② 名前
****
潜水艦から抜け出し、座礁していたもう一隻の潜水艦の陰に隠れて息をひそめる。
『……さて、どうしたものか』
⦅武器はグレイプニルだけ。……決め手に欠けるがおそらく捕縛はできる。だがそれも長くは持たんだろうな。そもそも先に心臓を槍で貫いたが、平気な顔をしておる。あれは……あれも人形か。ベリアル本来の肉体ではないな。霊媒体質の人間にとりついているだけか?⦆
体の痛みは落ち着いてきている。
⦅霊体の動きと人間の動きにズレがあった。最初の蹴りをかわせなかったのはそのためだな。だとすれば生身の体を幾ら傷つけても無意味か。奴はまた別のにとりつくだけだ。……人間を嫌っておきながら、全くいや、あやつは……人間がいないと⦆
クク、と笑った。それから指笛を吹こうとして、止まった。
⦅ウルスナビを呼んだところで駄目だな。ベリアルの霊体ごと焼かねば……だが、時間稼ぎにはなるか? いや、だが蛇では相性が悪いか⦆
⦅……小僧は思ったよりも当てにならん。だが……女に袖にされ、師の最期を看取り、ほぼ死人とはいえ人を殺したばかりだ。落ち込むのも無理がないか⦆
⦅近代兵器にある程度の知識はあるようだが、知識の底は浅いな。ミサイルとやらは使えない。……どのみち霊体には効かんか。この体の魔力の生成ではルーンも使えん。頑丈なのはありがたいが……それだけだな⦆
一つの体を使っているからだろう。オーディン神が何を考えているかはある程度分かった。というよりも思考が流れ込んでくるようだ。
「やっと……見つけた。自分から船の中に入っておいて、なんだ? 先に出て休んでたのか。忙しないなあ、人間ってのは。ちょっとは俺に悪いとは思わないのかね。本当にお前らは俺をがっかりさせるな。そのために作られたのかねえ?」
ずっと探してたんだぜ、と男は肩をすくめた。
『悪かったな。最近運動不足だったのでな、疲れてしまった。休憩がてら……少し話をせんか。あの遺跡に何の用がある?』
作り笑いを、ベリアルと呼ばれた男に向ける。
「ウトナピシュティムはちょっと懲らしめてやらないとな。あれは人間が手を出していいことじゃないだろう。神の領分だからな」
ピシュティム? 苗字……か。いや……昔どこかでそんな名前を聞いたような気がする。
『ウトナピシュティムは神がごとき者のはずだが』
「神のような者ってことは、神じゃないってことだろう」
……え?
『まあ、儂は正真正銘の神だがな』
「冗談キツイぜ。そんな弱っちい奴が神だって? こそこそ逃げ回って、ガキのガワを被ってよお。俺を無価値だなんて言っておきながら。お前は無価値以下だよ。呆れた、これだから人間ってやつは……全く」かぶりを振って、こちらを睨んだ。
「……殺すって言ったよな、約束は守らないとな」
ゆっくりとにじり寄ってくる。距離が詰まる。さっきの距離で動きが見えなかったのだから、ここまで近づかれたらかわすことはできない、か。
もう少し休みたいのだがな、そう言って立ち上がる。
『手打ちにする気はないか?』
「あぁ、どの口で言ってんだ、お前が喧嘩売ってきたんだろうが」
『遺跡に攻め込んできたのはそちらなのだが……。うん……そうか、そうだな。悪かったよ、ベリアル。謝る。もう少しお前の気持ちを慮るべきだったな……。だがもう仕方ないか』
諦めたように大きく息を吐いた。
⦅ウトナピシュティム。悪いがお前の戦乙女の準備をしてくれ。儂と小僧ではベリアルには勝てん⦆
『ベリアル、儂はこの人間と協力関係にある。……お前のその人間はなんだ。ただの操り人形か?』
⦅そうと決まれば、あとは時間稼ぎに徹するのみだ。まあ……楽ではないな⦆
「……これはただ再利用しているだけだって。ここでただ死ぬんじゃ、もったいないだろ。使い終わったら、ちゃんと魂は地獄に送ってやる。俺はあいつとは違うからな」
『なるほど、要するに使い捨てるつもりなのだな。だからそんなに乱暴に扱っておるのか。その体、あちこち怪我しておるな。可哀想だなと思っていたのだ。……こちらときたらの小僧の体は大事に扱わねば非難を受けてしまうのだ。だからあんまり無茶もできんのだよ。公平な勝負ではないな』
左手の指不規則に動かしながら、会話を続けていた。
「公平じゃないと戦えないのか。なんだよ……情けない。……神がそんなんじゃ困るぜ。有利な状況でだけ出張ってくるのが神ってやつか? そんなんじゃ……」
