20話 上野真希
**** 上野 真希 ****
「あーあ、終わっちったね」
埠頭の夜風を浴びて真希がつぶやく。その声に清原は声を返さない。何も言わずに横に寄り添ってくれていた。真希は目を閉じてあの風景を思い出す。
熱も、振動も、声も、色も、匂いも、空気の味も、胸に起こった全部の痛みと喜びの起伏を。
前列の女の子が泣いていた。胸の奥が揺れたけど、それでもステージの上では不思議と次の瞬間には感情の揺らぎが収まっていく。最後にきっちりプロ意識を発揮した。泣いてくれてあんがとね。落ち着いた心で手を振った。
稚奈と手を握り、歌った。
それはなんだか自分が握っていたバトンを渡して、自分の走る距離が終わってしまったような、そんな寂しさも感じられる。だけど稚奈は先を走るランナーに追いついて、いつかは追いかけられる側になるだろう。そうならなきゃコロス。
目を開ける。
「あたしさー……大学、行ってみようかなって。社長に作曲家としてプロダクションにいさせてくれって言ったら、『うち以外に提供しないなら』って、学費の都合付けてくれるみたい。在学中にこれだけ売れればうちも元を取れるって話もされた」
「あの人はそういうところに長けてますから」
「かもね。アタシは二年で借りは返すつもりだけどさ。そのためにね──」
真希は夢を語り始める。
最初は稚奈に曲を提供して、オリコンで一位を取ってもらう。二番目はまだ誰か決めてない。でもきっと自信作ができる。年二十曲で足りないなら四十曲、それでもだめなら百だって作る。三年目からは作詞作曲の印税でグランドピアノを買って、音楽教室を開く。それから、子供たちにいねむり先生って言われながら、いっぱい未来の音楽家を生み出す。でもって──
初めのうちは面と向かって語るのに少し恥ずかしさがあった。しかし語るうちにどんどん熱がこもっていく。真希の目に映る先の未来は、明るく広い。
「とてもいいと思います」清原がうなずく。
「サンキュ」真希は鼻の下をこする。
そしてしばしの静寂が生まれる。
「でもさ、一番に、アタシにとって押さえなきゃいけないことがあってね……」
「なんでしょう?」
こればっかりは歯切れが悪くなる。
清原をじっと見つめた。すると察したのか、狼狽え始める。
……メイのヤツ何言ったの?
任せろって言ったのに、警戒されてるじゃない。
いやでも、もうここで引けないし。
歌っているときは体が熱くなっていたのに、今はおでこだけがとても熱い。
「な、なんていうの? いっこ許可が欲しいっちゅーか。その、譲れないもの的な」
「ちょ、ちょっと待った。あの、ちょっと冷静になって」
「アタシに冷静とか計算は似合わないのっ。ああもうじれったい!」
「うわぁ!」
叫んだ真希が目を吊り上げて清原の顔を両手でつかみ、唇をあわせようと飛びつく。驚いた清原はとっさに、接近する顔を受け止めて押し返す。
「むぎぎっ、どーして逃げんのよっ! アタシの気持ちを受け止めなさいっ」
「真希さん落ち着いて。真希さんにはまだ早すぎます!」
意外にも二人の力は拮抗していた。
「心も体ももう大人だってぇの!」
寄る。
「そ、それでも駄目! ほら、スキャンダル的なのが!」
離される。
「もう契約切れる!」
ぐっと寄る。
「待て待て待て待て、待って待って、待ってください。俺だってまだ自分の生活費でいっぱいいっぱいなんだから。それにもうちょっとこう、心の準備を──」
「乙女かアンタは~~~っ!」
結局キスはうやむやになった。それは徐々にレスリングのような取っ組み合いに変わっていき、力比べをして遊ぶ子供のように、どんどんと色気から離れていった。疲れ切った二人は膝に手をついて、ぜいぜいと白い息を吐いていた。
「んじゃさ……」
でも諦めないんだよ、アタシ。
もう一歩、踏み込むことにした。
「いくつになったらいい?」
「な、何を?」
「結婚」
「ぶっ!」
「い、言いなさいよっ。アンタは女に恥かかせないよねっ⁉」
ちょっと欲張ってOKという前提で話を進めた。
清原が考えるから待ってほしいとその場でぶつぶつつぶやいて指折り数えていく。
自分で転がしておいて、この急展開に戸惑いと痒みを覚える。
二年後とかなら……いい年齢だよね? 引っ越しした先にピアノ置けて、いいねいいねっ。あ、それって学生結婚とかいうやつじゃない……? わっ、ヤバい……!
待っている間にそんなことだけを考えていた。
「い、今の昇給ペースから考えると……」
「うむ」
「……十五年後くらい──おぶぅっ!」
思わずグーが出た。
「バっっっカじゃないの! それじゃ羊水が腐──」
「わーわーわーっ! そういう懐かしくも危うい発言は禁止! あと暴力も禁止!」
「うっさい、子供は女の子五人作る前提で計算し直し! 目指せユニット結成ー!」
「え、俺は息子とキャッチボールが」
「却下。それだったら──」
にぎやかな押し問答がしばし埠頭にこだましていた。
「──もういいっ。もうアタシ帰る!」
「あの、車は逆」
「アタシの言うこと聞いてくれない人の車には乗りたくな……あ、あれ?」
急に力が抜けるような感覚がやってくる。
未来の旦那(仮)が、慌てて体を支えてくれる。
「暴れ過ぎなんですよ」
「だから一緒にいてほしいんだって言ってんじゃん。アタシがわがまま言えるのは、ひとりだけでいいから……さ」
うわあ、これ虚脱ではなく睡魔のほうだ。真希の意識は急速におぼろげになっていく。その際に言われる、好きな男からの言葉。
ホント、アンタはつくづくタイミングが悪い!
でも真希はあきらめずに抵抗し、夜の闇に溶けそうな意識の中で、抱えられた頭上で告げられる言葉をしっかりと聴きとめた。
言質、取ったんだかんね。
真希がその言葉を発したかまでは、真希自身の意識の外の出来事だった。彼女が目を閉じた時に日付は変わる。歌手・上野真希の幕がこの瞬間に閉じられた。
そして……──
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