18
通りすがりの親子を見送って、俺は大通りを一本裏道に曲がった。そのまましばらく進むと大きめの建物が目に付いた。
これがジェンド出版の工房だろうか? 建物には看板のひとつも出ていなかった。
しかしカルスから手渡された手元の住所と照らし合わせれば、ここが目的の場所に間違いなさそうだった。
俺がノッカーを叩こうと一歩踏み出した時、背中に強い視線を感じた。不審に思って振り返れば、一人の少女がジイッと俺を窺っていた。
「なんだよ嬢ちゃん、俺になんか用か?」
「あんたこそ、ここに何か用?」
娘はますます表情を険しくして、俺の質問に質問で返してきやがった。
「ここに俺の嫁が世話になった人がいるはずなんだ。嫁はミーナと言うんだが、知らないか?」
「あんたがミーナの旦那!?」
……やべぇ。ミーナの旦那って響きは地味に嬉しい。
「あぁ、ミーナは俺の嫁だ」
「嘘だね!!」
しかし娘は、俺の言葉を一蹴した。
「って、ちょっと待てや! なんで嘘だって判断しやがる?」
「ミーナは男が恐いんだ。だからミーナの旦那になるのは優しい紳士だって、母ちゃんと話してたんだ。そう、ミーナにはジェンドさんみたいな男が似合いさ! あんたみたいなゴリマッチョはミーナの一番苦手とするところだね!」
「ゴッ!?」
ゴリマッチョってーのはまさか、俺の事か!?
失礼極まりない目の前の娘を見下ろす。娘は俺の眼力にも怯むどころか、一層眉間に皺寄せて睨みつけてきやがる。
「プッ! プハハハハハッ! マリッサ、ゴリマッチョとはなかなか、フハハハハハッ!」
背後から響く笑い声。その声には覚えがあった。
「ジェンドさん! お帰りなさい!」
娘は俺に向けていた険しい表情から一転、上気させた頬でにこにこと微笑んで男に駆け寄った。
「マリッサ、残念だが優しい紳士ではないゴリマッチョの彼がミーナの旦那に間違いない」
!? 奴、だよな?
もさもさと伸び放題の髪と髭は綺麗に整えられ、よれよれの旅装は凛々しいフロックコートに着替え、随分と風貌が変わっているが間違いない。現れた男はドルーガン王国でミーナと会っていた男に違いなかった。
「なんだよ、あんた帰国してたのかよ?」
……いや、待てよ。さっき、娘はコイツにジェンドと呼び掛けていなかったか?
そうすると俺の尋ね人の出版社社長は……、コイツか!?
「ええ。ミーナと一緒であれば帰国の途中、方々に寄り道をしてゆっくりもしたでしょう。しかし一人では目に入る景色もどこか味気なくていけない」
精悍な顔立ちにきちんと櫛目の通った金髪。物腰も丁寧な男は、上流階級を匂わせる気品に満ちていた。ドルーガン王国での姿からは想像もできないが、この男の本質はこうなんだろう。
「立ち話もなんだ。よかったら上がりませんか?」
食えない男だと思った。
「……そんじゃ、そうさせてもらうぜ」
この男は戦時下に一歩間違えれば謀反人と捕縛されてもおかしくない、際どい内容のかわら版を発行し続けた猛者だ。
この柔らかな風貌とのアンバランスに苦笑が漏れる。
何よりコイツがドルーガン王国から相当に馬を飛ばして帰って来たのは間違いない。でなければ、ここでこうして俺と顔を合わせちゃいない。
しかもだ、姫さんの起こした文章をもう、かわら版に刷り上げて売っていやがった。あの食堂でひと悶着の後すぐガラージュに戻ったにしたって、それはもう常人じゃありえないレベルだ。
それだけの気力体力と、かわら版発行に関しては地盤もあるんだろう。
何が気に入らねぇって、それをなした直後だろうに、コイツの涼しい顔と颯爽とした恰好が気に食わねぇ。
……要はコイツに、敗北感を感じてる。
姫さん、あんたの周りは只者じゃねぇのばっかりなのな。俺をゴリマッチョと評した件の娘もまたしかりだ。……地味に傷ついたぞ、俺は。
「どうぞ」
男に促され、足を踏み入れた工房兼自宅は微かにインクの匂いがした。
通された応接間のソファに、男と向かい合わせに腰を下ろす。
「堅苦しいのは望むところじゃない。楽にしてくれ」
かつて姫さんとの関係を邪推して糾弾した男と向かい合う、それは俺の弱みを握られているようでなんとなく居心地が悪い。
男はそんな俺の思いに気付いているんだろうが、一貫して柔らかな表情を崩さない。この男は食えない笑みの下で、俺に何を思うのだろう。
「……本当は貴方の背中を押すなんて本意じゃないんだ。だけど夫婦でありながら初々しい初恋同士の貴方達は、どうしたって見ているこっちがじれったくって仕方ない」
ところが男は開口一番で、訳の分からない事を言った。
なんだよ、初恋同士って?
