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 ちゃぽん。


 いつの間にお湯まで張ってたんだろう。きっと、私が居間に座ってる間に、料理をしながら少し熱めのお湯を汲み入れておいたんだろうな。

 だから今、私が身を沈める浴槽内は丁度いい湯加減になっている。


 アスラン将軍が自らを料理してお風呂も用意してくれて、こんなに甘やかされて私はアスラン将軍に何を返せるだろう。


 ……あ、返せる、は違うのかな。うーん、だめだ、逆上せちゃう。


「とりあえず、出よう!」


 そうして一足先、身支度を整えた私は夫婦の寝室でアスラン将軍の訪れを待った。



 カッ、カッ、カツンッ。

 いつもよりゆったりとしたアスラン将軍の足音が、寝室の扉の前で止まる。


 ギィィィィ――。


 ノックは無かった。

 ゆっくりと扉が開かれて、アスラン将軍の気配が一歩、また一歩と近くなる。 

 私は寝台に腰掛けて、俯き加減に膝上で両手を握り締めていた。

 かつて体感した事がないくらい、胸の鼓動が激しく打ち付けていた。ただしそれは、恐怖や嫌悪からではなく、この先の行為への隠し切れない期待の表れ。

 見つめ合えばそんな私の劣情が、あまさず見透かされてしまう気がして、その目を直視するのが憚られた。

 

 絨毯敷きの床は靴音を殺すけど、衣擦れの音や息遣い、アスラン将軍の一挙手一投足を手に取るように肌で感じていた。


 私の頭上に影が落ち、ついにアスラン将軍の足が止まった。


「姫さん」


 小さく呼び掛けられて、私は俯かせていた顔を上げた。

 え? そうしてぶつかったのは、何故か泣きそうなコバルトブルー。もちろん、実際にアスラン将軍が泣いている訳じゃない。


「アスラン将軍……?」


 だけど悲しみにけぶるような瞳だと、そう思った。


「姫さん、俺はここに来るまで、ずっと姫さんに詫びたかった。そしてもし姫さんの許しが得られたら、その時は改めて姫さんと夫婦としてやっていきたいと思ってた」


 ……一体、アスラン将軍は何の事を言っている?


「だけど今は、俺が姫さんの夫でいいのか、正直自信がない。本当に姫さんの為を思うのなら、俺は身を引くべきなのかもしれない。……だが俺は、どうしても姫さんを諦める事が出来ない」


 私は告げられた言葉の意味を測りかねていた。


「あの、アスラン将軍? 身を引くとか、諦めるとか、よく分かりません。だって、私とアスラン将軍は夫婦ですよね?」


 私の言葉にアスラン将軍が目を瞠る。

 私はただ、当たり前を口にしただけ。けれど見開かれたアスラン将軍の目に、今度こそ本当に薄っすらと涙が浮かぶ。

 その透き通るような美しさを前にして、私は動揺が隠せなかった。


「姫さん、あんたはこんな俺を当たり前のように夫として見てくれてるんだよな……」


 けれど続くアスラン将軍の言葉は、私を更に動揺させた。

 だって私の夫は、アスラン将軍以外にいない……。


「姫さん、……いいや、ミーナ。俺は、ミーナを愛している。本当はもう、ずっとミーナを愛してた。共に馬上に揺られて、ドルーガン王国に向かう道中から、ミーナに心奪われていたんだ。なのに情けなくも俺は、どうやってその心を伝えていいか分からなかった。ミーナの愛が欲しいのに、どうやって求めればいいのか分からずに、ミーナを傷つける行動ばかり取ってしまった」


