#95:1023年6月 招待
「太刀預けられよ」
アキラは帯に提げた刀の紐を解くと、藤原正頼の郎党の手に渡した。
アキラの刀は、常陸国庁の前の沼に投じたのち色々あって、結局アキラの手元に戻ってきていた。
あの時、常陸でアキラの誘拐される直前、犬丸は逃げたと見せかけて潜んで、アキラの誘拐される場面を全て見届けた上で足利に報告していた。
その報告はその後常陸に渡っていた。報告中の刀を沼に投じたくだりから沼をさらって刀を発見して、研ぎなおした上でアキラに返してきたのが先月の事だ。
常陸の平維幹とその一族は理解したのだ。次の標的が自分であることを。
常陸国司と鎮守府将軍がどんな細かい難癖でもって討伐してこようとするか、それが時間の問題に過ぎない事を。
という訳で今、常陸は秘密裏に足利と手を組もうと画策していた。その為の手土産がこの刀だ。
拵えがまったく変わったせいで、以前アキラの持っていた刀とは一見別物に見える。ただ、ちょっと長すぎるので不審に思われるのは変わらない。
土産の品は既に郎党に渡してある。
特に不審がられたのが、細長い木箱だ。
「臭き。何ぞ入りおる」
渡す時にアキラは念入りに注意した。
「落とすな、触るな、見てもいかぬ。中は鬼の手ぞ」
少しだけ箱の蓋をずらしてみせる。途端に臭いが強くなる。
「いや、もうよい。しかしかようなもの、貢物としていかがぞ」
「気になるなら、正頼殿に問い合わせよ。鬼の手献じおると」
しばらくして戻ってきた郎党は、黙って木箱を受け取った。
真夏の長い午後の光の中で屋敷背後の山を眺める。
岩舟山だったか。なんとなく記憶が刺激されて、また思い出そうと試みる。以前からこの前を通りがかるたびに気にはなっていたのだ。この山の姿、どこかかけ離れた記憶と繋がっている気がする。
石段をいくらか登った所で思い出した。新海誠のなんか辛気臭いアニメのワンシーンに出てきた風景だ。たしか雪の風景だった筈だ。
屋敷と思ったのは寺だったらしい。山中には高い築地塀が巡らされ、なるほど藤原文行が押し込められていたというのはここかと納得する。
アキラは境内の更に向こう、奥へと案内される。まだ登るらしい。
山頂にはもうひとつ寺があった。寺と言うよりは別荘かもしれない。
建屋を回り込むと、南側、崖に向かって舞台を張り出した作りとなっていた。清水の舞台みたいな、懸け作りというのだろうか、規模は小さいが眺望は大したものだ。
「良い眺めであろう。向こうに筑波山、あちら三毳山のそば、向こうに富士の見えよる」
直垂姿の藤原正頼が現れる。着ている直垂は白絹に金糸の縫い取りが施されており、その豪奢さは悪趣味と言うよりチグハグにも思えた。
藤原正頼は手を振って景色を示す。
「坂東治めるにふさわしき地よ」
アキラに手まねきして、更に眼下の風景を眺めるよう促す。
「この地は吾が一族の始まりの地そ。
かつて、あのあたり、安蘇の郡衙があったという」
指さす地はただの草原だ。東西に結ぶ道沿いに郡衙があったのだろうか。
「吾が家は元々は在庁とも呼べぬ下の下、史生の家であったという。それがここの郡司の謀反起こしおるを討って安蘇の郡司となったが武功の初めよ。
吾が祖秀郷と平の貞盛が兵集めたのもあの野原ときく。あそこで将門の手勢打ち破ったのよ」
さぁ参られよ、と今度は建屋内に手招きされる。
「才あり功ある者が位階高く昇るのは、わが一族と同じぞ。
一代で上り詰めるとはまこと道鏡のごとき。吾子もまた英傑にあろう」
床には畳が敷き詰められていて、酒宴の席が向かい合わせで二つだけ用意されていた。畳が床に敷き詰められているのを見るのは、この時代これが初めてだ。
「まずは、吾子のめでたきを祝おうぞ」
席につくと、杯を取るように勧められ、そのまま藤原正頼が直接酒を注いでくる。酒は香りのいい清酒だ。
藤原正頼の杯に酒を注ごうとすると手で制された。ああ、この場でアキラに毒でも盛られる事を警戒しているのか。それとも、