コンコン。
「失礼します」
丁寧なノックの後、入って来た娘が男の前にそっとお茶を置く。俺に粗忽な態度を見せた娘は、男の前だと一転してしおらしい態度を取った。
ドンッ!
ビチャッ!!
「アッチ!!」
「あら、失礼」
人にお茶を掛けておきながら、娘はプイッとそっぽを向いた。
「って! オイ!? 俺にはその態度かよ!?」
ズボンにお茶が掛かり、俺は地味に熱い。
「ぅおっ!?」
するとまさか、娘が台拭きを投げて寄越した。
慌ててキャッチしたものの、つくづく失礼な娘だ。娘はそのまま俺に謝罪のひとつもなく、くるりと背中を向けた。
チクショウ! むかっ腹立つが俺は大人だ、無作法な小娘の態度にいちいち目くじら立てたりはしねぇ!
しかもムカつく事に、男は俺達のやり取りを面白そうに薄く笑って見てやがる。
「へんっ!」
腹立ちまぎれに俺は娘の置いた茶菓子に手を伸ばし、バリボリと片っ端から食っていく。
「ハハッ! やはり貴方はおもしろいな。俺は不思議と貴方という男を嫌いになれない。だから好きな女性を前にして好意の伝え方が分からない、恰好つけの貴方にひとつアドバイスだ」
格好つけとは俺の事か? 俺がいつ恰好をつけたと言うんだ!?
「はんっ。あんたのアドバイスなんざいらね、ッテェ!」
無防備な俺の後頭部を、娘が盆で叩く! しかも娘は、わざわざ扉の前から駆けて戻って叩きやがった!
「オッ前、盆で人の頭叩く奴があるかよ!?」
「ヘンッ! ミーナを嫁に貰う僥倖に与っといて、ミーナ泣かしてんなら承知しないよっ!!」
俺を下からキッと睨みつける娘は初見からして小憎たらしくて、盆で叩かれた今は本気でこの場から摘み出してやろうかと思った。
けれどその目には薄く涙の膜が張っていて、あぁ姫さんに向ける思いは真剣なんだと、そう思えば怒りもその温度を低くする。
「こらこら、マリッサ。お茶をありがとう。だけど、済んだなら彼と二人にしてくれるかい?」
「! は、はいっ」
娘は俺からプイッと顔を背け、男に頭を下げてから出て行った。
「……困った娘だね。でもあの娘は三年間彼女と共に戦った同志なんだ。だからまぁ、許してやってくれ」
男は小さくため息を吐きながら言った。
……三年の時は長い。特に幽閉中の三年間がどれほどの重みか、俺には想像すら出来ない。
俺が許すも何もない。姫さんにはあのくらいのじゃじゃ馬娘も、いなすのなんざお手のもんだろう。面白くはないが、これが事実だ。
「姫さんの三年間、あの娘と一緒なら退屈しなかったろうさ。あの娘には感謝こそすれ、俺が邪魔に思う事すら筋違いだろう。……物凄く癪だがな」
姫さん、あんたの幽閉生活、少なくとも三年間は孤独じゃなかったんだろう。
「貴方のその柔軟さには目を瞠るな。一国の将ともなれば自尊心の塊みたいな奴らばかりしか俺は知らなかった」
そういう奴らが多いのは確かに事実だ。
「どっちかっつーと文官崩れに多いぞ、うちの国じゃーな」
「まぁ、貴方が武官のトップなら必然的にそうなるだろうな」
男が苦笑してみせた。
「そんな貴方だからミーナは貴方に惚れたのか……」
切ない表情で男が何事か呟く。しかし呟きは余りにも小さくて、俺には聞き取る事が出来なかった。
「なんだって?」
男は緩く首を振ると、一転して晴れやかに笑ってみせた。
「恰好悪くてもいい。好きなのだと、一言伝えたら彼女はきっと歓喜にむせび泣くだろう。それくらい彼女の貴方への愛は、見返りを求めない一方向の貞淑なのだよ」
唐突な男の言葉に驚く。男の言葉は理解するのが難しい。
姫さんが俺に対して何かを望んだ事など、これまで一度だってない。
だから姫さんは俺に対して何も望んじゃいないんだろうと、義務だから夫婦として添うのだと、そう辛く思っていた。
俺が好きと伝えたら姫さんが泣いて喜ぶ? いいや。
「……姫さんから俺への愛なんて、ないだろうよ?」
男は俺の言葉に苦笑して、けれど否定もせずにゆっくりと俺と目線を合わせた。
「そう思うのなら聞いてみたらいい。その上で愛が無いのなら、愛されるように努力をすればいい」
!!