 アスラン将軍の真摯な告白に、切ないほど胸が熱く震えた。

 答えたいと思うのに、歓喜に震える唇は、上手く言葉を紡いでくれない。


「だが、愛おしいんだ。かけがえなく、苦しいくらい、ミーナが愛しい。……ミーナだけを、愛しているんだ」


 けれど続くアスラン将軍の言葉も、小さく震えていた。


 不思議だった。いつだってどこか飄々として、その心の核心部分をひらりと躱してやり過ごす。そのアスラン将軍が今、泣きそうに顔を歪めて私を見つめていた。


 告げられた一言一句はもちろんの事、アスラン将軍のコバルトブルーは、こんなにも深く染み入るように愛を訴えるのか……。


 胸に一層、愛しさが募る。アスラン将軍への愛が、抑えきれないほどに、大きく膨らむ。


「ミーナ、今まで本当にすまなかった。俺の愚かな行動でミーナを傷つけてしまった事、どうか許して欲しい」


 アスラン将軍はそう言って、私に深く頭を下げた。


「……あの夜、あのドルーガン王国でジェンド社長と会った日の夜、帰った貴方から漂う白粉の香りに、私は随分と泣きました。この不貞は、一生かけて償ってくださいね」


 過去の事は全て水に流そう。アスラン将軍から今、貰ったその心こそが全て。それでも心の隙間から、かつて傷ついた私がひょっこりと顔を出し、そんな事を言わせた。

 ……いいや。今だからこそ、全てのわだかまりをなくしておきたいと、そんな思いも働いたのかもしれない。


「……不貞、返す言葉もないな。花街に行った時点で裏切りだってのは、重々肝に銘じてる。だが、女を買った訳ではないんだ。……見苦しい言い訳だがな」


 気まずそうに私を見て、アスラン将軍が紡いだのは、しかし余りにも予想外の台詞。


 アスラン将軍を他の女性と分け合う事実をこそ、耐え難く思ってた。同時にこちらの常識に照らし合わせた時、それもまた仕方ないのかと、諦めにも似た許容を覚悟していた。


 どころか、一夜限りの女性以上に、もっと親密な女性の存在すら疑った。もしかしたらアスラン将軍は私以外の女を囲っているのかもしれないと、そこには既に子すらあるかもしれないと想像もした……。


 けれど、それらは全て杞憂だったと?


「うそ……」


 感情の波が私を浚う。それは全てを凌駕する愛おしいの感情の嵐。

 眦から、ホロリと涙が零れた。

 だけど一度零れ落ちれば、その後はまるで堰が決壊してしまったみたいに、滂沱の涙が頬を伝う。


「! ミーナ!?」


 アスラン将軍は焦った様子で、私の涙を自分の袖で何度も何度も不器用に拭う。


 ……アスラン将軍、貴方はいつだって言葉が足らなくて、そして私もまた素直になりきれなくて、お陰で私達は随分と遠回りをしてしまったみたい。


「アスラン将軍……いいえ、アスラン。私も、貴方を愛しています」


 私が微笑んで告げれば、涙を拭うアスランの手がビクリと震えた。


「ミーナ、すまんが過去は消せん。だが、これから先の一生涯はミーナだけだ。ミーナしか、望まない」


 重く、アスランが告げる。

 アスランももう、私を姫さんとは呼ばない。それは私達のままごとみたいな関係の終わりと、新たな関係の始まりを意味してる。


「……アスラン、謝罪を受け入れます。私は今、アスランと夫婦になりたいって、心から思います」


 私の言葉に、アスランがクシャリと笑う。細くなったその眦から、涙が溢れた。

 透き通る雫が頬を伝い、顎から珠になって落ちるのを、私はただ見つめていた。珠を結んで零れ落ちたそれは、触れるのが躊躇われるほど澄みきった輝石のよう。

 私には、今この瞬間に目にする全てが、とても神聖なもののように感じられた。


「ミーナ、今物凄くミーナを抱き締めたい」

「はい、私も抱き締めて欲しいです」

 