こちらの杯に毒でも盛ったか。
アキラは杯を飲み干す。毒殺されるならそれまでだ。
藤原正頼はこれを見て、ほう、声を漏らした。
「武蔵守の御息女を嫁取られる由、まことにめでたき。多少のお助けした甲斐のあり申した」
含みありげに笑って言う。
「吾子の先の婢女の良く消えおったのも吾の助けによるものにて。有り難く思われよ。
要らぬものの都合の良く死なれたこと、この日の事思えば吉事にあろう」
はしためとは、誰か。
藤原正頼は今、クワメ殺しを自供したのだ。
ゾクゾクと脳天の深い所から怒りが沸いてくる。顔を伏せて、表情を隠そうと努める。自制せねば。一方で、この姿は頭を下げているように見えるのではないか、と冷静な部分が分析する。
さて、ここでお礼の一言も言わなければ不審に思われる。
この後でとっととぶっ殺すのだから、この場では何とでも言える筈だ。しかしアキラには、絶対に、礼など言えるはずも無かった。
代わりの言葉を探す。
「こちらこそ寿ぎの言申し上げるべきでありましたな。そう、遅れておりました。ついぞ申し上げておりませぬ事、申し訳なき。鎮守府将軍の事まことにお目出度き」
ついつい、ちょっと早口になりそうなところを自制する。
「いやしかしこれで間に合ったというところよな」
藤原正頼は妙な事を言う。
「もう少しでこちらの手の者が役にたたなくなるという所で、坂東別当のお味方されること間に合って、安心いたした。
坂東別当も、先の世からの転生の者であろう。もはや隠さずともよかろう。
吾が家にも似たようなもののおるにて」
先の世からの転生の者。確かにそう聞こえた。
藤原正頼は立ち上がると、奥へと手招きする。
横開きの観音戸を開ける。中は灯明が灯っているが薄暗い。
「少々おぞましき形なれど、張り縄より奥侵さねば何の心配も要らぬ」
鬼だ。
緑色の大きな鬼が、そこに胡坐をかいて座っていた。それほど小さくも無いはずの部屋の天井に頭がつかえている。
片腕は無い。あのときの鬼だ。
室内に注連縄が張り巡らされ、そして奥で護摩が焚かれている。
護摩壇の前の男は、これは居眠りしているのであろうか。藤原正頼が軽くその背中をけり倒すと、男は枯れ木のような腕を振り回して抗議する。老人だ。
だが藤原正頼はそんなものは意に介さない。
「大叔父よもっと良く護摩焚かれよ。ここで間違いのあっては困る」
こいつが陸奥の陰陽師、藤原千清か。
「あれは、何ぞ」
アキラの言葉に、藤原正頼はなんでもない風に答える。
「あれは鬼に成り果てたが元は吾が子の五番目、五郎太よ。
育ちてしばらくして妙なこと嘘吹くようになりおって、吾が子とも思えぬようになったゆえ大叔父に預けおったのだが、そのうち嘘吹きの面白き事言うと聞いてな」
アキラのほうに向き直る。
「千年後と言うのはよほど色々変わりおるように思う。五郎太は色々知りおったが、智恵が足りぬ。
武者の百人埋める供養塚作っておいて、役に立たぬとか何とか、あれには愛想も尽きた。しかし聞くものが聞けば、様々に役立つというもの」
転生者である息子のほうは大したことが出来なかったが、藤原正頼は息子の言葉を聞いて役立てることが出来たという事か。
息子のほうは他の転生者たちと同じ、改変失敗というオチだったのだろうか。
転生による歴史改変は全て失敗するという説を改めて思い出す。仏教的な考え方をするなら、転生が因果縁起によって起きるとすれば、その結末も既に因果の中に確定済みなのだ。
「利根川の差し止めは」
「うまい手であったろう。経済という考えは面白き。差し止めは五郎太使いて忠常に吹き込んだのよ。されど吾子にああ破られるとは思わなんだ」
「吾を攫いしは」
「もう少しでこちらの手の者が役にたたなくなる、と言ったであろう。急ぎ忠常を片付けねばならなかったのよ。
安房へは遅くあったな。もう少し早くみえると思うておった」
葛飾の郡司もまた役に立たなくなりおった、と藤原正頼は軽く言う。生き霊は使い良いが、鬼の調子の悪くなるとなんともいかぬ。そう言うと片手を鬼のほうへ振る。