愛されていない事に打ちひしがれるんじゃなく、愛されるように努力をする……。
「は、ははっ。考えた事もなかった……」
目からウロコが落ちるとはこの事を言うのだろう。
唖然とする俺に、男は静かに言葉を重ねた。
「言葉にしないから貴方の不器用な好意は何一つ彼女に伝わっていない。そうしてあんなにも才覚に溢れて行動的な彼女は、自らに関してはてんで自信が無くて臆病なんだ。貴方もそこは分かっているだろう?」
男が語る姫さんは、姫さんの本質を正しく表していた。
「ああ、そうさ。姫さんはいつも人の事ばっかりなんだ。自分の事はちっとも顧みない」
この男に言われるべくもなく、俺だって分かってた。本当は分かっていたのに、正面から姫さんに対峙する事をせず、臆病に逃げを打ってしまったんだ。
「だけど俺が! 今度こそ俺が、姫さん自身を大事にしてやりたいんだよ!」
言葉にすれば、ストンと胸に落ち着いた。
辛くも今回、男の言葉が俺に気付かせた。けれど気付きは所詮、切欠に過ぎない。
どう愛するか、どう想いを繋いでいくか、それは俺と姫さん二人の問題だ。
「貴方は不器用で、けれどとても真っ直ぐな人なのだね。貴方と彼女はなんだか似ている」
男はおもむろにソファを立つと、応接間の扉を開けた。
「おそらく貴方の目的は達成したんじゃないかな?」
ここに来た目的は、姫さんを知る事だった。
しかし俺の心を明かそうともせず、一方的にそれを望むのは、俺の傲慢さだった。必要なのは、ここで姫さんの過去を嗅ぎまわる事じゃない。
俺は姫さんと分かり合いたかった。それをするために俺が今、居るべきはここじゃない。
「あぁ、俺はドルーガン王国に、姫さんの元に帰る」
「そう、いってらっしゃい。貴方の愛しい人のところへ」
……天晴なほど、清々しい男だ。
あまつさえ恋敵であった俺の背を押して、その上で男は笑ってみせるのだ。
「あんたには借りができちまったな。ありがとうよ、今度ゆっくり礼に来る」
「ハッハッ! 来るな来るな。鼻の下伸ばした新婚の恋敵なんか見たくもない」
男は高らかに笑い、俺の背をバンバンと叩きながら首を横に振った。
……姫さんがこの男に靡かなかった事は、俺にとって僥倖だ。胸に過ぎる複雑な思いに蓋をして、俺は男の屋敷を後にした。
男の屋敷を出て、ジルガーに跨る。ろくに休憩も取らず、俺は昼夜ドルーガン王国への道を駆け抜けた。
一刻だって早く、姫さんの顔が見たかった。
阿呆な俺は、遠回りに遠回りを重ねなきゃ目の前の事実にも気付けない。
だけど俺と姫さんは神の前で永遠を誓った夫婦だから、寿命が尽きるその時までずっと一緒だ。これは俺への物凄い追い風で、時間ばかりは潤沢に約束されている。
過去を塗り替える事は出来ないが、これから先の二人の未来はいくらでも無限に広がってる。 そしてその未来は、姫さんの幸福を一番に考える。他でない俺が、溺れる程に姫さんを幸福にしてやるんだ。
その為にまず、俺がするべきは姫さんへの謝罪。
今のままの俺では、姫さんの愛を乞う資格すらない。俺がした愚かな糾弾と、その後の不誠実を鑑みれば、いっそ自分の所業とは思いたくなかった。だが、俺はもう目を背けない。
俺の愚かな行動が引き起こした全てを、誠心誠意姫さんに詫びる。
もし、許しが与えられたなら、俺はこれから先の一生涯を姫さんに捧げる。
だが、全ては姫さんの心ひとつ。姫さんが俺を厭うならば、俺は姫さんの信頼を取り戻す為に、どこまでも努力に努力を重ね、誠心誠意姫さんに尽くすのみ。