 微笑んで、私からアスランの胸に飛び込んだ。

 アスランは両腕を回し、その胸に優しく私を抱き締める。私はアスランの温もりに包まれて、幸福感を噛みしめていた。


「ミーナ、愛してる」

「はい、私も愛してます」


 私を抱くアスランの手が、小刻みに震えていた。アスランを抱き返す私の手も、震えていた。


 私達はどちらからともなく互いを求め、段々と抱擁を深くした。そうして急くように合わせた唇の温度に愛しさが溢れ、心が震えた。 


 私とアスランは深く抱き合って重なって、その温もりを分け合った――。







「ミーナぁ!!」

「マリッサ!!」


 私に飛びかかるように抱き付いてきたのは、およそ一ヵ月ぶりに再会を果たしたマリッサだった。


「ちょいとマリッサ! お前またミーナさまの事を呼び捨ててどういうつもりだいっ!?」

「アダッ! アダダダダダッ! かあちゃん、何すんだよ!」


 ひしと抱き合うマリッサのポニーテールを鷲掴みにしてズリズリと強引に引きはがすのは、こちらも一ヵ月ぶりに顔を合わせたマーサだ。


「すまないねぇミーナさま、この子ってば相変わらずでねぇ」


 変わらないマーサとマリッサの姿を前にすれば、しらず目に涙が浮かんだ。


「マーサっ」


 見上げたマーサの姿が涙で滲んで上手く像を結ばない。


「ミーナさま、無事でよかったよ!」

 温かな腕がぎゅっと私を抱き締めて、ぽんぽんっと背中を撫でる。その温もりは間違いなく三年間私を慰め、励ましてくれたマーサその人で、私は溢れる涙を止める事が出来なかった。


「なんだよかぁちゃん、ずりぃぞっ」


 けれど涙は、私だけじゃなかった。

 膨れてみせるマリッサの声も、涙に濡れていた。


「マリッサもっ、ううっ……良かった。本当に良かった」


 私はマーサに抱かれたまま片手を伸ばし、その手にマリッサを抱き込んだ。そうして私達三人はしばし抱き合って、再会の喜びを噛みしめてた。





「……ミーナ、もしかして通いで雇いたい二人ってその母子か?」


 ひとしきりの抱擁を交わし、再会の感動も少し落ち着いたタイミングで掛かった、アスラン将軍の声。


「はい、アスラン将軍! マーサとマリッサは私にとってこの上もなく大切な存在なんです!」

「……ふーん」


 なんだかアスラン将軍の歯切れ、悪くない?


「どうかしましたか?」

「いや、なかなか面白れーじゃねーかと思ってな。ってか、それよりミーナ、また呼び方、将軍ってなってんぞ?」


 あ!!


「すみません、なんだかすっかりこれで慣れちゃってて……」


 そうなのだ。慣れというのはなかなか強固で、油断していると、ついついこれまでの習慣で「アスラン将軍」と呼んでしまう。


「ま、おいおいでいいやな。呼び名なんてなんでも構わねーしな」


 アスラン将軍は気にしたふうもなく、白い歯を見せて笑った。

 ……うん、確かに慣れ親しんだ習慣は仕方ない。ここはアスラン将軍に甘えて、自然の流れに身を任せよう。


「へんっ。ミーナの旦那になったからって、えらっそうに」


 横からマリッサがひょっこりと顔を出し、アスラン将軍に向かってべーっと舌を出した。


「おい娘、ぶっさいくな顔してっと嫁の貰い手もねーぞ?」

「へんっ! 余計なお世話だい!」


 なになに? イーだのベーだのと目の前で繰り広げられるアスラン将軍とマリッサの攻防はとっても楽しそうだ。ぜひとも私も混ぜてもらいたい。


 それにしたって既に二人の息はぴったりで、これなら何も心配する事なんてなさそうだ。


 ……あ。


 再会にホッとしたのだろうか。一度引いたはずの熱が、再び舞い戻ってきて、ジンと目頭を熱くする。


 こっそり袖で目元を拭っていたら、後ろからアスラン将軍の手が伸びて、私の頭をポンポンッと撫でた。

 だけどアスラン将軍の行動は全くの、逆効果だった。


 一層目頭が熱を持ち、溢れる涙が止まらなくなった。


「ミ、ミーナ!?」


 アスラン将軍が焦った声を上げた。


「あー!? ミーナの事泣かしてる!!」

「はぁっ!? 俺は泣かしてねぇぞ!!」


 二人のやり取りを横目に、私の涙はもうしばらく止まりそうになかった……。








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