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#93:1023年4月 投降

 追捕軍は三月の二十四日には下総国庁を占領し、四月の五日には上総の国庁を攻め落としていた。スケジュールから多少遅れたとはいえ、順調なテンポだろう。

 しかし、アキラは予想していたことだが、戦争はそれで終わる訳ではまったくなかった。

 平忠常はどこか、千葉の山中に立て籠ってしまったのだ。


    ・


 香住海に浮かぶ船は帆柱を畳み終えると碇を下ろし、向きを固定した。

 そこから方梁を組み立てるのは素早かった。

 方梁はそのアームの反作用の関係上、舳先(へさき)の向きにしか投擲できない。

 そして岸を狙う都合上、船は川の流れに直角に逆らうように碇で固定しなければならない。更に目標に対して狙いを付けるために船の前後の碇を引っ張ったり伸ばしたり、面倒くさい作業が要る。

 目標との距離は、アキラの今いる位置と船を挟んだ三角測量で測定済みだ。


 香取の屋敷から入り江を挟んだ対岸にアキラたちは陣取っていた。

 三浦半島で建造していた全長十間、30メートル級の大型船を戦に駆り出す羽目にならなかったのは僥倖だった。

 追捕の官符より一足早く、大型船は九品津へ回航されていた。多聞、いや改名して野比太郎多聞も一緒だ。

 大型船は浮島と名付けられた。浮島は宋との交易に用いられる予定だ。しばらくは習熟航海が必要だろうが、準備ができたら遠路宋へと出かける筈だった。

 多聞にはずいぶん前に、もし宋まで行ける船が出来たならば手に入れてほしい物を話したことがある。覚えていてくれれば良いが。木綿は絶対に欲しい。


 望遠鏡で眺めている間にも、最初の火俵が放たれた。


 空を黒い煙の尾を引いて火俵が飛んでいく。

 方梁を載せた船は一隻きりだし船上は狭い。発射間隔はどうしても遅くなる。しかし直ぐに攻撃の効果は見え始めた。

 流石に目標が大きい。平忠常の壮大な香取の屋敷に火が燃え移るのが見えた。


「燃やす事無かろうに」


 誰かがつぶやく。アキラも同感だ。

 しかし、鎮守府将軍の命令は、方梁による焼き討ちだった。


    ・


 戦争は明らかに行き詰まっていた。

 追捕軍は下総を制圧はしたものの、上総となるとその支配は怪しいものだった。

 郷村の住人たちは乏しい食料を抱えて山に籠ったらしい。既に田植えが終わっていたのはせめてもの幸いと言えるだろう。

 どうやら上総の住人たちは、疫病や災害のたびに山に逃げ込むようだ。

 おかげで現地での食糧徴発は難しかった。


 千葉郷の外れで両軍が合戦してからもうひと月が経っている。鎌倉党に死傷者が多かったせいで、相模のほうは戦いにあまり積極的ではなくなっている。

 武蔵の武者たちは略奪に励み過ぎると注意がいくと、不服として同士討ちさえ起きかけた。面倒を起こした武者たちは武蔵へ戻したが、戦力はもちろん低下する。


 そもそも戦いでどれだけ頑張ったとしても、嬉しい事はまず無いのだ。

 戦国時代とは違う。攻めて奪った分を自領にできたりする訳じゃない。領地が増えるとすればそれは長い政治的プロセスの果ての話である。彼らが真剣になる理由は正直、無い。


 現在は大椎館という砦を巡って両軍の衝突が続いていた。山地の奥の盆地の、東京湾側と太平洋岸を結ぶ交通の要衝だ。

 砦の周りは沼地で、容易には近づけない。梅雨の時期になれば更に困難になる。


 下野軍のうち藤原氏の手勢と鎮守府将軍は自分たちの地元に引き揚げてしまっていた。だがそろそろ焦ってきている頃合いだ。

 長引けば、やがて朝廷の朝議の話題に上がり、遅れを叱咤されることになる。


 さて、朝命は追補である。捕まえて都まで移送すればそれで良い。

 武蔵村岡の平将恒の助命を材料に、平忠常の護衛移送をもちかける案がある。


 交通の要衝を抑える平将恒は当初の懸念材料だったが、アキラの誘拐が明らかになった早い段階で足利方の支持を表明していた。追捕軍に兵を出すとまで言っていたが、流石にそこまでは及ばないと断っている。

 しかし、朝敵の親族となれば累が及ぶのは避けられない。


 ただ、助命は比較的楽だと思っている。助命の正当な理由づけと助命嘆願が揃っていればいい。平忠常に投降を呼びかけたというのは理由になる。更に、それに応じてくれれば完璧だ。