『有利な状況を作るのもまた重要なことだ。主神であればそのあたりの差配もまた仕事であるからな』
男は馬鹿にするように笑った。
「ハハ、でそれが上手くいかなかったら? 命乞いか。……でも負けた時の言い訳ができてよかったじゃないか。そのガキの体、傷つけないように戦っていたら、気が付いたら殺されてましたってな。威厳は保てる……かもなあ」
そこまで言って男は首を傾げた。長髪が揺れる。
「ん……なんか時間稼ぎしてないか、お前?」黒い瞳がこちらを見ている。
『会話をするのも久方ぶりなのだ。付き合ってはくれんか?』
⦅ハ、困った困った⦆
『実はこの肉体の意識は残っておるのだ』
「だからなんだって? もーいーか? 続きをしようぜ」
年寄りは話が長いな、そう言いながらこちらに向かってくる。
『いや、少し代わろうかと思ってな。お前が強いのはよく判った。だがあまりに一方的ではお前もつまらんのではないか。だから儂は考えた。今から体を小僧に返す。この体を殺さず、儂に戻すことができればお前の勝ちだ』最後の方がやや早口になっていた。
(……? あの……)
「……拷問でもしろって言うのか? えげつない事を俺にさせるなよ。そんなのに付き合って俺に何の得がある。表の人格が変わろうが、体を殺してしまえば一緒だろう」
『それでよいのか? お前を無価値と呼んだのはこの儂だが。こっちの小僧には何の罪もないのだが……可哀想ではないか?』
「……何の罪もないってことはないだろ、人間なんだから」
『そうそう、お前の大好きな人間だ』
男は端正な顔をゆがめた。怒り、憎しみ? 判らない。
「好きなわけねーだろ。付き合ってられねーな……」
そう言った後に蹴飛ばされたようで、砂の上にゴロゴロと転がる。再び腹部に痛みが走る。
『ゴホッ……オホッ……ゥ……』
(やはり……動きは見えない)
⦅それはもう判っていることだ。……速いが小細工はない。動きは直線的。侮っておるのだ。本気になられるよりはよい⦆
こんなので……時間稼ぎなんて、この人はアダムスさんたちを……。遺跡の人たちも。なんとか……しないと。
『もっと優しいのかと思っていたがな。とりあえず代わるぞ。ではまたな』
そういうと体の支配権が僕に戻った。
⦅小僧、任せたぞ⦆
(……今かよ、クソッ)
腹の痛みが引かない。でも……それで走れないわけじゃない。今走らなかったら……もっとどうしようもなくなる。
逃げ出す。
振り向くと、真っ黒な男がこちらにただただ歩いている。長い足を見せつけるように揺らして、それだけのことなのにどうしようもなく恐ろしい。
痛みを体が覚えてしまったのだろうか。
(逃げないと……でも、あの速さでは……逃げたところで追いつかれる。だったらどうすればいい? でも逃げる以外ない)
思うが上手く走れない。動くたびに突き刺されたように腹が傷む。
⦅時間を稼ぐだけでよい。とどめはこちらで準備する。お前はベリアルを倒そうなどと思うな。守りに徹しよ⦆
(倒せるとは……初めから思っていません。でも、あの人の動きは見えません、かわすのは……無理です)
⦅かわそうなどと欲をかくな。衝撃を逃がすように動いておけ。お前の体ならある程度は……なんとかなる……はずだ⦆
(……はず、か)こんな時だというのに笑いそうになった。
⦅左手とグレイプニルだけはこちらの準備で使わせてもらう。致命的なものは……なるべくはそらす、つもりではいる。小僧、男を見せよ。奴は師の仇だろう⦆
(……つもり)
「それは……判っていますよ」
アダムスさんの仇。そうだ、と無理やり心を怒りで奮い立たせ、背後を確認すると。すぐ後ろに彼の顔があった。とっさに腹に力を込めて構えたが、今回は蹴りではなかった。
振り下ろすように殴られた、ようだ。頭蓋が割れそうに痛い。いや、割れたか。……そんな訳ない……よな。首も痛い。膝が崩れ立ち上がれない。視界がちかちかと明滅する。頭がくらくらする。頬に砂の感触が伝わる。
やっぱり逃げろ。逃げないと。
「……ん……」
なんだ、前に壁がある? 逃げられない。違う……これは砂、地面だ。気づかないうちに倒れていた。
「可哀想に。無責任な奴に振り回されて……。でもま、人間なんてそんなもんか。楽にしてやるよ。俺はそのジジイと違って優しいからな」
長く冷たい指が首を這い、掴まれ軽々と持ち上げられる。足が地面から離れた。
体、特に首に力を込める。……折れないように、できているのか判らない。力は込めたがこの状況から抜け出す方法が見つからない。オーディン神に操作されている左手は何かしようと動いたが、すぐに掴まれた。