「見よ、もう人の姿には帰らぬ。この姿から戻らなくなってもはや二年になる。
春先からは、もう人の言葉も喋らぬ」
このはぐれ転生者も、異形への変化が進行しているのだ。
「今は霊所にかような陣張って護摩焚きで何とか変異抑えておるものの、そろそろ悪しき頃合にあろう」
藤原正頼はいつの間にか、あの木の箱を手にしていた。
「吾子がこれ持ち来てくれて、まこと良かった。これでこの鬼もよく殺し滅せる」
「……殺す、と。吾子の子であろう」
アキラは一歩あとずさった。更に一歩。
藤原正頼は顔を歪めると、憎しげな表情をした。
「これが何の吾が子にあろうぞ。臭き鬼ぞ。
よし、さぁ、吾子の腕なるぞ、さぁ取れ」
藤原正頼は箱の蓋を取って、干からびた腕を示すと、箱ごと注連縄の下から中へ、鬼のほうへと滑らせた。そうして注連縄から距離を取る。
予定が違う。
藤原正頼は鬼の腕を手にとってみるものとばかり思っていた。
ちくしょう。
アキラは駆け出した。隠れられるところを探す。この建屋は崖の上だ。まずい。
喜びとも怒りともつかない鬼の叫び声が聞こえる。アキラは耳を塞いで突っ伏す。
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河内郡大谷で採掘した多孔質の石は竈の材料として様々に多用されていたが、うち幾つか、冬の間使わなかった竈が爆発する事故があった。
調査をしたアキラはやがて、白い塩の結晶のような物質が石材の表面に現れているのを発見した。聞けば、冬の乾燥した場所では似たようなものが表面に析出するという。
性質は、まさに硝石のようなもの、としか言いようが無い。
アキラはこれと硫黄、木炭を混ぜて爆発を得られる混合比を特定した。硫黄と木炭は本当にこんなに分量が少なくていいのか。
桐の箱の下半分には、この火薬が重量にしておよそ百両詰まっていた。
特徴的な硫黄の匂いは、鬼の腕が臭いお陰で気づかれる心配は無い。
鬼の腕の半ばほどに、麻糸が結び付けられている。
肥料としてリン酸を更に得ようとアキラは獣骨に手を出していた。
骨を燃やし粉砕し、それを水に溶かして蒸留で取り出し乾燥させると、それなりの分量のリン肥料が得られた。
これを鉛光学ガラスの製造に使える純度の珪石で還元したのが、点火材として利用したリンだ。
ごく少量しか得られなかった。
麻糸の表面に、少量の硫黄、膠とガラスを磨り潰した粉と混ぜて塗布している。松精油をよく浸してガラスを磨り潰した粉を挟んだ布に、この麻糸は通されていた。
勢い良くこの麻糸が引っ張られれば、火が点く。
衝撃。
耳をつんざく轟音と共に爆発は、目を閉じていてもお構い無しに全てを白く埋め尽くした。
岩舟山の火薬爆発史のはじまりであります。
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#95 チリ硝石について
チリ硝石とは硝酸ナトリウムを指し、いわゆる硝石つまり硝酸カリウムとは別物なのですが、物性的にはほぼ互換、つまり黒色火薬の原料として使用することができました。但しチリ硝石は空気中の水蒸気にも溶けてしまうような潮解性があり、また性能も若干劣るものでした。鉱山で採掘されたチリ硝石のほとんどは炭酸カリウムと反応させて硝石に変換の上で使用されていました。
日本において硝酸ナトリウムがチリ硝石と呼ばれるのは、19世紀にチリがこの鉱物の一大産地となったからです。アタマカ砂漠の奥地、アタマカ塩湖がその産地です。このすぐ東の高地にはALMA電波望遠鏡が存在しています。
冬の乾燥した時期に大谷石、特に磨崖仏の表面にできるチリ硝石は”いわしお”と呼ばれ、古くから白い結晶質の物質がとれることが知られていました。また地下構内の乾燥したところでは気温が2℃を下回ると析出する事が知られています。この析出プロセスは今のところよく判っていません。