 という訳で、平忠常が投降する条件はそれなりに揃っている。

 しかしこの案は、当初鎮守府将軍藤原正頼に拒否されていた。というか、そもそも鎮守府将軍名義の投降勧告は、壮絶な罵倒によって拒否されていた。

 以前の関係、常陸勢を巡って平忠常と藤原兼光が手を組んだのは実利のみによったものだった。実利を失った今、再び平将門に遡る先祖の仇敵に関係は舞い戻っていたのだ。


 完膚なきまで平忠常を叩きのめし、一族を滅ぼすと息巻いていた藤原正頼だったが、しかし戦が伸びる気配を見せると態度が変わってきた。

 足利勢による直接交渉が承認されたのだ。


 直接交渉とはすなわち、上総内陸の夷隅郡まで弩弓隊を率いて秘密裏に侵入し、偽国庁で平忠常と直接対峙することだ。

 アキラのこの説明に、足利勢の主なものは皆呆れ果てたという態度で応じた。


「話にならぬ」


 頼季様は吐き捨てるように言われる。


「気の病ぞ。目代は少し那須の温泉で病癒されるがよかろう」


 小金部岩丸はひどいことを言う。


「いや、詳しく事聞かれよ」


 アキラは説明する。

 敵郎党と接触することなく夷隅郡内に侵入できる山道があるが、これはかなり険しい。人数を絞らないと走破は難しいだろう。

 その為に、弩弓隊から山林の行動で成績の良かった十名を選抜し、更に神子兵から傀儡子出身で上総の土地勘のある者を数名付ける。

 あとは夜間行動で偽国庁に侵入する。堂々門を叩いてもいい。流石にそこまで来れば会うのを拒否はすまい。ただ、その後アキラが生きている保証はない。

 いや、一応、弩弓隊にはいざ脱出という際に援護して貰う計画にはしている。ちゃんと考えはあるのだ。


 しかし、


「使い送られよ。それのみで良かろう」


 君子部三郎が言う。


 いや、実際に夷隅の偽国庁に行ったことがあり、そして平忠常に会ったことがあるのはただ一人、アキラしかいない。アキラが行くのが最善である。

 しかし、頼季様の判断は変わらなかった。


「許す事出来ぬ」


   ・


 ところが翌々日には全く違う話の流れとなった。

 平忠常からの使いが来たのだ。

 手紙の宛先は頼季様である。


「アキラよ、行ってくれるか」


 頼季様は舟でひと足先に安房へと向かう。アキラは北郷党五名と上総の土地勘のある者二名の計八名で出発した。全員が騎馬である。

 上総の太平洋岸、山辺郡に入ってすぐ、左右に上総の騎馬武者が付く。どこから現れたかわからなかった。いつの間にか、さっと左右に付いていたのだ。


 平忠常からの手紙の要点は、源頼信殿への投降である。

 仇敵である藤原正頼に屈することなく、かつて名表を預けて臣下となった源頼信殿のもと、源頼信殿の息子である頼季様に身を預けて、その護衛のもとに都へと行く。これは追捕であると言えばまさしくそれである。

 ルートとしては、安房で頼季様に投降し、船で鎌倉へ行き、急ぎ足柄を超えて、太政官符が許した鎮守府将軍の権限範囲四ヶ国を脱出する。そしてあとは都に辿り着けばいい。

 朝命に従い、仇敵に屈しない。平忠常の取ることのできるぎりぎりの選択だ。

 使節には、アキラがほぼ名指しで指名されていた。


 一行は急かされたように道を進んでいた。いや、実際に急かされていたのだろう。

 暗くなってから一行は民家に宿を取った。民家の周囲には夜を徹して歩哨が立っているようだった。


 朝になって騒ぎが少しあった。一行はいつの間にか襤褸(ぼろ)を着た人々に囲まれていたのだ。上総の騎馬武者と押し問答の結果、囲んでいた人々は見えなくなった。


「何であったか」


 武者に聞くと、初めは答えなかったが、やがて進む道のあちこちに、様々な格好をした人々が監視するように離れて立っているのを見るようになった。

 しばらくして、ようやく武者は教えてくれた。


「疫座の者ときく」


 全く心外だという口調で武者は言う。


「吾子の身の安心をば確かめおると言うておる」


 千葉に近くなったと思しき辺りで、一行は進路を大きく海岸側に取った。大椎館の周りの藤原正頼の兵と接触するのを避けたのだ。


 翌日夕方には見覚えのある地形に辿り着いていた。夷隅だ。


    ・


 平忠常は以前見た時よりひとまわり小さく見えた。


「我が父の法要の時以来か」


 覚えていたか。


「信田の小太郎は如何にした」


「疱瘡流行りし際に死におりました」


「あれに討たれるのであれば本意であった」


 滅茶苦茶弱気じゃないか。

 今着ている毛皮の服、これは最近知ったが渡島つまり北海道産のアザラシの毛皮で出来ている。ずっと以前香取で着ていたあの服がこれほどよれて、惨めに見えるとは思ってもいなかった。