首と左腕が握り締められる。
両足と右手はかろうじて動く。
悶えながら首をつかむ手を外そうとするが、少しも動かない。それはそうだろう、まともな相手じゃないんだ……。じゃあどうすりゃいいんだよ。
「……っ……」頭が熱い。血が巡っていない。
(まだ……ですか? オーディン神)
⦅……ままならんものだな。しかし……⦆
(……あ、あれ、あの時の……ルーンとか、やって下さいよ。このまま死ぬよりは……)
⦅だが……一度逃げたところでどうなる話でもない⦆
ジタバタと手を振り回したとき、ポケットに何か入っていることに気が付いた。一角獣の折れた角だ。ずっとそのままになっていた。
こめかみに強い脈を感じる。顔がうっ血していく。首が……締まるというよりも、折れる?
……帰るって約束した。
ポケットから折れた角を取り出し、首を締め上げる手の甲に思い切り突き刺した。加減をする余裕なんてない。
「チッ……痛ってぇなあ!」
彼は顔を苦痛に歪め、僕を放り投げた。ゴロゴロと無様に転がる。
「……ゴホッコホッ……う……」
はやく立ち上がれ。少しでも距離を稼がないと……。
(効いたのか? 槍を胸に刺しても平気そうだったのに……)
それより今は逃げないと。左腕が動き立ち上がる。
⦅小僧、今のは?⦆
(一角獣の角です。折れた物ですが)よたよたと走り出す。
⦅ほう。ところで言いにくいのだが……もう少し船の近くでやりあってもらえるか。その方が準備がしやすい⦆
(そんなこと言われたって……捕まって殺されたら……)
⦅今のように掴まれるのはまずい。適当に殴られるか蹴られるかして、大げさに吹き飛んでおくのが一番いい⦆
(簡単に……できるわけ……)
話しながらも左手はクルクルと動いている。あの人を捕縛しようとしているのか、だったらさっきのくらい止められそうなものだが。
大破した二隻の潜水艦、その間に入るように逃げ込む。また振り向くと彼は先ほどの地点からさほど動いていなかった。よほど一角獣の角が効いたのか? 潜水艦を背にして少し休む。呼吸は大分落ち着いてきた。首はまだ変な感じがする……だけだ。
⦅悪くない位置取りだ。今のうちに……⦆
左腕がグレイプニルを操作しているようだが、気にしている余裕はない。
トンッと背後から音がした。
(上……潜水艦を登ってきたのか)
見上げた瞬間、靴の裏が目に入る。転がるようにして。それを躱した。砂煙が舞う。
どこだ、見えない。掴まれたら次はないって……。とにかく……逃げ……。
砂煙の中から掌が伸びてくる、それを左手がいなした。直後に今度は足が伸びてきた。躱せず吹き飛ばされる。潜水艦にまた背中を打ちつけ、頭が前後に揺れる。もう全身の感覚がよく判らない。
「なーんかお前、変だな。頑丈過ぎないか? ガワは人間……なんだよな? 肉と骨って言うよりも、泥みてえな感触がある。……アダムの野郎みたいな」
彼はそう言って感触を確かめるように、両手を握っては開いた。
全身がまだ痺れていて、動かない。……左手もまだ、動く気配はない。どう考えてもやられ過ぎている。動け、……動かないなら、なにか時間を稼がないと。
「もう動けないか? 人間にしちゃあ骨があったよ。ここまでだな。ジジイ、じゃなくてお前はガキの方だから、ヴァルハラ……ナハトだったか」
時間を……稼ぐんだ。それだけでいいんだから、なにか……。
舌は動く。言葉は話せる。だったらやれることはある。
「……僕は、僕の名前は榛原支斗です」
「あ? でもさっき、ヴァルハラの夜って見得を切っていただろう。あれはなんだ? 芸名か?」
「あれは……オーディン神が言い間違えただけです」
⦅わざとだがな⦆
「ハ、オーディンね。……お前も大変だな。でもま、人間なんて神に遊ばれるもんだけど」
少しだけ、同情しているようにも見えた。それから何か思い至ったように、口元を隠して首を傾げた。
「いや、……オーディン? あいつは随分前に狼に喰われちまったって話だ。名を騙っているのか? 何の意味が……、生きているとすればロキの方だが」
⦅……わざわざ教えてやることはない。悩ませておけ⦆
「ま、どうでもいいか。神の名を騙るような野郎は殺しちまっても問題ないだろ」
⦅……やれやれ⦆
「で、なんだっけ……そうだ、名前の話だったな。ハル、ハラ、ナカト、どれが名前だ」
……興味を持ったのか? 名前に?
