。
(こんなもんだよな……)やや落胆して席に着く。
下絵を描いた見浪さんだけはまだサメの絵の前に立っていた。下手だとか文句を言われたら嫌だな、と思っていたが、普通にありがとうと感謝された。それから海の色を塗ったのはどちらだと聞かれた。榛原君だと答えると、納得したようだった。
どうして判ったのかと聞いてみると、昼間の絵なのに夜の海みたいな色だから、と言っていた。
その日のうちに、榛原君は参考書の名前を書いたメモを渡してくれた。
それからは特に話すこともなく、彼は高校をやめていった。
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彼が高校をやめたからと言って、何か特別変わったことはなかった。私も含めて、薄情な気がした。けれど何かしてあげられるほどの力も私たちはもっていない。
普通に時間が過ぎて言って、気が付いたら3年生になり、受験生だということで頑張っていたら夏休みに入っていた。
――2019年 8月中旬――
心理学を学ぶことについて、別に何か反対されたわけじゃないが、なんだかこれでいいのだろうかという、漠然と不安になっていた。
出来のいい奴には医学部に入って精神科医のルートの方がよいと、言われたがそんな頭もない。
(……というかなぜ皆、私がカウンセラーになる前提で話してくるのだろうか)
このまま勉強を続ければ、どこかしらには受かるだろう。可能なら国立に行ければよいが。
連日の模試と夏季の補修もひと段落して、短いお盆休みに入った。
ふと、榛原君はどうしているのだろうかと、気になった。
クラスの噂話では彼は定食屋と、博物館でアルバイトをしているという話だった。定食屋には入りづらいが……博物館ならまあ行ってみてもいいかもしれない。深海の様子や潜水艇を知るのはそれなりに気分転換になるだろうし、……多分。
■■
彼が高校をやめてから、一度だけ姿を見かけたことがある。
海沿いの道を歩いていると、なにかが花火でも上がるような音が聞こえて来た。おそるおそる浜辺の方を覗いてみると、2人組の男がペットボトルロケットを飛ばしていた。
……関わらないでおこうと思ったが、よく見ると墜落したロケットの回収に走らされているのは榛原君だった。発射しているのは金髪の外国人、に見えた。
(……いじめ?)とも思ったが、2人とも割と楽しげだった。外国人の方はそれなりに老けて見えた。年齢だけで言うなら親子と言っても問題なさそうなくらいではある。どういう関係なんだろうか。
榛原君が飛距離を読み上げ、もう一人の男性はそれをメモしていた。どうやら角度を調整して飛距離を調べているようだ。科学教室か何かだろうか。男性は野球帽を後ろ前に被っていて、その野球帽には『NASA』と刺繍がされていた。
(……NASAの職員? そんな訳ないか)
楽しくやっているみたいだな、と一人で勝手に安心した。
■■
博物館に行ってみた。
1度目は会えなかった。次の日も行ってみたが、また会えなかった。偶然会えるのを待つというのもなんだか馬鹿らしくなり、売店で何か買うついでに店員さんに聞いてみることにした。この場合はどちらかというと、話しかける口実に物を買うという方が正しいか。
売店で手ごろな商品を探す。淡い水色をしたデジタル腕時計が目を引いた。人魚のシルエットがデザインされていた。あまり売れていないらしく、値札シールが何枚も重ねて貼られているのがそれを物語っていた。滅茶苦茶な値引きがされていて半値以下の3000円になっていたが、ただ話しかけるためだけに買うには高い。そもそも私には派手過ぎて使えないだろう。
(あれ……そういえば浜辺で榛原君、この時計着けていたような気がする。……店員だからか)
結局、ボールペンを買うことにした。それでも500円と高かった。ボールペンのキャップの形状がクジラ、サメ、イルカ、シャチと何種類かあったが、少し迷ってサメを選んだ。なんとなく。
会計の時、店員の人にそれとなく聞いてみた。私は彼の同級生で、それで今度同窓会をしようと思っていて……とそんな感じのことを言った。(でたらめだ)すると女性の店員は黙ってしまった。
やはり個人情報なんて、よく判らない人間に教えられないだろうか、と思っていたが返ってきた答えは予想とは違った。
どうも榛原君は先月、行方不明になってしまったらしい。
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私はそんな事、聞いていないんですが! と訳の判らない抗議をしそうになった。がすぐに冷静になって、商品を受け取り、ああそうだったんですね、すみません。ありがとうございます。とそう言って急いで博物館を出た。
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それなら仕方ないなと、納得する。強い日差しの所為だろう、足取りがおぼつかなかったので海浜公園のベンチで休むことにした。お盆だからだろうか、海水浴客はまばらだった。
包み紙からサメのボールペンを取り出し、無意味にカチカチとキャップを開けたり閉めたりする。サメの尖った頭が親指の腹に当たって少しだけ痛い。
……私は彼に会ってどうしたかったのだろうか。いや、最初から判っている。私はまた言って欲しかっただけだ。
――碧海さんはきっといいカウンセラーになれると思います――
酷い話だ。私は彼を、ボタンを押せば喋る人形か何かだと思っていたのか。
「……ローゼンタール効果」独り言。
不審死の多い最近では、行方不明は見つからないところで死亡しているということと、ほとんど同義になっていた。若い人間の場合は、特に。
無性に腹が立ち、気が付いたら浜辺に走り、海に向かってボールペンを放り投げていた。サメがクルクルと回転しながら海に呑まれた。
すぐに罪悪感に襲われた。
(……ドラマじゃあるまいし、海を汚して何をしているんだ)
とはいえ、もう探し出すこともできないだろう。そう思って歩き出すと、トラ猫が前を横切っていった。
その猫は魚がいるとでも思ったのだろうか(違うだろうが)。波に乗って早速戻ってきたサメのボールペンに向かって走っていった。慌てて捕まえて、ボールペンも回収する。
この子は榛原君が行方不明になったことを知っているんだろうか。そんなことを考えながら、頭を撫でた。
特に理由は判らないが涙が流れた。おかしいなと思った。
……こんな、人を人形扱いするような奴が泣くなんて……。
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家に帰ってから、ボールペンを洗ってペン立てに刺した。サメの顔がこちらを見ていた。
「うるさいな。言われなくても……」サメに話しかける。やっぱ変だな。
……大人しく勉強するか。
追記 同級iii/カウンセラー 【終わり】




