第25章 種に関する部分の論考後半:実体と偶有について
Cap. 25. Partis specialis tractatus posterior: de substantia et accidente.
種に関する部分の論考後半:実体と偶有について
§. 1.
【問い】
Quaenam est praeterea divisio entis in species?
他に存在を種へと区別する方法はあるか?
【答え】
Cum dividitur in substantiam et accidens.
実体と偶有に区別するとき。
§. 2.
【問い】
Compara mihi divisionem hanc cum praecedente?
前の区別との違いを私に教えて欲しい?
【答え】
Cum dico, ens est vel Deus, vel creatura, idem est ac si dicerem: ens aliud est a se, (nempe Deus,) aliud ab alio, a Deo puta, (nempe creatura,) ita cum dico, ens est vel substantia vel accidens, idem est, ac si dicerem: ens aliud est in se (nempe substantia,) aliud in alio, puta in substantia (nempe accidens.)
存在には神と被造物があると私が言うとき,それは,存在にはそれ自体で存在するもの(すなわち神)と,例えば神などの他者によって存在するもの(すなわち被造物)とがあると言うのと同じである。これに対して,存在には実体と偶有とがあると私が言うとき,それは,存在には自らにおいて存在するもの(すなわち実体)と,例えば実体などの他者の中に存在するもの(すなわち偶有)とがあると言うのと同じである。
§. 3.
【問い】
Quid ergo est substantia?
では,実体とは何か?
【答え】
Ens per se subsistens. Seu: quod non est in alio tanquam insubiecto.
それ自体で成立している存在。すなわち,他のものを主体としてそこにあるのではないもの。
§. 4.
【問い】
Da exemplua.
例を挙げよ。
【答え】
Homo, arbor, lapis.
人間,木,石。
§. 5.
【問い】
Quid est accidens?
偶有とは何か?
【答え】
Ens non per se subsistens. Seu: quod est in alio, tanquam in subiecto.
それ自体では成立しない存在。すなわち,他のものを主体としてその中にあるもの。
§. 6.
【問い】
De exempla.
例を挙げよ。
【答え】
Eruditio, (quae est in homine;) viribitas, (quae est in arbore;) durities, (quae est in lapide.)
賢さ(これは人間の中にある),豊穣さ(これは木の中にある),硬さ(これは石の中にある)。
§. 7.
【問い】
Quaenam praeterea notanda occurrunt de substantia et accidente?
さらに,実体と偶有についてはどのようなことが註記されるか?
【答え】
Tradi haec solent in logicis, cum agitur de decem praedicamentis, quorum primum est substantiae, reliqua novem accidentium. Igitur ad istam logicae partem te remitto.
このことは,論理学において論じられる慣わしになっている。なぜなら,そこにおいて,10の述語すなわち1つの実体と9つの偶有が扱われるからである。したがって,私は君を,論理学の部に委ねよう。
【訳者解説】
ヤーコプ・トマジウスは、実際に『初学者のための論理学一問一答』(Erotemata logica pro incipientibus, 1670)も著している。
この後、形而上学史に関する付録が続きますが、それはまた稿を改めさせていただきます。
以下、簡単な訳者解説を付させていただきます。
【1、形而上学の発見】
形而上学。何だか難しい言葉です。形而という言葉自体、日常では全く使いません。しかしギリシャ語に着目してみると、話はいたって簡単になります。ギリシャ語ではこれを、メタフュシカと言います。フュシカというのは自然学ですから、形而上学とは、メタ自然学なのです。
では、何をメタしているのでしょうか。ここで少しばかり、アリストテレスが残した業績を振り返ってみることにしましょう。アリストテレスは、言語が主語と述語から成っていることに着目し、述語が主語の本質を規定していると考えました。
例えば、
ソクラテスは人間である。
という命題があるとき、これはソクラテス本質のひとつとして、「人間であること」が含まれていると考えたのです。ここから古典論理学、とりわけ三段論法が成立するわけですが、それは論理学の解説に譲りましょう。ともかく、アリストテレスは、主語ー述語の相互関係をもとに研究を進めて行きます。すると、彼はある面白いことに気付きました。彼は、「全ての主語の述語になることができるもの」を見つけたのです。それこそが「存在」であり、これがあらゆる自然学のメタ部分に該当する概念なのです。
スクラテスは存在である。
犬は存在である。
地球は存在である。
宇宙は存在である。
ほぼ全てのものについて、この「Xは存在である」が成立します(「無は存在である」が成立するかどうかは、難しい議論になるので、ここでは省略します)。
ところで、存在とは何でしょうか。この問いが、形而上学の始まりでした。そしてこの問いは、「時間とは何であるか」と同様に、質問される前は誰でも知っているが、質問された途端誰も答えられなくなるようなタイプの問いだったのです。
存在を例示することは簡単です。「存在の例を挙げよ」と言われれば、身の回りにあるもの全てがその回答になりえます。パソコン、空気、人間など、枚挙に暇がありません。ところが、「存在それ自体を指示せよ」と言われると、答えに窮してしまいます。存在それ自体などというものは、日常経験で捉えられる範囲にはないのです。
アリストテレスおよび後世の学者は、ここでうまいことを思いつきました。存在それ自体を見たり聞いたり示したりすることができないけれども、存在それ自体の性質は解明することが可能だと考えたのです。本書『初学者のための形而上学一問一答』でも、存在の本性と属性が問題になるのは、このためです(第1章第3節)。本丸が不可視なので、とりあえず見えそうな外堀から埋めて行こうというわけです。
アリストテレスの最も大きな発見のひとつが、ここで生まれます。すなわち、存在は必ずしも現実に限られないということです。なぜなら、人間は、現実にはない存在についても考えることができるからです。この「存在」と「現実」との厳密な区別、すなわち「Xが存在する」ことと「Xが実在すること」との区別は、日本語には今日でも現れていません。日本語で「宇宙人は存在するか」と尋ねた場合、それは「宇宙人は実在するか」と同義です。「宇宙人は存在するが、実在はしない」という言い方は、日本語では混乱を招きます。
【2、本書の構成】
このようなアリストテレス哲学を下敷きにしたヤーコプ・トマジウスも、存在の属性の記述にほとんどのページを割いています。彼によれば、存在の属性は、以下のように分類できます。
対になっていない属性
- 単一性(第4章)
- 真理性(第5章)
- 善性(第6章)
対になっている属性
- 直接的な属性
- 現実と可能(第7章・第8章)
- 原理と派生(第9章)
- 因と果(第10章ー第14章)
- 必然と偶然(第15章)
- 間接的な属性
- 単純と複合(第16章)
- 全体と部分(第17章)
- 同一と差異(第18章)
- 普遍と個別(第21章)
- 有限と無限(第22章)
- 完全と不完全(第23章)
この構成から分かるのですが、存在の属性を研究することは、近代以前には、抽象概念の整理に繋がっていたのです。これにより、近代以降の自然科学および数学の発展を準備する下地が整いました。
一方、近世以前と近世以降を決定的に分けた点も、この形而上学的な世界観にあります。まず最初に問題になったのは、ギリシャ哲学がキリスト教と結びついた結果、自然研究が神学と強く結びついてしまったことです。本書においても、全ての属性は神と被造物との差異を説明するために用意された観が否めません(とりわけ第24章)。18世紀に入ると神学も信仰と理性の区別を段階的に認めるようになり、学問の第一線から退きます。そのことを踏まえると、ヤーコプ・トマジウスは、キリスト教が理性的に証明できると考えていた最後の世代に属します。啓蒙主義の時代は、すぐそこまで来ていたのです。