――ルシファーは明けの明星、ギャビーは神の人。なのに俺は――
「……ナカト、です」
「ナカト、か――意味は? 由来を聞かせろよ」男は腕を組んでこちらを見下ろしていた。足を止めて。
「え……」 何故そんなことを気にするんだろうか。
⦅気が変わらんうちに答えろ。時間稼ぎにちょうどいい、あと少しだ⦆
(あ、いや、でも……あまり言いたくないんですが……)
⦅つまらん意地を張るな。言っておる場合ではないことはお前が一番判っているはずだ⦆
……そりゃそうだ。全身の痛み、特に首はこれ以上はまずい。……言えばいいんだろ。帰るんだから、俺は。
「……えっと、3人兄弟の次男だから……。真ん中だからナカトって。子供の時親に聞いたら、言ってました……」
言いたくなかった。こんなのは名前の説明じゃない、でも母さんはそう言っていた。小学生の時、宿題で聞いてみたらそう言っていた。きっと間が悪かったのだろう。母だって人間だから機嫌の悪い時くらいある。でも、それ以降僕は名前の由来を聞かなかった。
別にいい。時間が稼げれば、なんだって。
「……字義としては、支えるというのと柄杓の意味があって……北斗七星とかの……」
長引かせろ。
「……いや字義は聞いてない。そっちはどうでもいい」
どうでもいいって……じゃあ別の話題を。
男は宙を見つめ思案していた。僕の左手はいつの間にかまたせわしなく動き始めていた。
「……お前は親から愛されていなかったのか? ……いや愛されていなかったんだな。可哀想に」
……何を、言ってるんだ。この人? 哀れむようにこちらを見下ろしている。……苛々した。
「……勝手に、決めないで下さいよ。俺が可哀想かどうかなんて、あなたが決めないでください!」
⦅小僧?⦆
「でも、さっきのが由来なんだろ?」
「それは……その、親の機嫌が悪い時に聞いたから……」
男はクスクスと笑ってから言った。
「お前はジジイと違って可愛いところがあるな。構って欲しいのか、え? 何だってわざわざそんな時に聞いたのを言ったんだよ。じゃあ、本当の由来は? そっちは愛があるんだよな?」
愛?
「いや……だから、別に名前は……どうでもいいじゃないですか」何でこんな話になってるんだ。
「どうでもよくはないぜ。大事だろ、名前は」
男の顔が急に目の前に現れた。身構えたが、どう考えてももう遅い。しかし彼は何をするでもなく、僕の目、右目を覗き込んでいた。真っ暗な底なしの穴のような瞳に吸い込まれそうになる。
「左目……そういうことか。……お前、俺に似ているか?」
「……いえ、似ていませんよ。全然」
――無価値――?
「謙虚だな。……右目だけなのが残念だ」ぶつぶつと呟きながら、ウロウロと歩き回っている。……なんだ? 体はもう動けるか……。
「ちょっと待ってろ」彼はこちらに背を向けてかがみ、砂浜に何か書いては消しているようだった。……なんなんだよ、さっきから。
(オーディン神、まだですか?)
⦅もう少しだ。こちらは終わった。あとは戦乙女が出るのを待つだけだ⦆
左腕の動きが止まる。男がパンと手を叩き、こちらを向いた。
「よし! リベがお前の新しい名前だ」
【続きます】