 これは励ましが要るのではないだろうか。


「討たるるなど申されるな。都にて申し開きされよ。そもそも事の次第おかしき」


 そもそもだ、


「何故に吾を攫うよう命じられた」


「知らぬ事ぞ」


「安房の国庁、何故に焼かれるよう命じられた」


「知らぬのだ。勝手動きおった者のおる」


 平忠常の眼に光が戻る。


「だが、誰の差し金かは分かるぞ。藤原正頼よ。

 あれの子と叔父を下総に迎え入れたのがそもそもの間違いにあった」


   ・


 藤原正頼の子は藤原の頼遠、元服前は五郎太と名乗っていた。千葉寺の法要のとき、平忠常の背後にいた若侍だ。あの時期はまだ元服していなかったらしい。

 この叔父と言うのが陸奥の陰陽師、藤原千清だ。藤原秀郷の遠縁だったらしいが陸奥で陰陽を修行し、様々な悪法に通じていた、という。過去形なのはしばらく前に二人とも下野に帰っているからだ。


「五郎太は面白き童子であったな。あれを正頼はよく思っておらぬようで、不憫に思うた事よ」


 彼らは藤原兼光との協力関係の架け橋、藤原兼光の代理人だった。

 しかし、どこかでその関係が変わったのだ。


「吾子に乗り換える算段よ、目代、いや坂東別当か。

 利に敏い考えであるが、敏きに過ぎる。つまり兼光にあらず。正頼にあろう」


 平忠常は馬上でそう語った。

 長い列が谷間をゆっくり進んでいく。平忠常の家族だ。彼らは鎌倉で保護することになっていた。

 一行は夷隅を出発すると勝浦へと向かっていた。


「正頼の息かかりし者が下総にはびこっておると知ったのは最近のことよ。

 手遅れにあった。葛飾三郎まで息かかりおるとは」


 えっ、葛飾の郡司が、ですか?


「吾子とは親しくしておったか。哀れにも三郎は先日、泡吹いて死におった」


 毒であろう、と平忠常は言う。

 善き男にあった、と平忠常は続けて言う。無慚とはこの事よ。



 海が近くなった頃、平忠常はかつてアキラに問うた言葉を再び口にした。


「藤永のアキラよ、吾子が成しておるの何ぞ」


 そういえば、あの時は確か答えていなかった。


「美味きもの食べ暖かく寝る。吾の望みはそれだけにて。

 されど、ただ長者になるだけでは、吾の望むところに届かず」


 この時代、どんなに権力を得たとしても、21世紀の暮らしには届かない。


「吾の望むところは、誰も持ちておらぬ所にあります。

 つまり、奪いて手に入れるものにあらず」


「佛僧のごとき言いおる。何の違うか」


「百姓みな長者にしてようやく、吾の望むところ叶いましょう。

 塩の安くなれば肉も海の魚もよく出回りましょう。味噌も醤も普段より使えるようになり、小麦使うもの、油使うものも易くなりました。

 これら皆百姓の食うことにより、更に美味きものが現れましょう」


「気の長き話に聞こゆ」


「しかし、これ五年ほどの事にて」


 そこで平忠常は黙ってしまった。しばらくして、


「途方も無き事に聞こえおる」


 そう呟きが聞こえた。


    ・


 勝浦には鎌倉の三角帆の船が二隻待っていた。このタイプの船は最近では信田舟と呼ばれているらしい。

 平忠常とその家族、近しい郎党が船に乗ったのを確認すると、アキラは残った郎党たちと話し合うために踵を返した。

 平忠常の身の安全が確保されたと思しき辺りで、各地の平忠常の郎党たちを無事に投降させなければならない。

 戦の終結はもうすぐである。

#93 温泉について


 作中時代において関東で知られていた温泉は三箇所、万葉集に九首その名が見える伊香保と一首見える湯河原温泉、そして延喜式に温泉神社の名が見える那須湯本温泉です。温泉神社の祭神は貞観十一年には従二位に加階されています。奈良時代には官人の湯治場として記録が見えています。

 温泉神社は各地にあり、たとえば延喜式には陸奥には二社、出羽にも温泉鎮護の神社が一社見えます。

 伊香保は万葉集では歌枕に使われていますが温泉を利用したと確かに読み取れる記載はありません。伊香保神社も初期には温泉地には存在せず、麓にあったものと思われています。ただ、榛名湖と思われる伊香保沼が詠われており、榛名の登山は行なわれていたものと思われます。温泉街は南北朝期には伊香保神社と共に存在していたようです。

 草津、藪塚の両温泉には行基による開湯伝承が、四万温泉には坂上田村麻呂による開湯伝説がありますが真偽はとはいうと怪しいものです。有名な温泉地の多くは戦国時代に地方領主の管理記録と共に文献に現れるようになります。鬼怒川温泉は江戸時代に発見されたものの、温泉地となったのは明治以降でした。

 ただ、四万温泉の開湯伝承には平貞道(碓井貞光)によるとするものが伝わっています。碓井の姓の通り上野に縁のあるとすれば、現実感のある伝承でしょう。

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